何故、親鸞聖人は東国から布教を開始したのか!? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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何故、親鸞聖人は東国、それも常陸国から布教を開始したのか!?回答を最初にあげれば、実は、この地は雑多な気性と価値観を持った人達の混住の地であったことで、この地で布教に成功すれば、他の地域では容易に実行できることが見えていたのである。


現在の極東アジアの国々(日本、中国、韓国・朝鮮)の人々は一つの概念を真逆に解釈してしまうことが少なくない。当時の東国で同様なことが起きていたと考えられる。


従来の定説では、大雑把に東日本は縄文系の人々、西日本は弥生系の人々などの渡来人が多いとされている。しかし、東日本の住民を正確に分類すると、縄文時代までは縄文系の山の民(いわゆる縄文人)と海の民(海人族安曇氏)が定住する地域であったが、弥生時代頃から渡来人が入植するようになり、特に白村江の戦いの敗戦(663年)以降に、大和政権の政策で百済、高句麗、新羅などからの遺民を関東に住まわせて開拓させたことが史実として記録されている。すなわち、気質や価値観の異なる人々が混住した、混乱の地であった。


特に、新羅人をルーツとする東国の武士達は、武蔵七党などと呼ばれるように、関東平野の中で徒党を組んで相争っていた。この中で、清和源氏と桓武平氏の末裔と称する武士達が結託して鎌倉幕府を樹立することになる。親鸞聖人が東国に布教に入った時期はまさにこの頃であった


特に常陸の国あたりは、縄文人から新羅人までの全ての種類の人々が偏ることなく混住した民族の坩堝であったのである。特に、刀などを振り回す武力で勢力を誇った武士の気質と価値観はその他の人々を圧倒して、殺す方も殺される方も死後の極楽浄土への往生を保証してくれる新興仏教(浄土宗や浄土真宗)への期待が生まれたと考えられる。



雑談1


多くの人を殺した武士の熊谷直実は後悔して法然上人の浄土宗の門徒となったことが有名である(参考)。



雑談2


江戸時代の水戸藩に水戸学が興り、幕末、天狗党と言う尊皇激派が生まれたのも、根っこは同じで新羅系の武士支配に対する反発と考えられる(参考)。



雑談3


日本語のアクセント分布を見ると、京阪式アクセントの地域と東京式アクセントの地域に分類されるが、関東周辺から北が無アクセントの地域となっている。すなわち、関東周辺から北は東国の武士達(新羅人)を含んだ多民族の文化が融合したと考えられる。九州中央部にも無アクセントの地域があるが、同様に説明できそうである。


実は、薩摩藩の西郷隆盛と会津藩の西郷頼母のルーツが九州肥後の菊池氏であった(参考)。


また、明治維新の前後、戊辰戦争の戦場となった福島を中心とした地域、佐賀の乱から神風連の乱そして西南戦争の戦場となった佐賀、熊本、宮崎、鹿児島の地域が、この二ヶ所の無アクセントの地域にほぼ一致する。


荒唐無稽な神話時代の物語と思われて来た日本書紀の神功皇后の時代に遡ると、穴門豊浦宮に滞在していた神功皇后と仲哀天皇を九州の熊襲と朝鮮半島の新羅が連合して来襲したが追い払い、次いで熊襲を征伐し、さらに海を渡って新羅征伐に向かったことを思い出す(参考)。


さらに弥生時代に遡ると、九州中央部からは銅剣などの武器類が大量に出土し、吉野ヶ里遺跡の様な環濠集落跡が多く発見され、争いが絶えなかったようだ(参考)。


アクセント分布(wikiより)



参考

① 親鸞聖人の生涯

浄土真宗本願寺派光寿山正宣寺(参考)

東国への移住

親鸞しんらん聖人は、流罪を許されて自由の身になられましたが、京都には帰らず、しばらく当地にとどまりました。それは師の法然ほうねん聖人が赦免しゃめんからわずか2ヵ月後に亡くなられて、永らく待ちに待っていた師・法然聖人との再会の夢を失われたことや、信蓮房しんれんぼうさまが生まれて1年に満たなかったために、乳児を連れての旅は無理と考えられたためと思われます。しかし、1214年、42歳になると妻子(恵信尼えしんにさま33歳、信蓮房さま4歳)と共に、7年間過ごした越後えちごを後に、信濃しなの国(現 長野県)を経て、東国(関東)の常陸ひたち国(現 茨城県)に移られました。

自信教人信じしんきょうにんしん」(自ら信じ、人にも教えて信じさせる)善導大師ぜんどうだいしの『往生礼讃おうじょうらいさん』中の文、この言葉の実践こそ聖人はご自分の使命と感じておられ、東国へ向けての行動は、この使命を果たすためだったと思われます。

