漢文は秦の始皇帝が作った東アジアのエスペラント語であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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高校教科書で習う漢文は現代中国の標準語で無いことは、当然知っている。それでは、古代の中国語であったのであろうか?

現在の中国大陸の漢民族の中の主流は北京語を喋るが、広東語などとは通訳が要り、漢文はどちらとも全く異なる。漢文が出来上がった古代の秦の始皇帝の秦時代から漢時代においても、多くの民族と発音の異なる言語があり、話し言葉同士は全く通じていなかった。

ところが、秦の時代の遺跡から出てきた石に刻まれた碑文や木簡・竹簡などは漢文として読み下せ、漢文を勉強した学者なら容易に解読出来て日本語に変換出来る。古代日本の行政組織文書、仏教経典などは漢文で書かれ、韓国も李氏朝鮮時代までの支配階級は漢文で行政文書を作成していた。

すなわち、秦の始皇帝が定めた漢文は発音が違って聞き取れない言葉も筆談可能な人工言語であり、東アジアのエスペラント語であった。

文法はどうであろうか?

主語・動詞・目的語の語順で、英語や中国語と同形式であり、屈折語に分類され、主語・目的語・動詞の語順でテニヲハと言う助詞を持つ膠着語に分類される日本語とは一般的には異なると理解され、我々は漢文を古代中国語と誤解している。

ところが、「史記秦始皇本紀」の冒頭において「秦始皇帝者、秦莊襄王子也」とあるが、これなんか「秦の始皇帝は秦の荘襄王の子なり」と、「者」を「は」、「也」を「なり」と読み、適当に助詞「の」を挿入すれば、そのまま日本語として読み下せる。「漁夫之利」なんか、「之」を「の」という助詞と見なせば「漁夫の利」として日本語になる。その他、漢文の中には中国語としては特に必要ないリズムを取るための助字というものがある。漢文は当時の原日本語なども考慮し、助詞の様なものも用意した万能言語であった。

すなわち、漢文は本来は秦文と呼ぶべきもので、漢文の存在が秦の始皇帝が非漢民族であったことの証明となる。秦の始皇帝は原日本語を喋っていたと著者はすでに指摘したが(参考)、原日本語と古代の中国語群を網羅する共通言語の確立が必要であったのである。


雑談1
日本語だけなら万葉仮名とか漢字仮名交じり文で厳密に文章を書け、仮名なら日本語の正しい発音も表現出来るが、他国の異言語の人とは文通出来ない。

ヤマト政権が漢文を作成したからと言って、中国大陸の漢民族の中華文明を先進文明として取り入れたとするのは誤解である。


雑談2
漢文は漢字の意味を一意に定めるが、発音は読み書きする民族の言語によって違ってくる。すなわち、古代の各民族の言葉の発音は分からなくなり、例えば、古代漢語の発音とか、秦の始皇帝の喋った秦語の発音は分からないことになる。

だから、日本人が漢文と漢字仮名交じり文の両方式を共に使用し、さらに厳密に発音を表現出来る片仮名と平仮名を発明したことは素晴らしいことである。


雑談3
お隣の朝鮮半島の言語もハングル文字のおかげで、発音も含めた言語研究は今から600年は遡れることになる。


雑談4
日本書紀や古事記が漢文で書かれていたとすると、写本が他国に渡り、例えば中国で読まれることを意識していた証拠である。

万葉集は万葉仮名で書かれているから国内向けであり、外国人に読まれる恐れはなく、本当のことが書かれている可能性が大きい(参考)。


参考

① 中国語を中国語では何と言うのか(参考)

前半省略

わたしたちが中国と呼んでいる黄色い大地、とにかく日本の26倍もの大陸国家なのですから、いろんな遺伝子の人が住んでいるのですね。56の民族がいるのですから、言葉もたくさん存在するのでしょうね。

その中の9割が漢民族なのだそうで、だから私たちがふつう「中国語」といっているのを、中国では「漢語」、漢民族の使う言葉という意味でそう呼んでいるのだそうです。まったくその方が科学的でもあり、正確だから、それなら日本でも早速使ってみればいいのに、世の中思うように行かないもので、日本語では音読みする漢字語のことをずっと「漢語」と呼んでいたので、使うわけに行かない、そういう事情があるようです。

でも、同じ漢民族といったって、不思議なことに、北の人間と南の人間とでは話がまったく通じない、通訳が必要だとよくいわれています。これまでは人的交流はお役人くらいに限られ、漢字があれば、なんとか共通語の役割を果たしていたのでしょうが、今は庶民の交流は盛んで、昔のようには行かないので、大陸の方では多数決原理によって漢民族の言語である「漢語」を共通語と決め、それを「pǔtōnghuà」(普通語)呼んで、建国以来、その普及に努めてきたのだそうです。

