高杉晋作と小門の小瀬戸 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高杉晋作は功山寺の決起の後、小門の夜焚きの船遊びで有名だった伊崎町の小門で七卿と密議を交わした。この時の小門の小瀬戸の風景が忘れられなかったのであろう。

結核を患い、桜山の近くの山中の家で療養していた時も、小門の小瀬戸の風景を愛でに行っていたようだ。

赤丸: 小門の報済園と小瀬戸、緑丸: 高杉晋作療養の地(山中の家)


参考


① 小戸の報済園には、高杉晋作が七卿と密議した所との話が残っている。

功山寺の決起後、新地会所を襲い、近くの了圓寺に奇兵隊と一緒に滞在し、約一週間後に萩の俗論党との戦いを始めたが、その間の事であろう。七卿はこの後、太宰府に移動する。

もし、この密議が事実であれば、高杉晋作の功山寺に滞在される七卿に大見得を切った「功山寺の決起」は単なるデモンストレーションであったことになる。

南から見下ろす(3D)、下関市伊崎町2丁目11

報済園とはまだ伊崎町が小門の夜焚きの船遊びで有名だった頃(明治~昭和初期)化粧品問屋の藤津氏が病弱な一人娘の為に大正15年(1926年)に建てた庭園のある別荘。

当時は各界の名士も多く来園し、戦前までは一般市民にも庭園を無料で開放していたそうです。今は封鎖されて園内には入ることはできません。

園内には当時を偲ばせる石碑を見ることができます。上の碑は庭園の入口付近にあったもの「高杉先生 七卿ト國事ヲ議セシ地」と刻まれています。でも、ここで高杉と七卿が会ったという記録はどこにも残ってないそうです。

(彦島太郎の四方山話より)


②-1 高杉晋作労咳(肺結核)発病
小倉戦争大里戦(第2戦)慶應2年7月2日、晋作は幕府軍艦富士山丸攻撃を合図に大里上陸作戦を開始した。この作戦では戦利品は少ないものでしたが、幕府軍へ与えた恐怖心は大きなものがありました。

小倉戦争が幕府守勢になった頃、慶応2年7月22日、突然、白石正一郎日記に「高杉不快・見舞い」の文字が出現します。

「晋作の病」の報は奇兵隊や各方面へ衝撃を与え、心配をした各所から鯉が届けられました。鯉の煮汁には、ビタミンB2・B6・B12がたっぷりと含まれています。これらのビタミンや鯉の生き血は結核に効力があると言われていました。

しかし、第3戦(赤坂の戦い)では、晋作は病中のなか無理をして参戦、晋作の病状はさらに悪化し、遂に9月4日喀血となりました。



②-2 病にふせる高杉晋作は小門の小瀬戸の風景を愛して訪れた

高杉晋作の主治医

慶応3 年4 月14 日、高杉晋作は下関での療養も空しく短い生涯を閉じました。

晋作の治療にあたった主な医師は4名、晋作が亡くなった際、遺族は李家文厚(7 両2 歩)、熊野祥甫(7 両)、石田静逸(5 両),竹田祐伯(3 両)の薬礼を贈り、晋作生前の厚治に報いている。

李家,竹田の両家は萩藩医中の名門,熊野家は老臣国司氏(5,600 石)の抱医。3 者は攘夷・対幕戦時に萩藩が設置した馬関をはじめとする各地の軍陣病院に出張、戦時医療に寄与した。主治医は石田静逸(精一)。馬関に開業する町医師であった。

晋作が不快を訴え,萩藩医長野昌英の診察を受けたのは第2 次征長中の慶応2年7 月末。晋作はこの頃から体調の悪化を自覚していたが、激務連続により病状はさらに進行し,九月初め白石正一郎邸で血痰を吐いた。(白石正一郎日記)

初戦田ノ浦の戦いに勝利した晋作は本陣を白石正一郎邸に移していた。正一郎は白石家の家医(町医)の石田精一に往診依頼した。在関高杉の診療に関与した萩藩医はみな一流の蘭医であったが、いずれも安静と滋養を説くに止まった。

精一だけは病者の生命力の活性化を重視し,晋作の精神的ストレスの緩和に努めた。その点こそが石田を主治医として扱い、晋作が深い信頼を寄せた最大の理由であった。(日本医史学雑誌より)

晋作の最晩年に書かれた『丁卯詩稿』(慶応3年)に、亡くなる1,2 カ月ほど前に詠じた「小門の夕棹舎に游ぶ」と題する詩がある。

晋作は此の日、小門に住む石田精一のもとに重い病状にも関わらず小門へ独行した。目的は小瀬戸の景物を愛でつつ,談話を楽しむことであっただろう。

軽暖軽寒春色晴 軽暖軽寒春色晴れ
閑吟独向小門行 閑吟して独り小門に向ひ行く
梅花凋落桜猶早 梅花凋落して桜猶ほ早く
窓下唯聴夕棹声 窓下唯聴く夕棹の声・・・

この詩を講義で取り上げ当時小瀬戸が下関の景勝地であったことを偲びます。


②-2 その2

晋作の最晩年に書かれた『丁卯詩稿』(慶応3年)、亡くなる1、2 カ月ほど前に詠じた「小門の夕棹舎に游ぶ」と題する詩があります。

主治医 石田精一邸を晋作は重い病状のなか訪れています。小門独行の目的は、小瀬戸の景物を愛でつつ、談話を楽しむことだった。

石田邸の小門は、当時小瀬戸に面した伊崎浦奥に位置する下関有数の景勝地でした。


②-3 高杉晋作療養の地
高杉晋作の療養地は「終焉の地」が有名ですが実は4か所

⑴ 白石正一郎邸にて発病

「慶應2年7月22日高杉君不快」 終に9月4日吐血

⑵桜山神社鳥居下に移り療養に集中

小倉戦争は8月1日小倉藩は城に火を付け香春に撤退。小倉戦争は勝利が決定的となり、晋作は慶應2年10月20日役職を免ぜられ療養に集中した。桜山七絶(時予移家 干桜山下)の漢詩。

⑶山中の家に転居、深刻な病に再起をかける

慶應2年暮れ、刀を売り山を買って住む。武士の魂まで失ってただ再起を目指した場所。丘は低く崖に続き道はうねり山に上っている。病気を靜養するにはもってこいの場所。そこは桜山招魂社の見える丘の家であった。

⑷林算九郎邸離れ(終焉の地)

面会謝絶に日々、晋作を見舞うため来関した幕末の志士がいた。慶應3年3月21日、危篤状態であり面会することができなかった。なんとその偉人は...土佐藩士中岡慎太郎であった。



白石正一郎邸跡

桜山神社


③ 高杉晋作、療養の地(参考)