・ 最初の療養の地、桜山神社の下の鳥居の隣
旧東行庵址
高杉晋作は慶応二(一八六六)年の後半肺病が大分進んでいた。桜山に庵を借りて静養につとめようとしたがなかなかそううまく行かなかった。「細君は将に我が閑居に到らんとす。妾女は胸間に患余りあり。是より両花艶美を争う。主人は挟手す意如何」という詩をつくったりしている。
(写真集 明治大正昭和 下関より)
・二番目の療養の地、山中
参考
① 高杉晋作の療養の地(参考)
高杉晋作は慶応2年(1866)6月からの四境戦争(第二次長州征伐)で、奇兵隊などの諸隊を率いて幕府軍を小倉口で撃退しましたが、この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社の近くのこの地に小さな家を建てて、10月下旬、東行庵(とうぎょうあん)または捫虱所(もんしつしょ 『捫虱』はシラミを潰すいう意味)と名づけ、野村望東尼(のむらもとに)、愛人おうのの看病による療養生活を送りました。
翌慶応3年(1867)3月、正妻のマサが看病のため萩から訪れたことを機に、新地の林算九郎(はやし さんくろう)邸の離れに移りました。
② 高杉晋作の終焉の地(参考)
高杉晋作の終焉の地は大庄屋、林算九郎の宅地、下関市新地町3-22
林家は堺から出てきて造り酒屋を営んだ。算九郎自身は宇部の出身で養子に入った。そして白石正一郎の息子・東一郎に林家の次女タネが嫁ぎ、林家と白石家は血縁関係にあった。
③ 療養生活(参考)
④ 下関市吉田の東行庵は幕末の奇兵隊の陣屋があった所で、山縣有朋所有の別荘の無隣庵であったが高杉晋作の妾、おうのに与えられ、晋作の菩提を弔ったものである。