しかし、瀬戸内海から本州西海岸の響灘から玄海灘への唯一の出口である関門海峡の赤間関(下関)の名前が、明確には室町時代になるまで出て来ない。
663年の白村江の戦いの敗戦後、長門城を築城したが場所は不明であり(参考)、また穴戸国は長門国に名称変更された。この緊張より増して、8世紀中頃、大陸情勢が再度不安定となった。8、9世紀、赤間関には防人軍団の豊浦団が設置され(参考)、8世紀中頃、山陰節度使を設置した(参考)。国名を変え、地名をなるべく伏せて瀬戸内海の入り口である関門海峡や赤間関の正確な位置を外国に伏せたかったのであろう!
参考
① 遣唐使および遣新羅使の国内航路(参考)
難波津から武庫の浦、明石の浦、藤江の浦、多麻の浦、長井の浦、風速の浦、長門の浦、麻里布の浦、大島の鳴戸、熊毛の浦、佐婆津、分間の浦、筑紫館
② 白村江の戦い
斉明天皇と中大兄皇子は熟田津を発ってから那の津に到達している(参考)
③ 天平年間(729~748)(参考)
行基により、ほぼ一日航程の間隔で、室生泊、韓泊、魚住伯、大輪田泊、河尻泊の5泊が開かれた。
④ 平安時代(参考)
主要な港は、室津、韓泊、魚住、大輪田、河尻、方上(片上)、那ノ津(福岡)、牛窓、児島、敷名、長井浦、風早、熟田津
⑤ 平安時代末期(参考)
平清盛が日宋貿易のため大輪田泊に経ケ島を築く、その他、牛窓、敷名の泊(沼隈町)の港の整備や音戸の瀬戸の開削も行った。
⑥ 室町幕府は日明貿易(参考)
「入明諸要例」(応仁2年:1468)には、500石から2,500石の船が門司、富田、上関、深溝、揚井(柳井)、尾道、鞆、田島、院島(因島)、牛窓に配された。
大阪湾の主な港は、難波津、川尻、兵庫、堺、尼崎、天保山、雑喉場など。大阪湾を出て明石海峡を通過した船は、室津、牛窓、鞆などに立ち寄り、上関海峡を抜け、下関に至った。(注: 下関は赤間関のとこ)
⑦ 江戸時代(参考)
西廻り航路: 日本海の佐渡小木、能登福浦、但馬柴山、石見温泉津から、下関、大坂、太平洋の志摩畔乗(安乗)、伊勢方座、紀伊大島等。
大坂と蝦夷を結ぶ北前船: 沿岸の港に立ち寄らず瀬戸内海の中央を抜けていく沖乗り航路が発達した。鞆から地乗り航路と分かれ、弓削島、岩城島、木ノ江、御手洗等の芸予諸島の中央を貫いて、津和地、上関で合流する。
当時の船は、千石船(150トン)と呼ばれるような大型船もありましたが、いずれも一枚帆に追い風をはらみながら航行する構造であったため、強い季節風や暴風雨を避けつつ、順風を待つための「風待ちの港」を必要としていました。同時に、船は潮の流れも利用して航行するため、上げ潮や下げ潮を待つための「潮待ち港」も必要だった。
1.陸地沿いの地乗り航路:
瀬戸内海では一日に2回の干満があり、6時間毎に潮流が逆転する。逆潮を避けるためにまた潮に乗るために潮待ちの停泊があった。そのためには、陸地沿いや島々の間を通り、かつ潮流の速い山陽沿岸(大畠の瀬戸、平清盛が開いた音戸の瀬戸)沿いが東西を結ぶ幹線航路に選ばれた。そして潮待ちのためには一定の距離毎に港が出来た。赤間関(下関)、中の関、室積、上関、沖の家室、津和地(松山市)、蒲刈(三ノ瀬)、尾道、鞆ノ浦、下津井、牛窓、室津、兵庫、大阪への航路が主流となった。航行は、潮の流れと櫓、帆を漕いで進んでいた。
2.沖乗り航路:
沖乗り航路は、江戸時代の17世紀後半になると、木綿帆が使われるようになると、帆走能力が高まった。それによって潮流の穏やかな沖合を多少の逆潮でも風さえよければ、航海することが可能で、沖合を一気に駆け抜けることになった。上関から沖の家室、津和地(松山市)、御手洗、鼻栗瀬戸(伯方島と大三島との間)、岩城、弓削瀬戸から鞆ノ浦へと往来するもので、瀬戸内海のほぼ中央を航行する。
10 朝鮮通信使(参考)