剣術発祥の地、常陸国 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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戦闘はどの時代、どの地域にも起こりうる。しかし、その中でも剣術が最初に系統的に発達した常陸国は、戦闘が日常的に起こる最も危険な地域であったことが伺える。

東国開発の拠点の鹿島神宮は初期は百済からの渡来人の藤原氏の同族の中臣氏が宮司の立場にあったが、鎌倉時代頃から鎌倉幕府の支配下に入り、新羅からの渡来人の東国の武士達が宮司として支配するようになった。

この様な状況で、戦国時代の15世紀末に鹿島神宮から剣聖の塚原卜伝が誕生した。「真剣試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ケ所以外に傷一つ受けず、立ち会って敵を討取る事212人」(参考)と、現代人には想像が出来ないほど危ない橋を渡った事になる。

黄丸: 鹿島神宮、香取神宮、息栖神社
赤丸: 願入寺(親鸞聖人の孫の如信の寺)
緑丸: 親鸞聖人の最初の布教の地、稲田御坊
(笠間市稲田469 稲田禅房西念寺、参考)


雑談1

新羅から渡来した東国の武士の刀のルーツとも考えられる剣としては、銅剣が弥生時代の九州北部から中部にかけて出土し、環濠集落跡(参考)があちこちにある。この弥生人たちは大陸の揚子江流域の春秋戦国時代の呉の国辺りから渡来したようだ。関東平野のあちこちにある武士の館の跡に空堀が残っている(参考)。

この呉の国から海を渡って、九州に上陸した者と、朝鮮半島南部に上陸した者がおり、後者が新羅人となったと考えられる。これにより、考古学的にも指摘されているが対馬海峡を挟んで倭人の国ができた。

ただし、現在の朝鮮・韓国人のルーツは高麗時代に半島に進出して混血しており、言語的には異なるが、儒教を信仰する意味で気性や価値観によく似たところがある。

さらに白村江の戦いの敗戦後に、百済人の一部、高句麗人、そして新羅人が東国に移されたのである。


雑談2

常陸国の鹿島神宮が創建された当時は、百済系の武人が馬上から騎射する形の戦闘を行ったようだ。これは大陸の騎馬民族(秦帝国)に由来し、天皇家や秦氏、百済人、高句麗人の系統もこれに当たり、古墳から出土する馬具で証明される(参考)。

福江八幡宮の秋のお祭り

現在、神社で催される流鏑馬がこの名残と考えられる。


参考

① 常陸鹿島 剣聖と称えられる塚原卜伝を産んだ武運神を御祭神とする鹿島神宮訪問


滝山氏照さん(参考)

鹿島神宮は北浦と鹿島灘に挟まれた丘陵地に位置し、紀元前660年の創建と伝えられ古くから伊勢神宮・香取神宮とともに「日本三大神宮」とされ由緒ある神社として知られています。

古くは皇室、藤原氏の崇敬を受け、中世では鎌倉時代には鹿島神宮を深く崇敬していた源頼朝は社領の寄進をたびたび行う中、治承4年(1180)の北常陸の佐竹氏征伐の際当神宮に戦勝祈願をするなど歴代武家政権の信仰を得ています。

また近世では徳川家康が関ヶ原の戦勝のお礼に本殿を奉納、続く二代将軍秀忠が元和5年(1619)に本殿を奉納、そして寛永11年(1634)初代水戸藩主徳川頼房が日本三大桜門の一つとされる桜門を造営するなど数多くの武将の崇敬を集め武神として仰がれるようになります。

歴史は遡って大化5年(649)鹿島神郡が設置され、天智天皇時代には神宮の造営がなされ、以降国家的な祭事が続き併せて京都の大中臣氏から宮司が補任されてやがて土着した同族の中臣鹿島氏に受け継がれ神宮の運営がなされていました。

鎌倉時代では頼朝御家人となった常陸国豪族の中で平氏大掾氏の一族が鹿島神宮で頼朝から社領の寄進を受け、やがてそれまでの宮司の大中臣氏を抑え鹿島神宮を支配するに至ります。

上述の事情によって鹿島氏は本来の豪族と共に鹿島神宮を支配運営する宮司の立場も担う事になり、この状況の中で剣豪として塚原卜伝が登場します。

一般に承知している「塚原卜伝」は本名は幼名は朝孝(ともたか)と言い延徳元年(1489)に鹿島(現在の鹿嶋市)に生まれ、父の吉川左京覚賢(よしかわ・さきょう・あきかた)は鹿島神宮に仕える卜部氏であると同時に「鹿島の太刀」という古来からの剣法の継承者でもあり、鹿島城の家老職を勤める家柄でもありました。

