東行庵の周辺、散策、熊谷直実 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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熊谷直実(くまがい なおざね)は、鎌倉時代初期の武将、埼玉県熊谷市を本拠とした。1180年、石橋山の戦いでは平氏に従い源頼朝の兵と戦うが、この時、逃げる頼朝を救ったという話が残されている。この戦いを契機として源頼朝に臣従し御家人となる。

一ノ谷の戦いでは、平家の若武者、平敦盛を打ち取るが、 息子ほどの年齢の若者の命を奪ったことによって 戦の無情さや世の無常観を感じ、心に深い傷を負う。

のちに出家して法然上人の門徒となり蓮生(れんしょう / れんせい)と号した。蓮生は1193年に美作国久米南条稲岡庄(現・岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立したのを皮切りに、1195年には東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。1197年、京都の錦小路東洞院西の父直貞の旧地に法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立した。1198年、粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開基する。熊谷郷に戻った後は、現在の熊谷寺(ゆうこくじ)で念仏三昧の生活を送った。

27代当主の熊谷直養は、慶応元年(1865年)に藩内での軍政改革によって、銃隊を組織した。また、長州藩の訓練所では、乃木希典らとともに藩兵の指導にあたった。


参考

① 熊谷家墓所

東行庵の近くに熊谷直実の直系の末裔の墓所がありました。毛利家家臣として2000石の領地を吉田に持っていました。関ヶ原の合戦に敗れ、防長二州に押し込められたなか、2000石で召し抱えられるとは破格の待遇です。明治に至るまで吉田に居たようで、奇兵隊の敷地は熊谷家の領地だった。

ちなみに、高杉晋作の高杉家は200石、長府藩5万石、清末藩1万石でした。

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東行庵の近くの晋作の湯の近く、道路を挟んで登り口がある。

② 熊谷氏の末裔についてwikiで調べると、途中から山内氏から養子を迎えていた。



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次の27代当主の熊谷直養は、慶応元年(1865年)に藩内での軍政改革によって、銃隊を組織した。また、長州藩の訓練所では、乃木希典らとともに藩兵の指導にあたった。


③ 山内氏は土佐山内氏と同族で、wikiでは

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余談


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晋作の湯、ラドン温泉、入湯料500円

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近くに奇兵隊士の元、墓所がありました。今は東行庵に合祀されています。

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日清戦争以降の忠魂碑もあります。二十代で亡くなった吉田地区出身の兵士の方々も、奇兵隊士の若者と同じ志で出征されたのでしょう!

東行庵に参拝された後でも、是非、お参り下さい。
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東行庵の梅の花が咲いています。忠魂碑からの遠望。