江戸時代の物流は北前船などの海運が主で、陸運は発達しなかった。現在の下関市の北浦海岸辺りは、国道とJR山陰本線が並行しているが明治になってからで、江戸時代までの北浦街道は人一人がやっと通過できる程度の山道しかなかった。
これに対し、考古学が実証しているが、平安時代までの律令制の政治体制では官道という現在の高速道路とも遜色ない高規格の道路が日本全国に通じていた。しかし、平安時代後期以降、特に鎌倉幕府以降は陸上の道路は発達を停止し、江戸時代になっても人一人しか通過出来ない山道程度の道しかなかった。大井川には橋はなく、親不知海岸は干潮時の砂浜を大急ぎで通過していた。
これに対し、北前船などの大型船による海運は発達した。幕府は海運に力をいれたようだ。当時の北前船は大量の米を運ぶことが出来、千石船が出現した。ただし、潮待ち、風待ちがあり、自由自在には航行出来なかった。
江戸幕府としては、江戸の町に直接、陸路を進軍する外敵を嫌って道を発達させなかったようだ。
参考
① 江戸を食糧危機から救い、大坂を大洪水から守った“稀代の豪商”の謎
江戸時代初期に、河村屋七兵衛(河村瑞賢)という商人がいた。新井白石をして、「天下に並ぶものがいない富商」と唸らせた男だ。明暦3(1657)年、明暦大火の材木買付で頭角を現したこの人物は、幕府から数々の大事業を命じられ、江戸という時代を縁の下から支えるインフラ構築事業に邁進していく。
しかし七兵衛の半生は決して平坦ではない。明暦大火で三男を、治水事業では跡取りの次男を事故で死なせてしまう。七兵衛自身も何度も死地を潜り抜け、河村屋の身代を傾かせたことも一度ならず。彼は“逆境”に立たされるたびに知恵を振り絞り並はずれた胆力で乗り切ってゆく……。
作家・伊東潤氏は『江戸を造った男』(朝日文庫)で、この河村瑞賢の波瀾万丈の生涯を描いている。2018年は、瑞賢の生誕400年となる節目の年。伊東氏が取り上げた河村瑞賢とは、いったいどんな人物だったのだろうか。
河村屋七兵衛(河村瑞賢)の名を知る人は多い。東北地方の米を江戸に廻米する航路――東回り航路・西回り航路の開拓者として、その名は多くの教科書にも掲載されている。航路開拓がなぜかくまでの功績として称揚されているのだろう。それは、前近代における道・路の開発は国土を広げることにも等しい大事業だったからだ。
七兵衛の生年とされる元和四(1618)年の3年前、大坂の陣の終焉とともに、全ての大名が徳川幕府に従属するところとなった。いわゆる元和偃武である。しかし、これだけでは今日私たちが考える意味での「江戸時代」が成立したとはいえない。各地の大名がその領国を支配し、諸大名が幕府に対し作事や軍役を提供するという間接統治は、支配の強弱に差こそあれ室町幕府や鎌倉幕府においても見られたシステムである。「中世」とは明確に異なる「近世」として江戸期の日本が語られるのは、同時期の日本が連邦国家から統一国家へと一歩踏み出したと認識されるためだ。
七兵衛の壮年の功績の筆頭は、、、
統一された国家を力(軍事力)だけで維持することはできない。経済的な統一というソフトパワーの裏付けがあってこそ、統治は安定する。
日本全国が同一の市場・マーケットとして認識され、何重もの取引関係で結ばれることで武士から商人、さらには無数の庶民までが「現在の社会・経済のルール」のなかで競争し、協働するようになる。特定のルールのもとでより自身に有利になるような行動を積み重ねていくと、多くの個人・組織がその時代のシステムに対して最適化されていく。つまりは、少なからぬプレーヤーにとって「今のルール」が居心地の良いものになっていくのだ。ここに至ると、よほどの状況・情勢の変化がないかぎり現在の体制を転覆させようと考える者はなくなる。この経済的ネットワーク、社会システムの統一が江戸幕府を長期の、安定した、そして実効的な政権としたひとつの要因だ。
七兵衛の壮年の功績の筆頭は何といっても航路開発である。分権国家から集権国家に一歩(半歩?)踏み出すためには、その行政機構を支えるにたる首都が必要となる。さらに、寛永10(1635)年に制度化された参勤交代の制度はいやがうえにも江戸への人口の集積を進めることとなった。その食糧需要を満たさないことには、「江戸」を維持することは出来ない。
途中に陸運や湖運を経由する従来の物流システムからより大きな、より重いものを運ぶことを可能にする海運システム(漕政)の一新は江戸が現在の我々が想像する江戸になるために必須の事業であった。
開拓された航路によって運ばれるのは米だけではない。当時の航海技術によっても往来が可能な方法が示されたことは、廻米にとどまらない人とモノ、そして貨幣の移動を生むことになる。水の道、その途上の中継点である湊が結ばれていくことで、日本はひとつのまとまりをもった商いのネットワークとして繋がれたのだ。このように考えると、七兵衛の業績は食糧の輸送によって「江戸の町を造った」にとどまるものではない。国内市場の創造を通じて「江戸時代を造った」とさえいえるだろう。
新田開発や治水工事、さらに鉱山開発も
西回り航路という大事業が達成されたのは寛文12(1672)年。このとき七兵衛は既に50代半ばにさしかかっていたと考えられる。当時であればそろそろ隠居して余生を楽しむ年頃といって良い。しかし、その後の活躍――新田開発や治水工事、さらに鉱山開発は航路開発に勝るとも劣らぬものとなった。
江戸の経済システムという観点からは両者は密接に繋がっている。航路開発前、一番の問題は各地でとれる米をいかにして江戸や大坂に運ぶかというところにあった。しかし、航路が確立し、物流が活発になると次の課題はいかにして江戸に運ぶ米を生み出すかに移っていく。
さらに17世紀を通じて進んだ新田開発は山林を郷に変えていく作業である。木々を失った土地は保水力を失い、中下流域での洪水被害を大きなものとする。加えて、流出した土砂が下流域や河口付近に堆積することで物流の中継点、つまりは経済ネットワークの要である湊の機能を低下させる。航路開発によって回りはじめた江戸経済システムの維持・発展のためには新田開発・治水は必須の事業である。本書でも終盤のテーマとなる大和川・淀川流域(現在の大阪・奈良)における治水・治山事業は江戸期の天下の台所たる大坂を再生した事業といって良い。その意味で七兵衛は「大坂を造った男」でもある。
天下の大業績として称えられる航路開発や畿内の治水にとどまらず、高田藩での鉱山開発にも携わった七兵衛は、国のシステムを作り、当時の中心都市である江戸・大坂を救い、さらには地方経済を救う。七兵衛の八面六臂の活躍にはあらためて驚かされるばかりだ。江戸という時代の経済システムにとって必要なこと、その端緒から中心的な役割を果たし、その完成に向けての事業を推し進めた。商人として利を生む仕組みを造るにとどまらず、天下が利を生む仕組みを造った。歴史は国は勇敢な英雄や大政治家のみによって成り立つものではない。瑞賢の事績を知ることはもうひとつの江戸、そして日本の歴史を知ることである。
(文/経済学者・飯田泰之)
⑥ 江戸時代の大井川の渡しは、江戸の町を守るためにあった