鹿島神宮のお祭りで、日本の歴史と日本人のルーツを象徴するものを例示する。
鹿島神宮のお祭りは一年の中で月や季節毎に多彩なお祭りがあり、12年に一度という干支毎のお祭りもあるようだ。その中から象徴的な儀式をピックアップした。
最初に船のお祭りがある。鹿島の最も古い海人族によるお祭りと考えられる。7世紀以前から続いていると思われる。
次いで、流鏑馬について紹介するが、お宮の神官さんの装束による騎射は7世紀以降の中臣氏(藤原氏の一族、百済人)による祭祀の伝統によると考えられる。
次いで小笠原流による流鏑馬の例は、鎌倉時代前後から鹿島神宮を支配した東国の武士(新羅人)に由来すると考えられる。最後の祭頭祭も鎌倉時代以降の鹿島神宮を支配した東国の武士(新羅人)に由来すると考えられる。
ちなみに、高句麗人は関東平野西部の高麗神社が中心に、また、蝦夷の神社は東京都府中市の大国魂神社が中心になると考えられる。その他、千葉県の玉前神社が海人族の神社であり、また埼玉県大宮の氷川神社が出雲系であり、秦氏の神社である。
参考
① 鹿島神宮で12年に1度の「御船祭」 120隻の船団に歓声
茨城県鹿嶋市の鹿島神宮で2日、12年に1度の式年大祭「御船祭(みふねまつり)」が行われた。みこしを載せた御座船(ござふね)など約120隻の船団が鰐(わに)川を進むと、川岸に集まった観光客から歓声が上がった。
御船祭は東国開拓の足跡を伝える祭りとして、約1700年前に始まったとされる。約120隻の船団は約2時間かけて鰐川を進み、千葉県香取市と潮来市で神事を行った後、鹿島神宮に戻った。
② 可愛らしく御田植祭、勇壮に流鏑馬、、、中臣氏(百済人)のお祭り
5月1日、鹿島神宮にて御田植祭、流鏑馬が執り行われました。御田植祭では、五穀豊穣を祈願して、赤いタスキをした童女たちが田植え舞を奉納し、本殿横で田植えを行いました。
流鏑馬とは、武士が馬の上から鏑矢を射る弓技。奥参道には約180mの馬場が設けられ、5人の射手たちが在来馬を馳せながら、3つの的をめがけて矢を放ちました。的に矢が命中するたびに、つめかけた多くの観客たちから歓声があがりました。
[取材]赤羽文恵まちかど情報特派員
注: ここでの武士は武人のこと
③ 鏑矢
④ 鹿島神宮の流鏑馬、東国の武士のお祭り
⑤ 祭頭祭(参考)、東国の武士達のお祭り
この祭りが起源は天武朝や平安時代にさかのぼるなどの説もありますが、文献での初見は建仁4年(1204)とされます。願意は五穀豊穣・天下泰平ですが、昭和になって武運長久を祈って旅立つ防人(さきもり)の「鹿島立ち」の故事をあらわす意味も加わったようです。
⑥ 剣術発祥の地の常陸国、東国の武士達が武力で頭角を表し、元々、中臣氏(百済人)が祭祀しでいた鹿島神宮などを支配した