朝孝(卜伝)が5−6歳の頃近隣の塚原土佐守安幹(つかはら・とさのかみ・やすもと)に養子となり姓を塚原とします。

その後元服して高幹(たかもと)と名乗り、永正2年(1505)16歳で第1回の廻国(かいこく)修業に出かけ、「真剣試合19度、戦場の働き37度、一度も不覚を取らず、矢傷6ケ所以外に傷一つ受けず、立ち会って敵を討取る事212人」と伝わる強さを誇ります。

一度鹿島へ戻り、鹿島神宮での千日参籠の修業の結果、鹿島の大神からの神示により悟りを開き、「鹿島新当流」の剣を編み出します。

卜伝は自分が完成させた「一の太刀」という国に平和をもたらす剣を広めるべく再度廻国修業の度に出て、室町幕府将軍である足利義輝や甲斐国の武田信玄などにも剣術を指南しています。

国を平和にする剣は卜伝の死後に卜伝の弟子から徳川家康に伝わり、その後江戸幕府創設後長く平和な世の中を作る礎となる剣の道として採用されています。


② 剣術流派の誕生、鎌倉時代まで(wikiより)

古墳時代中期、常陸国鹿島に関東七流(東国七流)という、日本初の剣術流派が生まれた。7人の神官が古くから伝わる剣術を東国を中心に広めた。鹿島神宮香取神宮は武の神として現代でも道場に祀られることが多い。

平安時代になると、日本国内での製鉄技術は大陸と遜色ないレベルにまで達した。さらに、従来の真っ直ぐな剣から、湾曲して人を斬りやすく、また馬上での戦いに適した形に進化し、やがて現在まで伝わる日本の基本形ともいえる太刀が登場する。

平安時代中期に武家が台頭すると、太刀の柄が長く伸び、「片手持ち」から「両手持ち」へと変わり、(打刀に移り変わるものの)現在にいたる。平時の戦闘において、刀で攻防し敵を殺傷するための技術、すなわち剣術は、この頃には確立された。

平安時代後期には、京都鞍馬山京八流が生まれる。源義経が鞍馬で修行中、鬼一法眼という天狗に剣を学んだという伝説がある。鬼一法眼が鞍馬寺の八人の僧に教えた剣法が京八流といわれている。

関東七流とともに多くの流派の母体となる。関東七流は神官、京八流は僧が担い手であり、武士にとって剣術は重要なものではなかった

源平時代には、『平家物語』や『平治物語』に、剣術の技名のような記述が見られる。

具体的には、合戦では馬上で太刀を使用することはすくなく弓矢を用いた。太刀は何らかの事情で馬から降りた場合に使用することを推奨され、日常における喧嘩や強盗に使用する武器であるという認識が強かったとされる。(合戦では太刀で相手の兜を殴りつけ兜を脱落させてから切りつけたり、脳震盪を起こした隙に組み付いて短刀でとどめを差したりした。これは当時の兜は緩衝材がなく、兜をしっかり固定する着用法ではなかったためである。)

その後、平安時代末期に起こった内乱、治承・寿永の乱では戦闘が大規模化し動員数が増加した。そのためこれより以前は正規の武士身分を主体とする、馬上での弓による射撃戦(騎射・馳射戦)が中心だったが、この内乱では正規の武士身分とその従者の動員だけでは戦闘を賄いきれなくなり、動員対象が馳射戦ができない武士や本来は非武士階級である村落領主クラスにまでに拡大したとされる。 そのためこれまでの戦闘ではルール違反とされていた相手の馬への攻撃や馬での体当たりが行われるようになり、太刀の馬上使用も増加したという

鎌倉時代の武士が国家の中心勢力としての地位を確立するにいたって、日本は大陸の儒教文化圏からは異なった、武芸と為政者がその習得を行うことに上位の価値を認める文化の形成を開始した。

この時代の武士も以前より、俗に「弓馬の道」といわれる弓術・馬術が重視され、剣術はあまり重要なものではなかった。 しかし、鎌倉幕府が衰退し始めると元寇まで皆無だった薙刀や太刀を主武器とする騎兵が出現するようになる。


③ 東国の武士のルーツは新羅からの渡来人であった(参考)


北部九州に渡来した稲作弥生人は呉の国からであり、漢民族にも存在するY- DNA O2bを持っている呉の太伯の末裔であった(参考)。そして、現在の朝鮮民族や漢民族(Y- DNA O3またはO2)に民族性が近い。また、東国の武士は朝鮮半島の新羅の国からの渡来人の末裔である(参考)、新羅の花郎が東国の武士のルーツか(参考)!