何故、徳川御三家は紀州家、尾張家、水戸家だったのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

征夷大将軍の徳川家は江戸に幕府を置いたが、親藩の徳川御三家の紀州家、尾張家、水戸家をそれぞれの地に創設したのか?疑問に思っていた。

実は、紀伊の和歌山、尾張の名古屋、常陸の水戸あたりは、徳川家のルーツである東国の武士と気性と価値観が合わない人々が特に集中し、争いが多発する恐れがあったので、徳川家自ら支配せざるを得ない地であったと考えられる。

その他、一向宗の本山の石山本願寺の砦であった豊臣秀吉の大坂城は幕府直轄にしたのであった。また、前田利家に加賀100万石と言う大藩を任せたのも、反幕府勢力に常時、対峙するためであった。


 参考

① 【鉄砲の名手:雑賀孫一】信長を苦しめた雑賀衆と紀州攻め

雑賀衆の根拠地は和歌山市内


織田信長といえば誰もが知っている有名な戦国武将であり、また残虐な性格という印象を持つ人も多いでしょう。「本能寺の変」で明智光秀に裏切られるまで天下統一に向けて快進撃を続けた信長ですが、そんな彼を苦しめたことで有名なのが雑賀孫一(さいかまごいち/雑賀孫市)率いる雑賀衆です。雑賀衆は石山本願寺で織田信長の軍勢を相手に活躍しました。その後は豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでも奮闘しています。

今回は、雑賀孫一と雑賀衆が信長を苦戦させた背景や、紀州攻めの経過についてご紹介します。

伝説の鉄砲使い:雑賀孫一

雑賀衆のトップに立っていた雑賀孫一とはどのような人物なのでしょうか。実はこの名前は、一人の人物を指すものではありませんでした。

雑賀党鈴木氏に受け継がれる名前


雑賀孫一は一人の名前ではなく、雑賀党鈴木氏の有力者や棟梁に代々継承されてきた名称です。雑賀党鈴木氏は、戦国時代に紀伊国名草郡十ヶ郷(現在の和歌山県)の平井地区を本拠地としていた日本の武家の一つで、雑賀衆の親分のような存在でした。雑賀衆は紀ノ川対岸にある雑賀荘近辺の土豪たちが集結したもので、鈴木氏はその有力家系の一つだったのです。実際の姓は穂積氏ですが、当主は代々「鈴木孫一」を通称としました。

有名な孫一は鈴木重秀だった

浄土真宗本願寺勢と信長が戦った石山合戦(いしやまかっせん)が起こった時期の孫一は、「重秀」と自署した史料が残されていることから、鈴木重秀という武将だったとされています。重秀は雑賀衆の指導者として石山本願寺合戦で鉄砲衆を率いて織田軍と戦いました。石山開城後は信長に、その後は秀吉に仕えています。

孫一の名を受け継いだ鈴木重朝は、小田原攻めや朝鮮出兵にも出陣。天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが、敗北した後は伊達政宗の世話になりました。後に徳川家康から3千石で登用されるなど、時の権力者にうまく付き従って生きていたようです。

傭兵集団:雑賀衆とは?

雑賀衆の棟梁として頭角を現した孫一は、さまざまな有力者に認められるほどの人物でした。それでは、彼が率いた雑賀衆とはどのような集団だったのでしょうか。

五つの地域で構成されていた

雑賀衆は紀伊国に領土を持つ土豪・小領主たちによる自治組織で、応仁の乱以後に現れました。主に「雑賀荘」「十ヶ郷」「中郷(中川郷)」「南郷(三上郷)」「宮郷(社家郷)」の五つの地域の地侍で構成され、「紀州惣国」や「雑賀惣国」とも呼ばれています。

地域の方針は各代表による合議制で決定していましたが、五つの地域だけで約60もの有力家があったため、実際は輪番制になっていたようです。

優れた軍事集団として知られる


もともと自治組織だった雑賀衆は、伝来したばかりの鉄砲を取り入れ、16世紀半ばには優れた鉄砲傭兵(ようへい)集団として活動していました。彼らは数千丁もの鉄砲で武装しており、海運や貿易も営んでいたため高い軍事力を誇っていたのです。

五つの地域の中でも、中郷・南郷・宮郷は肥沃(ひよく)な土地に恵まれていたため農業を中心に生計をたてていましたが、雑賀荘・十ヶ郷は土地が貧しいことから海運・貿易・製塩・軍事などを中心にしていました。紀伊国守護・畠山氏の要請でたびたび出兵するなど傭兵稼業も請け負っており、他国への技術指導もしていたようです。彼らが優れた鉄砲集団となった背景には、このような土地柄も関係していたのですね。

紀州攻めで織田信長と対決!

