飛船問屋大和屋政助の船倉、山口県防府市富海 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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右の赤印(と金星印)が飛船問屋大和屋政助の船倉、左の金星印が長州ファイブの中の二人、伊藤博文と井上馨がイギリスから帰国、上陸した場所

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飛船問屋大和屋政助の船倉(FB幕末ファンサイトより)

大和屋は屋号、本名は清水与兵衛という。文政3年(1820)~明治19年(1886)享年66。幕末時代、飛船等の町方世話役で勤王の志士たちの活動を支援した。嘉永6年(1853)12月徳山藩へ軍用金100両を献納したほか、文久3年(1863)には明治天皇の叔父にあたる中山忠光は幕府から追われる身となり10月に大阪から飛船で富海に落ち延び、この土蔵の2階でしばらく潜伏していた。また元治元年(1864)藩内の保守派に追われ萩を脱してきた高杉晋作を暴風雨の中「飛船」で馬関まで送ったという(参考)

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飛船問屋大和屋政助の船倉(FB幕末ファンサイトより)

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飛船問屋大和屋政助の船倉の解説(FB幕末ファンサイトより)


参考

① 幕末の海岸線

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左の金星印(伊藤博文・井上馨両公の上陸跡地)と右の金星印(船倉)を結ぶ路地から南東側の土地(浦開作)は明治時代以降の埋め立て地であふことが理解できる。

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右手が浦開作地区、すなわち埋め立て地(写真はFB幕末ファンサイトより)


② 伊藤博文・井上馨両公の上陸跡地(参考)


③ 富海本陣、旧山陽道沿い(FB幕末ファンサイトより)

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大名行列の休憩、長崎奉行やオランダ人の宿泊など、比較的小規模な人数の宿泊に使われた。

弘化3年(1846)7月6日、異国船三隻琉球国渡来につき下向のおり、島津斉彬公がここで休憩

嘉永6年(1853)9月9日、天璋院篤姫、徳川家定のところへお嫁入りお登りのおり、ここで休憩

  ●山口県立大学ブックレット「新やまぐち学」NO.3
幕末期における長州瀬戸内の村・富海の躍動より

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