大阪造幣局の明治天皇行幸の記念写真に西郷隆盛は写っていた! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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造幣局沿革誌には明治5年、明治天皇が造幣局に行幸されたおり、西郷隆盛も同行し錦旗を奉持せりとの記録があった!


写真左端の人物が西郷隆盛と考えられている。この人物と写真右の少年ラッパ手の間に、若干後ろに近衛兵が一人、顔だけ出して隠れて見える。この人物こそが本来の近衛兵の隊長と考えられる。この明治天皇の閲兵式の記念写真に、西郷隆盛を急遽目立って映るように苦心して近衛兵を並べたのであった。

もう一点不自然なことを指摘したい!近衛兵の全員が右手に銃またはラッパを持っているのに、写真左端の人物一人が左手に錦旗を持ち、右手をぶらっと下げている。そのおかげで、後ろに隠れている隊長は顔と足元がどうにか確認出来る程度である。本来なら錦旗を右手に持った方が、隊列が美しくなるだけでなく、本来の隊長も映りやすくなるはずだ。

実は西郷隆盛は右手に障害があり手が動かなかったのである。明治10年の西南戦争に関するルモンド ・イリュストレ紙のイラストでも、少年期からの障害のある右手がはっきり描かれている(参考)。

この西郷隆盛の姿形を見て従来の西郷隆盛の肖像画と全く異なるために即座に否定する方々が大勢であると考えられるが、従来の肖像画の方が誤っていたとまでは言わないが、ごく限られた太っていた時期の想像図であったことが証明されている(参考)。また、明治5年6月の段階である程度ダイエットに成功していたと考えられる。


注意

写真の中の人物の体格について、写真左端の西郷隆盛より、その他の兵士の方が大きいのは、写真師(内田九一)による写真の修正によると考えられる。そうしないと兵士が小さくなり見えなくなるからである。すなわち、写真の不自然さは撮影当時の写真撮影技術によるもので、フォトショップなどによる後世の意図的捏造はない。実は、当時の近衛兵の主力は薩摩城下士で高身長であり、西郷隆盛と同じ身長・体格の兵が普通であった(参考)。

また、制服が兵士と同じとの指摘や徽章が無いなどの指摘に対し、当時はまだ創成期であり完成されておらず、肩章が有ったり無かったりなど、混乱が多く見られる。

以下の明治5年の明治天皇の長崎行幸の図と上の写真は同じ服装になっている。また、よく見ると行列の先頭に両手で錦旗を持った隊長と二人の少年ラッパ手、二列の近衛兵、アラビア馬にまたがる明治天皇、馬の前を歩く三人の供奉員が描かれている。西郷隆盛はこの三人の供奉員の中央であろうと思われる。

明治5年5月、明治天皇は軍艦「龍驤」に乗艦、参議の西郷隆盛が随行して九州・西国を巡幸、6月14日(新暦7月19日)長崎港に入港、17日早朝、熊本に向かわれた(参考)。


参考

① 西郷隆盛の写真二枚(参考)


 ② 大阪造幣局の西郷隆盛の写真は本物か!?