聖人がなぜ越後から東国に移られたのか、聖人の一生を綴られた覚如かくにょ上人(本願寺第3代門主)の書かれた『御伝鈔ごでんしょう』には、その理由について全く触れられておりません。覚如上人の高弟であった乗専の書かれた『最須敬重絵詞さいしゅきょうじゅうえことば』に、わずかに事の縁ありて東国にこえ、はじめ常陸国にして専修念仏せんじゅねんぶつをすすめたまふと漠然と記されているだけであります。それにしても、教化先を北国(北陸や東北)ではなく、東国に求められたのはなぜかが疑問として残ります。

この東国移住の問題については、古来より多くの研究者がいろいろと推理を試みています。

(1)妻・恵信尼さまの実家である三善みよし氏の常陸国における領地を頼ってきたとする説。
(2)聖人の主著である『教行信証きょうぎょうしんしょう』を執筆するためとする説。
(3)常陸国稲田いなだの領主・稲田頼重よりしげが招いたとする説。
(4)当時、北国の農民が東国に移住することがあり、その移住に同行したとする説。
(5)聖人が最も尊敬されていた聖徳太子に対する信仰が、特に東国で盛んであったためとする説。
(6)当時は政治的には鎌倉幕府の台頭が東国への新風を吹き込み、源頼朝を頂点とする坂東武士団に権力が移行しつつあり、聖人が歩まれた常陸国近辺は特に程度の高い文化地帯であった。開拓の気風に満ちたこの地こそが新しくて、しかも真実の宗教であるお念仏の教えを受け入れてくれる土地であると判断されたのではないかとの説。

その他、様々の説がありますが、どの説もはっきりとは断定されておりません。そのいくつかが複合して聖人を東国に移住せしめたものと思われます。

2001年5月20日(寺報『光寿』第28号)掲載


稲田御坊(wikiより)

黄丸: 稲田御坊(笠間市稲田)
赤丸: 願入寺(親鸞聖人の孫の如信の寺)
黄丸: 鹿島神宮


② 親鸞と子、孫の東国での布教(参考)

親鸞の常陸国に残した足跡をたどると、まだ訪れなければならない場所がたくさんあることに気がついた。まず外せないのが大洗の願入寺(親鸞聖人の孫の如信の寺、浄土真宗本願寺派)と水戸市岸和田の報佛寺(浄土真宗大谷派)だろう。

願入寺の山門
大洗の願入寺は「原始真宗 岩船山・大本山 願入寺」「親鸞聖人の血脈法脈相承乃聖蹟」「水戸黄門・歴代と格さんの史跡」となっている。

親鸞聖人は越後の流罪が解かれても都に帰らず常陸国に布教にやってきました。最初は下妻の小島草庵、そして笠間の稲田草庵で北の方まで布教に歩きました。

親鸞が都に戻ってから息子の善鸞は更に北へ布教を進めていきます。しかし、善鸞が教えることが次第に自分の教えから離れてきたことを知り、とうとう善鸞を破門してしまいます。

その後孫の如信(善鸞の子)が東国にやってきます。そして更に北の布教を進めていきました。しかし都の親鸞が亡くなり、如信は正規継承者となりますが、都には帰らず茨城北部や福島県南部まで布教の範囲を拡大し、大網(現福島県石川郡古殿町)に草庵(大網奥之坊)を構えて布教につとめます。

如信は都に戻る途中で立ち寄った大子町の太子堂(現、法龍寺)(記事はこちら)で亡くなってしまいましたが、福島の大綱草庵はその後弟子により「願入寺」となり、水戸光圀がここ大洗にこの願入寺を移して現在に続きます。

大網奥之坊は他にも福島でも継承する寺があるようですが、こちらを如信が残した寺とさせていただきます。


③ 造悪無碍とは?(参考)、、、、人を殺しまくっても、南無阿弥陀を唱えれば極楽浄土に往生出来るという誤った理解

親鸞さんが東国から帰洛されてから、いつのまにか東国の念仏者の間で、「造悪無碍」(ぞうあくむげ)がはびこったことが研究によって明らかになっています。この辺の状況については、当ブログ(2015年6月28日付)の「拡大する造悪無碍問題」を参照してください。では造悪無碍とはどのような悪事だったのか? この辺がイメージとしてよく分かりませんでしたので、資料をあさってみました。

造悪無碍の源流をさぐる

熊田順正氏によると、「造悪無碍の源流としては法然門下の一念義および造悪無碍があげられる」としています。一念義とはごく簡単にいうと、念仏をただの一度称えただけでも極楽浄土に往生できるというもので、一部の念仏者の中では、いつしか念仏すればどんな悪も往生の障りにならないということになっていました。また禅宗の一部の僧侶も「人間に仏性(ぶっしょう)が備わっているのだから、何をやっても仏の行であり、地獄に堕ちる心配などない」といって造悪無碍に走ったといわれています。 

親鸞さんは建長4年(1252年)224日付の消息2で、「煩悩をそなえた身であるからといって、心にまかせて、してはならないことをし、言ってはならないことを言い、思ってはならないことを思い、どのようにでも心のままにすればよいといいあう」ような門徒衆がいることを歎き、非難しています。こういう念仏者が造悪無碍を働いていることは容易に想像できます。

また善鸞さん宛て消息28では、善鸞さんが親鸞さん面授の高弟・信願房がわざと悪事を好んで、師や善知識にとってよくないことをあれこれとしていると訴えていることについて、返事を書いていますが、この信願房も造悪無碍の輩といわれていました。

では、造悪無碍とは具体的にはどのような行為だったのか?

