渡来人の混住の地は1300年間の争いの地であった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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常陸国あたりは既に蝦夷(縄文人、山の民)や海人族安曇氏(海の民)などが既に定住していたが、大和政権による白村江の戦い(663年)の敗戦以降、百済人や新羅人などの渡来人達をさらに追加した。この辺りから陸奥国までの蝦夷の国を開拓する為であった。

彼らは元々朝鮮半島で争っており、気質や価値観が全く異なっていた。以降、1300年に渡り抗争を続けることになる。

鎌倉時代以降、新羅人の末裔である東国の武士達が主流となったが、この末裔が幕末、水戸徳川家の主流である書生党となった。これに対し、非新羅人達、特に百済人(藤原氏)達の末裔(佐竹氏の残党などの郷士)が徳川光圀の下に大日本史の編纂を開始し、尊皇を主張する天狗党となった。

この天狗党が尊攘激派として、井伊直弼を暗殺する桜田門外ノ変を引き起こしたり、天狗党の乱を起こし壊滅的状態にまで追い詰められた。その後、戊辰戦争以降は立場が入れ替わり、書生党が賊軍として会津戦争に参戦して敗れ、水戸に帰還して官軍側の天狗党と衝突し、現在の千葉県匝瑳市で最後の抗争として松山戦争を戦った。

この抗争の後遺症は今も残り、子孫達にシコリが残っていると言う話を聞いたことがある。


雑談1

土佐藩でも城下士と差別された郷士がおり、坂本龍馬は郷士であった。前者は徳川の譜代大名の山内氏であり、後者は秦氏の末裔の長宗我部氏の家臣であった。すなわち水戸藩と同じ事情があり、藩主の山内容堂と吉田東洋の城下士の派閥と武市半平太と坂本龍馬の郷士の派閥に分かれていた。坂本龍馬が真っ先に長州藩に向けて脱藩した理由がよく分かる。


雑談2

西郷隆盛の家系は会津藩の西郷頼母と同族で肥後の菊池氏の末裔であった。この菊池氏は東国にも移住して、東国にも菊池氏や菊地氏が存在し、東国の武士達と同族であった(参考)。これに対し、大久保利通の大久保氏は、明確ではないが藤原氏末流を称している。戦国時代末に京都から薩摩に移ったと言われている(wikiより)。

ここに西郷隆盛と大久保利通が袂を別つ価値観の相違があったのかもしれない。


雑談3

毛利氏や桂氏は公家の大江氏の末裔、大久保氏も公家の藤原氏の末裔など、公家の末裔を名乗る一族は尊皇であった。

これに対し、東国の武士である清和源氏と桓武平氏の一族は、それぞれ清和天皇と桓武天皇の末裔を名乗りながら天皇を蔑ろにしている。彼らは元々、気質も価値観も天皇や公家とは全く異なり、天皇と同族とは到底考えられない。彼らは天皇や公家と対等な官職を得るために、天皇の末裔の公家の源氏や平氏の親戚を詐称したと考えられる(参考)。


参考

①-1 匝瑳で戦死、慰霊法要 水戸藩の内部抗争 150年前「松山戦争」

東京新聞、千葉(2018.9.29、参考)

脱走塚をお参りする関係者ら=匝瑳市で

水戸藩内の最後の対立抗争「松山戦争」の戦死者を埋葬し、供養碑が建立されている匝瑳市中台の市指定史跡「脱走塚(水戸藩士の墓)」などに二十七日、藩士の子孫や水戸市の関係者ら約五十人が訪れ、地元の住民らとともに慰霊法要を営んだ。 (小沢伸介)

水戸藩では天保改革をきっかけに内紛が起き、幕府を重んじた諸生党と倒幕派の天狗(てんぐ)党が抗争を繰り返していた。

一八六八(明治元)年旧暦の十月六日、水戸を脱出した諸生党を天狗党が追い詰め、現在の匝瑳市中台などでの戦闘の末、壊滅させたのが松山戦争だ。

戦死者三十人のうち二十五人が地元住民の手で埋葬され、水戸藩の脱走兵とみなされた経緯から「脱走塚」と呼ばれるようになったという。住民は当時から慰霊を続け、十年前に別の寺で見つかった藩士一人の墓も移した。また、百二十年や百四十年の節目には水戸の人たちが訪れている。

今年は松山戦争から百五十年となり、藩士の子孫でつくる「水戸殉難者恩光碑保存会」などの関係団体や水戸市が実行委員会を組織し、先人の足跡や精神を学ぶ研修の一環として匝瑳市を訪れた。

慰霊法要は地元の龍性院であり、水戸市の高橋靖市長、匝瑳市の太田安規市長、地域住民ら約百三十人が参列。焼香して手を合わせ、冥福を祈った。一行はその後、脱走塚の墓前に線香をあげ、供養碑に刻まれた文字をなぞるなどして往時に思いをはせていた。

実行委員長の岡見円礼(みつひろ)さん(71)=水戸市見川五=は「急にやってきた水戸藩同士が勝手に戦争を行い、多大な迷惑を掛けたにもかかわらず、亡くなった兵士を手厚く供養し、今日まで守ってくださった地元のご厚意に感謝している。今後も慰霊と交流が続くことを願っている」と話した。


①-2 松山戦争(wikiより)


背景


② 親鸞聖人は布教の最初を常陸国から始めた(参考)


③ 常陸国は剣術の発祥の地であった(参考)


④ 現在の鹿島神宮のお祭りに、海人族由来、百済人由来、そして新羅人由来のものが共存している(参考)


⑤ 常陸国あたりは新羅人や百済人などの渡来人が混住し、古代から互いに争っており、新羅人の末裔の東国の武士からなる徳川幕府が主流の時、その他、非新羅人の渡来人達は徳川幕府の上に天皇を置いた。