優れた傭兵軍団だった雑賀衆は数々の戦いで活躍しました。その中でも有名なのが織田信長との戦いである「紀州攻め」です。

石山合戦は本願寺が優勢だった


この頃の信長は、当時流行していた宗教、一向宗の総本山である浄土真宗本願寺と戦っていました。本願寺の法主・顕如(けんにょ)が石山本願寺にこもった戦いは「石山合戦」として有名です。

雑賀の土地には一向宗の寺が多く、雑賀衆には門徒がたくさんいました。そのため、要請を受けた彼らは本願寺に味方して戦うことになります。一方、雑賀衆と密接な関係だった「根来衆(ねごろしゅう)」とそれに近かった雑賀衆の勢力のいくつかは、織田方に雇われ織田軍の味方をすることになりました。

根来衆は真言宗根来寺を中心とした宗教勢力だったため、雑賀衆とはライバル関係でした。雑賀衆は全員が一向宗門徒ではなく、小勢力の共同体として独自で行動していたため、このように敵と味方に分裂してしまったのです。この戦いで本願寺家に味方した雑賀衆は大活躍しました。ここで指揮していたのが、後に伝説的に語られるようになる孫一です。織田軍は正面攻撃に失敗したため本願寺への海上補給ルートを封鎖しようとしましたが、海運や貿易に長けていた雑賀衆に撃退されてしまいました。本願寺が優勢となったこの戦いで信長は苦戦を強いられることとなり、以降両家の争いは10年にも及ぶ長期戦となったのです。

このような戦局の中、信長はついに雑賀衆とその棟梁・雑賀孫一を先に討伐しようと決意します。

紀州征伐と孫一の降伏

信長は根来衆や中郷・南郷・宮郷の雑賀衆をあらかじめ味方につけ、秀吉や光秀といった主力部隊をそろえて約10万の兵で紀州征伐に向かいました。孫一はこれに対し、川を利用して足止めしたり鉄砲で大きな被害を与えたりしましたが、雑賀衆の一部が敵にまわっていることもあり、最終的に降伏することとなります。

こうして雑賀衆は信長への服属を誓いましたが、その後すぐに自由に行動し始めて本願寺に加担するなど、事態はすぐに収まらなかったようです。孫一も信長側についた宮郷の雑賀衆・根来衆らが守る太田城を攻めましたが、最後には和睦を結び事態は収束しました。

後世でも人気の戦国武将


人気ゲームに登場するなど、雑賀孫一は現代でも人気を博しています。一般的な知名度はそれほど高くないかもしれませんが、鉄砲の名手として雑賀衆を率い、あの信長を苦戦させた手腕は素晴らしいですよね。孫一は強さとリーダーシップを兼ね備えた魅力的な存在といえます。信長でさえ攻めあぐねた雑賀衆と孫一は、今後もさまざまな創作作品で取り上げられていくことでしょう。

<関連記事>


②-1 水戸を中心に常陸国あたりは渡来人の混住の地で1300年に渡る争いの地であった(参考)。


②-2 この地は塚原卜伝ゆかりの地で剣術発祥の地であった(参考)。


②-3 この争いの地に親鸞聖人が真っ先に布教を始めた(参考)。


③ 武士の政治はトップダウンであり、気性や価値観は自己責任、自己主張であった。これに対し、雑賀衆や堺の商人達は合議制の平等の政治であった。これは、明治維新後の平等思想(参考)の先駆けと考えられる。


④-1 東西文化の境界は住民の気性と価値観の境界である(参考)

一向一揆と当時の一向宗(浄土真宗)の分布境界(コトバンクより)


④-2 大井川に橋を設けず、人足の渡しとした(参考)のも、東西の住民を分断する為!


⑤ 一向一揆と明治維新