平雅行氏によると、中世では世俗社会の仏教化が進展し、戒律への関心が高まってきて、たとえば、在家の信者でも六斎日(月に6回)には殺さない、盗まない、うそをつかない、酒を飲まない、正午以降は食事を取らない、など八つの戒律(八斎戒)を守っていたそうです。こうした行いは罪の浄化力があり、六斎日の精進によって、時間と空間が浄化され神々がその威力を回復すると考えられ、社会全体の平和と繁栄を維持するうえで大きな効果があったと指摘しています。それに対し専修念仏は、そのような作善に意味はないとして斎戒や殺生禁断を守らず、社会規範を揺るがせにした張本人だったといいます。 

さらに平氏は「もう一つの問題は肉食のケガレである」といいます。

中世において神祇祭祀の時、贅沢な食事を慎むことで神に願いを聞いてもらおうとして、獣肉を食べることはタブーとなったが、12世紀ごろから、獣肉食のタブーをケガレで説明するようになった。そして鎌倉時代になると、猪や鹿の肉を食べた者は食後30日から100日は神社参詣が禁じられた。しかも、獣肉を食べた者と同席したり、煮炊きの火が同じだと、ケガレが伝染するといわれており、感染した者も参詣を遠慮しなければならなかった。ところが、念仏者たちは肉食のケガレを無視して神社に出入りするわ、「無視しても神罰は当たらない」と放言した、というのです。

親鸞さん 造悪無碍の人は五逆の人と非難

平氏は、造悪無碍の実態はこの程度のものだったといいます。そうだとしても当然、六斎日の精進を拒否する者は造悪無碍の徒と非難され、迫害されますよね。 

当然、こうしたことを平気で行う門徒衆を親鸞さんとて座視するわけはありません。

「師を謗(そし)り、善知識を軽んじ、念仏の仲間でもお互いにおとしめあったりしている、これらの人は、すでに誹謗の人であり、五逆の人です。往生論註には『このような人は仏法を信じる心がないから、悪い心が起こるのである』と言われている。気を付けて離れ、近づいてはいけません」と強い調子でいさめています。 

その後、善鸞義絶、鎌倉訴訟を経て、親鸞門徒衆に親鸞さんの真意が伝わり、造悪無碍問題はかなり下火になったようです。東国で親鸞さんの正信が生きるか滅びるかの瀬戸際の攻防は、ついには親鸞さんの勝利に結びついたのであります。 

東国中心に起こった造悪無碍そして本願ぼこりは、専修念仏の教えの中から起こってしまった。歎異抄の一説に「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉があります。世俗的な道徳規範からいえば、「とんでもない論理」ということになる。しかし信仰の世界の論理では「これで正しい」と親鸞さんはいうのです。しかし、こういった論法は知的訓練を受けた人はわかるでしょうが、世俗的常識から抜けきれない庶民には理解が難しい。「聖と俗を一体化して宗教の論理を世俗的次元に引き下ろしてしまえば、どんな悪をなしてもかまわない」(湯浅泰雄氏)ということになる。そういった人が沢山出てしまった。だから唯円房は「外見あるべからず」とくぎをさしたのかも知れませんね。


④ 白村江の戦いの敗戦(663年)の後、多くの百済人が渡来してきた。多くは都周辺に定住して、藤原鎌足を頂上にして天智天皇をサポートし、以来、藤原氏は最近まで筆頭公家となった。また、東国にも移されて定住した(参考)。

後を追うように新羅や高句麗から日本列島に渡来したものは東国に定住して、新羅人は東国武士になったことが知られている(参考)。


⑤ 鹿嶋と海人族安曇氏(参考)

茨城県の鹿島を代表として、全国各地の地名の鹿島は現在、カシマと読むが本来はシカノシマ、すなわち志賀島であった!全国に鹿島の地名と鹿島神社が一緒になって点在するが、志賀島を本拠地にした海人族安曇氏が移住したのであろう!これと同時に、那珂と言う地名が奴国や志賀島のあった福岡市あたりと茨城県に集中する。


⑥ 常陸国から東国開発に従事した大和政権と中臣氏(藤原氏、百済人)は鹿島神宮を拠点とし、ここで剣術を初めて体系化した。鎌倉時代から東国の武士達(新羅人)が鹿島神宮の神官になったが、戦国時代、この鹿島神宮の宮司家から剣聖と呼ばれた塚原卜伝が生まれた(参考)。


⑦ 百済人は都周辺に定住し藤原氏などの公家になったが、東国にも定住して東北地方を開発した