江戸時代の大井川の渡しは、江戸の町を守るためにあった | 日本の歴史と日本人のルーツ

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越すに越されぬ大井川にはなぜ橋や渡し船がなかったのか?

その回答は、江戸幕府は川越人足1000人(最盛期)を江戸に向かって進軍する外敵に対する守備軍団として駐留させるためと考えられる。渡し賃は駐留経費に充てられた。

その証拠に、wikiによると大井川の川越人夫は島田に350人、金谷に350人が常時いた。川越人夫は雲助とは違い、藩府直参の下級官吏であったため、安定した職業でもあった。


参考

① 大井川には何故、橋や渡し船が無かったのか?



江戸時代に東海道を抜けるには、難所と呼ばれるところが2か所ありました。

1か所は箱根の峠越え、そしてもう1か所が大井川です。

なかでも大井川は「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように、箱根以上の難所として認識されていたようです。

しかし、そんな大変な大井川を渡るのに、なぜ橋や渡し船がなかったのでしょうか?

そんな素朴な疑問について、その理由を考えてみたいと思います。

増水により川止めが2~3日も続くことがあった

江戸時代において、大井川を渡るためには川越人足とよばれる人たちに肩車をしてもらうか、蓮台と呼ばれる梯子のようなものに乗せてもらう以外に方法はありませんでした。

そのため、雨などによって川の水かさが増すと、川止めとなって渡ることができなくなりました。

運が悪いと川止めが2~3日が続くこともあり、旅に慣れた人の間では「川を越してから宿を取れ、川の手前で宿を取るな」というのが常識となっていたようです。

旅人がそんな不便な思いをしているにもかかわらず、江戸幕府はどうして大井川に橋をかけなかったのでしょうか?

また、なぜ大井川には渡し船がなかったのでしょうか?

一般的には、江戸を守るための軍事的な理由から、幕府によって大井川には橋を掛けることが許されていなかったといわれています。

しかし、これはどうやら真実とは異なるようです。

明治時代に大井川に架けられた長さ900mの木造橋


大井川に橋がかけられていなかった理由は、いくつか考えられます。

まず、川の勾配や川幅といった地形的な問題や水量などを考えると、当時の架橋技術では橋を架けることが困難であったということです。

確かに明治12年になって大井川に橋がかけられましたが、その長さは900mにもおよび、世界一長い木造橋といわれました。

江戸時代の架橋技術でそれだけの橋を作ることは、実際に難しかったのだと思います。

(注: 錦帯橋、通潤橋、そして猿橋などのような特殊な架橋技術は江戸時代には既にあった。架橋技術には問題無い)

しかし、それだけが理由ならば、なぜ渡し船がなかったのかという疑問がわいてきます。

実は、ここに大井川になぜ橋がかけられなかったのかという本当の理由が隠れているのです。

本当の理由は川越人足の既得権益者を守るため?

大井川に橋を作ることが技術的に困難であったにしても、実際に渡し船を使ってわたることは可能でした。

渡し船があれば、難所といわれた大井川もずいぶんとわたりやすい川になったはずです。

そのため、渡し船を認めてほしいという請願が幕府に対して何度も出されているようです。

しかし、幕府はそれを頑なに認めようとしませんでした。

それはなぜでしょうか?

江戸時代の前期のころに島田と金谷の両方の宿で、川越人足を束ねる組織がつくられ、その業務を独占的に行うことを幕府から認められていました。

川越人足は、最盛期には1000人程度もいたといわれていますから、当時においては巨大産業です。

現代の日本においても、従業員が1000人規模となるとかなりの大きな企業です。

もし、幕府が渡し船を認めてしまうと、これらの川越人足たちが職を失ってしまうことになります。

 

これだけの規模になってしまうと、幕府もその既得権益を保護せざる負えなくなってしまったと考えらえます。

 

多くの旅人たちが望んだ渡し船を出すための請願を、幕府が何度も握りつぶしてしまった背景には、巨大産業としての川越人足制度をなくすわけにはいかないという本音があったのだと思われます。

 

実際、決められた川渡し場以外の場所を、自ら歩いたり泳いで川を渡ったりした場合には、「間通(かんどう)越し」とか「廻し越し」などといわれ、幕府より厳罰に処せられたようです。

 

このことから、いかに幕府がこの川越人足のビジネスを守りたかったのかが理解できるかと思います。


(注: 明治維新後は人足達を旧幕臣と共にお茶栽培などに従事させている!人足ビジネスの権益を守る為と言うより、人足達を外敵の通過を防ぐ軍団として駐留させ、人足の渡し賃は、その駐留経費を捻出する為と考えられる)


川の水深によって決められていた川越人足の料金



大井川の川越が巨大産業であることは分かりましたが、それでは川越人足を使って実際に大井川を渡るには、どれくらいの料金がかかったのでしょうか?

実は、大井川を渡るときの料金は川の水深によって細かく分けられていたのです。

大井川を渡るには、川渡し場の両岸に設置された川会所に行って「川札」を購入する必要がありました。

この川札は、川越人足の肩車で渡る場合には1枚、大きな荷物などがあってもうひとり人足が必要な場合には2枚買う必要がありました。

また、4人で担ぐ蓮台渡しの場合には4枚必要でした。

要するに、川越人足の人数分だけ「川札」が必要になったわけです。

この「川札」1枚を購入するための料金は、川越人足の体のどの部分まで水深があるかで決まります。

水深が川越人足の股の下までだと「股通」となり48文(960円)、褌(ふんどし)の帯の下までだと「帯下通」で52文(1040円)、帯の上だと「帯上通」で68文(1360円)、乳首より下の位置だと「乳通」で78文(1560円)、脇の下までだと「脇通」で94文(1880円)となっていました。

そして脇よりも水深が深くなると、川止めということになりました。

水深が脇の下までの「脇通」のときに蓮台を使って大井川を渡ると、94文の川札が4枚必要になりますので、合計7520円ということになります。

「脇通」の日に肩車で渡るとなるとお客自身もかなり濡れることになってしまうので、お金のある人は蓮台を使って優雅に優越感を感じながら渡ったのでしょう。


② 日本中の道が昔より狭くされ、そのままに放置され、風待ち潮待ちの船のみが発達した