ところで、東京外国語大学名誉教授の岡田英弘さんは「中国語」についてこんなことをおっしゃっていました:

始皇帝が統一を果たしたあとの前二一九年、始皇帝は漢字の字体を統一して「篆書(てんしょ)」を創りだした。その後、始皇帝は民間の『詩経』『書経』などを引きあげて焼いたが、宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、法令を学ぼうという者は吏をもって師となす、すなわち私の学派でなく、公の機関で漢字の使い方を習うことに決めたのである。

ところがこれは、裏返せば、漢字の読み方を秦語にし、秦の方式に統一したということである。共通語はまったく存在しなかったのを、始皇帝は強引に漢字の字体を一定にし、三千三百字だけを選んで読む音も各字一つに決めたのである。

この結果、一つ一つの漢字が意味するところと、それを表す音とが分離して、関係がなくなってしまった。これを秦以外の国の人から見れば、漢字を外国語で読むのと同じことになった。もとは各地方で読まれていたそれぞれの音に意味があったはずだが、こうして漢字の音は、意味を持ったことばではなく、その字の単なるラベルとなった。

しかし漢字の読み方の統一は、時代が必要としたものだったから、そのまま秦から漢へ継承されて、一定の方式になっていった。

それから四百年が経って、後漢の一八四年、黄巾の乱が起こった。中国全土は混乱の極に達し、人口は五千六百万人あまりから、一挙に四百五十万人以下に転落した。

このとき、儒教系の学者たちは、それぞれ師匠から口伝を受けていた発音を整理して、漢字の音を伝える「反切」と、それを体系化した「韻書」というものをつくりだした。中国文化の象徴のように言われる儒教であるが、もう少しで断絶する運命であった、古い時代の漢字の読み方を伝えたことに、その存在価値があるのである。

後漢末に人口の激減した中国に、北方の遊牧民がたくさん移住し、かれらが、隋・唐時代の新しい中国人となった。六〇一年、鮮卑(せんぴ)人の陸法言(りくほうげん)は、漢字音を学ぶために、『切韻(せついん)』という韻書をつくったが、これは六〇七年にはじまった「科挙」の試験の参考書として大流行した。儒教は、その経典類が科挙の出題範囲に定められたため、宗教としてではなく、漢字の用例集としての役割を果たし、知識階級の文章の出典となったのである。

しかし、このようにしてつくられた「反切」も「韻書」も、当時の中国のどこかの方言を反映したものではなく、まったく人工的な音であった。あくまで文字の世界での出来事であって、ほんとうの中国人のしゃべっている言葉とはなんの関係もなく、中国人それぞれが独立の言語を話していることには変わりはなかった。中国は、秦の始皇帝以来、文字だけ、つまり表面だけの統一を続けて、二十世紀にいたったのである。

現代中国においても、少数民族の言語以外に、中国語とされていることばだけで何十とあるが、その中で、すべて漢字で書けるのは北京語と広東語の二つしかない。それ以外は、例えば上海語でも福建語でも客家(ハッカ)語でも、文献や標準語からの借用語以外のことばは、漢字では書き表せない。

以下省略


② 中国語音読入門  現代中国語との違い(参考)

ここでは、有名な『論語』の冒頭の文章を、中国語で読み、漢文と現代中国語との違いを見てみることにします。

『論語』という書名は、中国語では「Lún  yŭ(ルンユィ)」と読みます。「論」を「lùn」ではなく、「lún」と読むのは一種の読みならわしで、「異読」といいます。これについては後で述べます。→(11)

この『論語』冒頭の文章は、たいへん有名なもので、今でも高校教科書に出ていますから、皆さんもご存知だと思います。

(原文)
子曰、学而時習之、不亦説乎。
有朋自遠方来、不亦楽乎。
人不知而不慍、不亦君子乎。

(中国語で音読)これもカタカナはあくまで参考です。
  yūe、 xué  ér  shí    zhī、     yuè  
ズ ユェ、シュェ アル ス シ ズ、 ブ イ ユェ ホゥ
yŏu  péng    遠方yŭanfāng   lái、     
イォゥ ポン ズ ユェンファン ライ、ブ イ ルォ ホゥ
rén    zhī  ér    yùn、     君子jūnzĭ  。レン ブ ズ アル ブ ユィン、ブ イ ジュンズ ホゥ

(訓読)標準的な訓読に従っています。
いわく、まなんでときこれなろう、またよろこばしからずや。
とも遠方えんぽうよりきたり、またたのしからずや。
ひとらずしていきどおらず、また君子くんしならずや。

