東京の都市計画 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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東京の道路や鉄道の事情は今生じたものでは無く、徳川家康ら武士の武力闘争文化に基づいて外敵の侵入を妨げることを主目的に計画されたものが、再開発の困難性もあり、そのまま踏襲されたものであった。

これに対し、徳川家康がやってくる前の江戸は太田道灌が開発したと言われ、今の下町、すなわち墨田区・江東区あたりは、道路・鉄道線路ともに京都の条坊制によく似た計画都市であった。

都市と言うものは最初の都市計画をチャンと考えないと、未来永劫、後々まで矯正出来ないことが分かる。

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国道246号線、赤坂御用地あたり、道路の延長にビルがあり、視界を遮っている。道路下に東京メトロ銀座線がある。--- 徳川家康の都市計画

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都道50号線、墨田区菊川一丁目あたり、道路の延長にビルが無く、空が見える。道路下に都営新宿線がある。--- 太田道灌の都市計画


参考

① 東京で
道路よりも鉄道が発達した3つの理由

川辺 謙一:交通技術ライター

東洋経済オンライン(2016.12.31、参考)

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道路の真上に建設された首都高速道路の高架橋。谷町JCT付近(筆者撮影)

東京は不思議な都市だ。世界屈指の巨大都市にまで発展したのに、鉄道と自動車交通の状況に大きなギャップがあるのだ。東京が「電車で移動するのはきわめて便利なのに、クルマで移動するにはあまりにも不便」というアンバランスな街であることは、都内で自動車を運転したことがある人ならおわかりだろう。

そう、東京はドライバー泣かせの都市なのだ。この街の道路網は覚えにくく、見通しが悪いT字路やクランク、一方通行、右折禁止の交差点のように、まるで自動車交通を拒むかのような構造や規則が多数存在する。

いっぽう、東京ほど電車が便利な都市は日本にはもちろんないし、海外にもないだろう。そのことは、国内外の各都市と東京の鉄道路線図を見くらべれば一目瞭然だ。東京の鉄道網は市街地のあらゆる場所をカバーしており、移動手段として便利である反面、鉄道路線図をJR・地下鉄・民鉄各社で分けないとわかりにくいほど範囲が広く、複雑で、密度が高い。

道路の歴史から鉄道の歴史を読み解く

このような鉄道の発達ぶりは海外でも知られている。たとえば米国CNNの日本語公式サイトは、「東京が世界一魅力的な都市である50の理由」(2014年1月1日付)という記事のトップで「世界最先端の鉄道」を挙げ、電車の便利さを紹介している。ではなぜ、東京では鉄道が便利になり、道路が不便になったのだろうか。その理由は、鉄道よりも道路の歴史から探るほうがわかりやすい。道路の資料には、都市計画に関連する話や、鉄道の資料で述べられていない話が詳しく記されているからだ。

筆者は、この理由を道路や都市計画の視点で探り、拙著『東京道路奇景』に記した。この書籍では、東京の道路が織りなす奇妙な風景を「東京道路奇景」と呼び、それができた歴史的背景をたどりながら、東京という都市の「伸びしろ」を探った。その結果、あえて鉄道から離れることで、鉄道が特異的に発達した理由に迫ることができた。ここでは、『東京道路奇景』の中から、東京で鉄道が発達した主な理由を3つ紹介しよう。

1つ目の理由は、道路よりも鉄道の整備が優先されたことだ。つまり、政治的な意図から鉄道を先に発達させた歴史があるのだ。

その大きな要因になったのが、明治維新後に実施された都市改造だ。封建都市・江戸を、西洋をモデルにした近代都市・東京に改造することは、国家の近代化のために必要とされた。

この都市改造は容易ではなかった。封建都市と近代都市では考え方に大きなギャップがあり、それを短期間で埋めることが難しかったからだ。

たとえば車両交通に対する考え方も異なっていた。西洋の近代都市では早期に馬車などの車両交通が発達したのに対して、封建都市・江戸は防衛を重視して、車両交通を拒むような都市構造を採用した。東京に現存するT字路やクランクの多くは、都市改造で消しきれなかった封建都市の名残だ。

