環濠集落の環濠の役割 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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九州の環濠集落の環濠はオオカミなどの野生動物や水害から護る為のものでは無い。集団間の争いなどから集落民を守るために掘られたであろうと考えられ、江戸城に連なる系譜である。また、高地性集落は戦国時代の山城から安土城につながる。

弥生時代の後期から始まる山陰地方の集落には環濠は無く、平安京などの条坊制都市の系譜につながる。また、吉野ヶ里遺跡周辺の環濠集落とよく似たタイプの集落遺跡は、古墳時代に突入した時期に全国的に消滅する。オオカミなどの野生動物や水害が無かったとは考えられない。


参考

 =マチムラの記憶 藤木遺跡の環濠集落跡

佐賀新聞(2018.10.27、参考)

藤木遺跡の環濠の調査風景

この地域の丘陵先端部は、海抜標高10メートル前後で平野部と接しますが、その一帯には弥生時代後半期(約2000~1700年前)の集落遺跡が点在しています。しかもその多くは環濠かんごうを持った集落跡です。

環濠はオオカミなどの野生動物や水害、集団間の争いなどから集落民を守るために掘られたであろうと考えられますが、まだ定説はありません。

鳥栖市域でも姫方・曽根崎・藤木・江島町などに大きな環濠集落のあることが確認されています。

藤木遺跡は鳥栖駅東の区画整理事業で発掘調査、幅4~6メートル、深さ2メートル弱(実際は掘った土で堤防を造るので3メートル以上)、長さ170メートルの環濠が確認されています。調査結果から推定される広さは、10ヘクタール以上で現在の藤木町の半分近くになるだろうと考えられます。(鳥栖市誌第2巻より)


② 環濠集落は、中国江蘇省(古の呉の国)から江戸城まで続く、外敵からの防御のための掘(参考)


③ 高地性集落も籠城を目的とした山城のルーツ(参考)


④ 条里制地割は山東半島の古代斉のあたりがルーツ。中国では、この地を除き、呉の辺りから朝鮮半島まで乱雑な地割であった(参考)。


⑤ 吉野ヶ里遺跡(wikiより)

紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、これが大規模な集落へと発展することになる。

前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。

中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。集落が発展していくとともに、防御が厳重になっている。また、墳丘墓甕棺が多く見られるようになる。大きな憤丘墓になると南北約46メートル、東西約27メートルの長方形に近い憤丘で、高さは4.5メートル以上あったと推定されている。頂上から墓壙を掘って14基以上の甕棺を埋葬しているものもあり、本州の他の地域でも見当たらない。

後期には、環壕がさらに拡大し、二重になるとともに、建物が巨大化し、3世紀ごろには集落は最盛期を迎える。北内郭と南内郭の2つの内郭ができ、文化の発展が見られる。甕棺の数などから推測しておよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測される。

海岸線は次第に遠ざかり、この時代には神埼市千代田町や佐賀市諸富町付近にあった。筑後川の河口もまたその付近に移ったと推定され、遺構からはのようなものがあったと推定されている。吉野ヶ里丘陵は東西両岸を流れる城原川田手川を通して、この港と交流を持ったと考えられている。

古墳時代

古墳時代の始まりとともに、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。(注: 倭国大乱の時期、邪馬台国の女王の卑弥呼が全国を統一した)

また、高地性集落も消滅する。それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからである。

古墳時代になると吉野ヶ里遺跡の住居は激減し、丘陵の上は墓地として、前方後円墳や周溝墓などが築かれた。人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになった。


⑥ 吉野ケ里散策 甕棺墓

佐賀新聞LIVE(2019.1.19、参考)

発掘当時の甕棺墓

北内郭のすぐ北側には甕棺墓(かめかんぼ)が南北に列をなして並んでいます。約200基の甕棺墓が眠っていて、その先には約2100年前の歴代の王の墓と考えられている「北墳丘墓」があります。

吉野ケ里遺跡は吉野ケ里丘陵と呼ばれる南北約4.5キロ、東西約500メートルの小高い丘の上にあります。周辺より十数メートル高いその丘の南端に環壕(かんごう)集落はあり、紀元前5世紀頃から弥生時代の集落が始まって、3世紀に最盛期を迎えます。現在、復元された環壕集落はその3世紀です。

ただ、その集落が成長する中で「甕棺墓」と呼ばれる巨大な土器に埋葬するお墓を中心とした墓地としても吉野ケ里丘陵は使われました。特に紀元前1~2世紀には丘陵南部の尾根部分に列状の墓地が続き、長い場所では約600メートルもあります。現在、吉野ケ里遺跡から甕棺は約3000基発掘され、その中から人骨も約400体発見されています。この頃の環壕集落は最盛期の約40ヘクタールの広さの半分程の規模でした。つまりそれは、復元された集落と甕棺墓は年代が違うということです。現在、3世紀に対応する墓地は見つかっていません。この日本最大級の集落をつくり、住んだ人達はいったいどこに埋葬されたのでしょう。それは今でも吉野ケ里の謎です。(福田幸夫、吉野ケ里ガイド)