熊襲征伐と三韓征伐 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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以下、記紀の記載についてwikiから抜粋・概説する。

香椎宮託宣と仲哀天皇

仲哀天皇元年(192年)に熊襲の征伐に訪れ、仲哀天皇2年に穴戸の国に豊浦宮を建てられた。仲哀天皇8年9月に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲征伐のため儺県(ナガアガタ、現在の福岡博多にあった奴国、筑紫国)の香椎宮を訪れる。そこで、神懸かりした神功皇后から新羅を攻めよと天照大神と住吉三神のお告げを受けた。しかし、仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌、仲哀天皇9年2月、筑紫の香椎宮で崩じた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮でされた。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。

神功皇后の新羅征伐(三韓征伐)

仲哀天皇の急死、仲哀天皇9年(200年)の後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀天皇9年(200年)3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、熊襲を征伐した。ついで住吉三神より、再び新羅征伐の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。後の応神天皇を懐胎したまま海を渡って新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという。

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1880年、月岡芳年

渡海の際は、お腹に鎮懐石を当ててさらしを巻き、出産を遅らせた。皇后は帰国後、筑紫の宇美(蚊田)で応神天皇を出産し、志免でオシメを代えた。また、新羅を鎮めた証として旗八流を対馬上県郡峰町に納めた。鎮懐石3個あったとされ、長崎県壱岐市と京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納した。

東遷

神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。軍には住吉三神、秦氏などが同行している。

穴門の豊浦宮、現在の下関市の忌宮神社のお祭り「数方庭祭」の由来

仲哀天皇の御代、この地に豊浦宮が置かれましたが、九州の熊襲を扇動して新羅の塵輪が攻め寄せてきました。大変な苦戦をさせられましたが、最後に仲哀天皇自ら弓を引かれ、敵の大将 塵輪を打倒されましたので、賊軍は色を失って退散し、人々は矛をかざして旗を 振って歓喜のあまり踊り廻ったといわれます。これが数方庭の由来とされます。

又、塵輪の首を切ってその場に埋め、大きな石で覆いましたが、 塵輪の顔が鬼のようであったことから、その石を「鬼石」と呼ぶようになりました。数方庭もこの「鬼石」を中心に行われます。

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長門国二ノ宮、忌宮神社(いみのみやじんじゃ)


山口県下関市長府の中心に位置し、仲哀天皇が九州の熊襲平定のため7年滞在した豊浦宮である。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の三神です。


住吉大神の託宣を疑ったため進出した筑紫の香椎で1年にして亡くなった仲哀天皇を武内宿禰命に命じて豊浦宮に殯歛(仮埋葬)し、神功皇后が三韓征伐から帰ってから祀ったのに始まる。


応神天皇は仲哀天皇の死後に神功皇后のお腹に宿られ、三韓征伐から帰ってからお生まれになった。


下って聖武天皇の時代に香椎宮から神功皇后・応神天皇を勧進、合祀し、仲哀天皇を祀る神殿を「豊浦宮」、神功皇后を祀る神殿を「忌宮」、応神天皇を祀る神殿を「豊明宮」と称したが、中世に、火災により全て「忌宮」に合祀した。


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忌宮神社

住吉神社の創建時期

日本書紀』神功皇后紀によれば、仲哀天皇9年(200年)神功皇后は三韓征伐の際、新羅に向う神功皇后に住吉三神が託宣してその渡海を守護し、帰途、三神が「我が荒魂を穴門の山田邑に祀れ」と再び託宣があり、穴門直践立(あなとのあたえほんだち)を神主の長として、その場所に祠を建てたのを起源とする。

住吉三神

住吉三神は神代の昔、伊邪那岐命が黄泉国(死の世界)から帰って穢を清められた時出現された三柱の神です。底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。住吉大神ともいう。海、航海、和歌の神である。

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参考




住吉三神と宗像三女神は、神功皇后の三韓征伐を成功させ、秦氏の渡来を助けた。また神功皇后、応神天皇の東征には秦氏、住吉三神が同行している。宗像大社の沖津宮、沖ノ島は秦氏の渡来の中間目標でもあったようで、秦氏の氏神である宇佐八幡宮の祭神、比売大神は宗像三女神である。