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鋪装道路の原点である石畳。ヨーロッパでは馬車などの通行を容易にするため、日本よりも先に整備された。ベルリン・ブランデンブルク門前にて

舗装道路の整備状況も、西洋と日本では異なっていた。西洋では車輪の通行を容易にする舗装道路が早期に整備された。舗装道路の原点とも言える石畳は、イタリアでは紀元前にローマ街道が整備されたころから存在し、その後ヨーロッパを中心に広がった。それゆえヨーロッパでは、舗装道路や馬車を中心とした車両交通が時間をかけて発達でき、自動車の時代にもスムーズに移行できた。

日本では馬車交通が発達しなかった

いっぽう日本では、幕府が街道での車両の使用を禁じたこともあり、車両交通が長らく発達できず、石畳を含む舗装道路もほとんど整備されなかった。このため、陸上移動を主に徒歩に頼らざるを得なかった代わりに、水運が発達して物流を支えた。

日本では馬車が発達できない状況が長らく続いたのち、明治維新後になって突然交通を近代化することになった。それは外国の影響で国家を近代化する必要に迫られたからとはいえ、交通にとっては急な方向転換であった。

そこで明治政府は、道路よりも鉄道の整備を優先した。主要な輸送ルートで大量輸送を得意とする鉄道を先に整備したほうが、交通を短期間で効率よく近代化できるからだ。また、鉄道開業で蒸気機関車が走ることは、当時は見た目にインパクトがあり、新しい時代の到来を大衆に伝えるうえでも都合がよかった。

東京は鉄道の発達が国内で特に早い都市だった。東京での鉄道整備は、日本初の鉄道が開業してから着々と進められた。

2つ目の理由は、東京が「鉄道が創った都市」でもあることだ。

東京には、鉄道とともに市街地が広がったという歴史がある。鉄道をきっかけにして、郊外に住む人が増えたからだ。これは、電車の導入による高頻度輸送の実現で市街地の移動が容易になり、郊外の住宅から都心の職場に通勤する職住分離のライフスタイルが定着したことが関係している。

その後鉄道は新しい街を次々と創った。鉄道網が郊外に拡大すると、その沿線が住宅地となった。新宿駅などのターミナル駅の付近は商業地になり、オフィスや商店が集まった。

その結果、鉄道を事実上の骨格とする珍しい都市ができあがった。人体の骨格と同様に、都市の基礎となる部分を鉄道が担うことになったのだ。

都市の骨格は都市や時代によって異なる。封建都市・江戸では、江戸城を中心とした「の」の字型の濠(ごう)が骨格となった。西洋の主な近代都市では、道路が骨格となった。

ところが東京では、西洋の近代都市をモデルにしたにもかかわらず、道路ではなく鉄道が事実上の骨格となった。山手線を示す円と、中央・総武線を示す横棒を書けば、多くの街の位置関係を簡潔に示すことができるのは、円と横棒が骨格になっているからだ。

それゆえ東京では、道路よりも鉄道を基準に説明したほうが、特定の位置を他人に伝えやすい。たとえば新宿の位置は、「甲州街道と明治通りの交点近く」などと言うよりも、「山手線と中央線の交点近く」と言うほうが、土地勘がない人にも伝わりやすい。

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東京23区の主な鉄道と道路。道路よりも鉄道を基準にしたほうが位置がわかりやすい

鉄道が道路の交通処理能力を補った

いっぽう道路が骨格をなす都市は、国内外に多数存在し、道路を基準に位置を伝えやすくなっている。たとえばニューヨークや札幌では、道路が格子状で、通りがナンバリングされており、交差する2本の道路で位置を明確に示すことができる。パリやベルリンでは、道路が格子状でなくても、街のシンボルとなる大通りを中心に道路網が形成されていて統一感があり、全体に対する部分の位置付けが東京よりもわかりやすい。