(現代語訳)標準的な解釈に従っています。
孔子がいわれた。「学んだことを、いつも復習するのは、なかなか愉快なことじゃないか。
友達が遠方から訪ねてきてくれたりするのも、楽しいことじゃないか。
人が分かってくれなくても、腹を立てないのは、なんとも立派な人物じゃないか。」

私の後輩に、中国語をずいぶん熱心に勉強している女性がいます。彼女は中国語の検定試験にもチャレンジしている達人ですが、この『論語』の文章を一目みて、「これも中国語ですか? 私には全く分かりません!」と言いました。彼女ほどの人が、本当に「全く分からない」のだろうか、と私はちょっと驚いたのですが、現代中国語と漢文では、かなり違いがあるのは事実です。現代中国語だけしか習っておらず、 漢文を読んだ経験がなければ、「全く分からない」ということも、ありうるかもしれません。

漢文と現代中国語との違いを見ていただくために、原文と現代中国語訳と対比してみます。原文と訳文では、語順などの文の構造は、ほぼ同じですが、語彙は全く違っています。これは、日本の古文、たとえば『源氏物語』と現代文では、文の構造は同じでも、語彙が全くちがうのと似ています。

(原文)子曰、学而時習之、不亦説乎。
(現代中国語訳)孔子説,学習知識而常常温習它,不是很高興的事嗎?
(原文)有朋自遠方来、不亦楽乎。
(現代中国語訳)有朋友従遠方来,不是很快楽的嗎?
(原文)人不知而不慍、不亦君子乎。
(現代中国語訳)不被人了解,而不生気,不是真君子嗎?

もうすこし細かく対比してみましょう。「=」は、古文の語彙を現代語の語彙に機械的に置き換えたことを示します。「→」は、機械的な置き換えでは対処できないため、「翻訳」したことを示します。
子=孔子
曰=説(shuō)
学→学習知識(なにを学んだか、目的語がいります。)
時=常常
習→温習它(これも目的語を補っています。なお、習之の「之」は、「これ」と読んでいますが、いわゆる再帰代名詞ではなく、リズムを取るための助字にすぎません。吉川幸次郎著『論語 上』、朝日選書、20ページを参照)
不亦・・乎=不是・・嗎(「亦・・乎」の「亦」は、ここではごく軽い助字で、意味をもたないため、「也」などに訳する必要はありません。吉川前掲書、20ページ)
説(yuè)→很高興的(事)
朋=朋友
自=従
楽(lè)→很快楽的
人不知→不被人了解(これは「人に分かってもらえない」と、受身に訳するほうが、しっくりします。)
不慍=不生気
君子→真君子(「偽君子」というのもあるので。)

漢文が現代中国語からみると「古文」であり、語彙にかなり違いがあることがお分かりいただけたと思います。


③ 泰山刻石(参考)

{E61B972E-386B-4CF6-9E06-6F8BEF68D660}

泰山刻石  部分 1  臨書と解説

1. 釈文    (縦書き)

          部分3                   部分2                    部分1
{77DB4E15-D0D3-44FF-855A-D55D294A4E50}

2. 臨書・拓本(縦書き) 上段が臨書、下段は拓本です。

{B7F6F0BF-142F-4288-919B-FC625116DCD4}

以下は横書きです。

3. 訓読(書き下し文)

皇帝こうていくらいのぞみ、せいつくほうあきらかにし、臣下しんか脩飭しゅうちょくす。
二十有六年にじゅうゆうろくねんはじめて天下てんかあわせ、賓服ひんぷくせざるし。
みずか遠黎えんれいめぐり、この泰山たいざんのぼり、あまね東極とうきょくる。
従臣じゅうしんあとおもい、事業じぎょう本原ほんげんし、つつしみて功徳こうとくしょうす。
治道運行ちどううんこうし、諸産しょさんよろしきを法式ほうしきり。
大義著明たいぎちょめい後世こうせいる。 順承じゅんしょうしてあらたむるかれ。

4. 現代語訳

皇帝が位につかれて、制度を作り法律を明らかにし、臣下は整え修めた。
二十六年(紀元前 221年)、初めて天下を併合し、服従しないものはなくなった。
皇帝は自ら遠方の人々の間を巡幸し、この泰山に登り、あまねく東のはてまでもご覧になった。
従臣は皇帝がなされた事を思いしたい、事業のみなもとをたずね、つつしんで功徳をとなえる。
天下を治める道は、天地と共に運行し、多くの産物はほどよきを得て、すべて法式にかなっている。
大義ははっきりあらわれ、後世に垂れ示され、後の世に継承されて改めることがないように。