四民平等の明治維新と個性・差別の江戸時代 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

江戸時代まで徳川幕府と東国の武士達が日本を支配していた時代、個性と儒教に基づく階級差別意識のある武士達が主人公であった。これに対し、明治維新を達成した現在、天皇が唯一のトップの四民平等の世の中になった。

明治維新を主導した吉田松陰先生以下、みんな対等の立場であった。また、長州の庶民も目立つことを嫌う全員平等の意識が元々あり、徳川幕府を構成する東国の武士達とは反りが合わなかった。

この平等意識が阿弥陀如来の下に平等と言う浄土真宗(一向宗)の教義とも一致し、長州人は強固な安芸門徒であった。これは、戦国時代の末期の近畿圏から三河、北陸地域の一向一揆(一向宗の信者と織田信長、前田利家そして徳川家康らの武士達との戦い)も同じ構図と考えられる(参考)。

これに対し、例えば薩摩の武士達は平等意識を持つ浄土真宗(一向宗)を嫌って弾圧した。江戸時代までの薩摩の庶民達は隠れ念仏で信仰していた(参考)。この武士の世襲の支配権の喪失が、明治10年の西南戦争に代表される武士の反乱の一つの理由であった。

すなわち、現在の日本の四民平等は古来から内在し、欧米のキリスト教の一神教に由来する平等意識を輸入したものでは無かった。ちなみに、明治初期まではキリスト教は外来宗教として排斥され、信教の自由が確立されてから公認された。


① 明治時代の農民も国民皆兵の兵士達も、同じ服装の横並びを美徳としている。

明治初期の農民達(wikiより)、男女も平等
西南戦争に出征する兵士達(wikiより)


② 西南戦争時の西郷隆盛と幹部達の姿を写生した絵があるが、姿勢も服装もバラエティがある。東国の武士達と同じく、個性・差別を尊ぶ気性・価値観が伺われる。

西南戦争時の西郷隆盛と幹部達(ルモンド・イリュストレ紙、参考)
自己主張する鎧兜を着用した武士(wikiより)


雑談:

下関では藩主のとこを毛利の「殿さん」と「さん」付けしている。庶民も藩主と同格であった。また、著者の例で恐縮であるが、遠縁の浄土真宗本願寺派の寺では萩の殿さんの側室と再婚したことで萩藩の家紋の使用を許されていた。また、著者の母の実家は長府の殿さんと同じ家紋であるが、商家であっても何らかの貢献があったのであろうと考えられる。

長州藩では藩士と庶民が通婚したり、毛利家の家紋の使用を許したりして、藩と庶民の結束を固めていたのであった。


参考

① 江戸時代の武士の話法なら、相手は「貴殿」で自分は「拙者」…

西日本新聞(2018.11.8、参考)

江戸時代の武士の話法なら、相手は「貴殿」で自分は「拙者」。呼び掛けるときは「~さま」「~どの」。時代劇でおなじみだが、幕末になると変化も。維新を描いたドラマに、高杉晋作や桂小五郎ら長州藩士が「西郷(隆盛)くん」「坂本(龍馬)くん」と呼ぶ場面が

▼「僕」「君」「諸君」「~くん」という言い方は、長州で松下村塾を開いた吉田松陰が始めたという説がある。身分の上下が厳しい時代ながら、松陰は武士から農民までさまざまな立場の若者を塾に受け入れた

▼塾生が身分にとらわれず対等に学べるよう、「君」や「僕」、「~くん」という敬称を使わせたそうだ。明治の世になって「~くん」は広く使われるようになった

▼農民出身の伊藤博文も松陰の薫陶を受けた一人。初代総理大臣として臨んだ第1回帝国議会(1890年)で議員を「~くん」と呼ばせたという。以来、国会での議員の敬称は今も「~くん」

▼女性初の衆院予算委員長に就任した野田聖子さんが慣例にとらわれず、委員を「~さん」で呼んだ。「一般社会では男女の別なく『さん』付けだから」と

▼先達がいる。土井たか子さんだ。女性初の衆院議長は「~さん」を使った。女性が圧倒的に少ない国会の現状を変えたい。その思いは2人に共通しよう。松陰が身分の壁を払おうと考えた「くん」が、男女の格差をなくす「さん」に替わる“敬称維新”が起きてもいい。 

=2018/11/07付 西日本新聞朝刊=


② 泉福寺、浄土真宗本願寺派、萩市(参考)

安芸国高田郡甲立村(現 広島県安芸高田市甲田町)にあった高林坊 第4世 西願の三男玄修が、安芸国沼田郡東原村(現 広島市安佐南区)泉福寺の8世となったことがはじまり。毛利輝元公が萩に移ったので、寛永18年(1641)に萩に移って来た。吉田松陰の位牌「松陰二十一回猛士」がある(参考)。


③ 東国の武士達の支配から脱し、徳川幕府を倒した明治維新も、影に隠れて目立たないが浄土真宗(一向宗)の僧侶達が主導して成し遂げられたことが知られている。浄土真宗の現役僧侶である歴史研究家は、明治維新は織田信長の石山本願寺攻めや当時の一向一揆に続く復讐と明言している。吉田松陰ほか正義派の長州藩士達や奇兵隊士の多くは先祖代々、浄土真宗(一向宗)の門徒であり、彼らは信仰の篤さで評判の安芸門徒であった(参考)。


④ 阿弥陀如来の本願は、もともとすべてのいのちあるものを救おうという平等の救いではあるが、ことに苦しみ悩んでいるものを目あてにしていることを、つづいて同じく『歎異抄』には「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」とあり、ここに悪人正機と信心が正因という浄土真宗の特色がみられる(参考)。