3つ目の理由は、鉄道が道路の交通処理能力を補ったことだ。つまり道路をサポートする役割も担ったことが、結果的に鉄道を発達させる要因になったと考えられるのだ。

日本では、戦後になっても道路整備が大幅に遅れていた。1950年代に高速道路の整備が始まるまでは、道路整備の必要性も十分に認識されなかったからだ。それまでは鉄道偏重の交通政策が長らく続き、国内輸送では鉄道が動脈で、道路交通は鉄道を補完する毛細血管と考えられていた。

東京でも同様の理由で道路整備が大幅に遅れ、それが渋滞による交通の混乱を招いた。戦後に自動車保有台数が急増し、道路の交通需要が高まったにもかかわらず道路網が未熟なままだったからだ。また、人口急増で都市化が進んで市街地に建物が密集すると、用地確保が難しくなり、道路整備はますます進まなくなった。いっぽう鉄道でも利用者が急増して輸送力が不足した。

そこで東京では、都市空間を立体的に利用して、首都高速道路(首都高)や地下鉄が整備された。既存の道路や水路などを利用して高架橋やトンネルをつくり、そこに新しい道路や鉄道を通し、都市全体で不足した交通処理能力を補おうとしたのだ。

ところが、自動車交通は十分に改善されなかった。首都高では、郊外を通る迂回路などの整備が遅れたこともあり、年々交通量が増え、渋滞が頻発した。地平の一般道路では、路面電車の軌道撤去で車線数が増えたものの、増え続ける交通量をさばき切れなかった。

地下鉄を含む鉄道は増え続ける輸送需要に対応しつつも、自動車交通の不足分を補うことで、都市全体の交通の混乱を緩和する役割を果たした。自動車交通は渋滞などで利便性が低下したのに対して、鉄道は満員電車という問題を抱えつつも、所要時間が安定した旅客輸送サービスを提供してきた。

アンバランスな道路と鉄道の整備状況

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『東京道路奇景』(草思社)

東京の鉄道は、このような特殊な環境にさらされながら発達してきた。つまり、鉄道網の発達の陰には、道路網の貧弱さがあったのだ。

結果的に東京は、冒頭で紹介したように交通の状況がアンバランスな都市になってしまった。道路網と鉄道網の整備状況に、今も大きなギャップが残っているからだ。

東京の道路網は現在も未完成だ。たとえば都市計画に基づいて計画された道路(都市計画道路)は、全体の約6割しか完成していない。

ただし見方を変えれば、残り約4割の未完成道路は東京に残された発展の「伸びしろ」とも考えられる。未完成道路には、その沿線の街並みや都市全体を変える可能性が秘められているからだ。そもそも道路は都市にとって重要な社会基盤であり、交通路であるだけでなく、ライフラインの通路や災害時の避難路など、都市機能を支えるさまざまな機能を果たしているので、今後もそれを整備する必要性は高い。

東京の最大の弱点とされる渋滞は、道路整備によって緩和されつつある。たとえば首都高では、2015年の中央環状線全線開通で都心部の渋滞損失時間が約5割減少した。これによる好影響は、高速バスによる空港アクセスやトラック輸送を中心とした物流などに及んでいる。

いっぽう東京の鉄道網はほぼ完成の域に達しており、道路網ほどの「伸びしろ」がなく、今後はこうした道路整備が輸送人員の推移に影響を与えるかもしれない。ただし、それが鉄道の混雑緩和や東京全体の都市機能の改善、交通の利便性向上につながれば、多くの人にメリットをもたらすことになるだろう。


② 江戸の都市計画は環濠集落がルーツか!(参考)

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江戸城(上向きが西)


③ 城下町の都市計画(参考)、外敵の侵入を防ぐことが主目的に乱雑の道路が目立つ。

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徳川家康ゆかりの浜松城


④ 太田道灌が作ったと言われる墨田区・江東区あたりの都市計画は京都によく似て、道路と鉄道線路が格子状に敷設されている(参考)。

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上が墨田区、下が江東区