ほとんど写真を残していない西郷隆盛は、二人のモデルを基に想像して描かれたキヨッソーネによる肖像画画をルーツとして、多くのバリエーションが発生した。西郷従道以下、親戚縁者が否定出来ない状況で独り歩きしてしまったようだ!挙げ句の果てには、実際の西郷隆盛を鹿児島県まで行って会ってきたと言う人物まで現れ、記憶が曖昧になった時期まで年月をかけて出来上がった肖像画を近親者に確認までさせている。
頭髪の禿げた部分がどの肖像画でも皆、額の右側にあり、太めの頭部に太めの顔面を持つ西郷隆盛を右顔面から写し取る構図になっている。現在、鹿児島県内の縁者が所有していると言う最新の肖像画についても、この呪縛から逃れられていないと言える。
これに対し、全く独立して描かれた錦絵の西郷隆盛の肖像画では、頭髪の禿げは正しく額の左側となっている。実は、西郷隆盛の少年時代に右腕に障害を受けて自由に動かせず、左手に持ったキセルで額の左側の頭髪部に火傷を与え、また左瞼の上に火傷によるコブを作った。この右腕の障害と左瞼の上のコブはルモンド ・イリュストレの西南戦争の記事のイラストに見られる(参考)。
参考
① 鹿児島県に下野した西郷隆盛を描いたとされる肖像画
元、庄内藩士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。そして、もう一枚は大正2年(1875)に、洋画家黒田清輝の門弟『佐藤均』が、『石川静正』が描いた肖像画をもとに、描いた西郷南洲翁肖像画です。この肖像画を複数の近親者に見て頂き、お墨付きをいただいた『西郷南洲翁肖像発行趣意書』もある(参考)。
③ 西郷隆盛の特徴を検討した後の最新肖像画案(参考)、、、弟の西郷従道によく似たイケメンであった!(妻の糸さんが一目惚れして、役者のようなよか男と評している)
小林清親《鹿児嶋征討戦記》〔太田記念美術館蔵〕を改変した。目元の左右の非対称について、右目が大きく二重瞼、左目が小さく一重瞼とする。
④ キヨッソーネの西郷隆盛の肖像画
顔に関し、弟の西郷従道の上半分と大山巌の下半分から合成した。しかし、結果として西郷従道や大山巌に似た面影の無い代物になっている。
当時、写真や絵画などは修正・補正をすることが当然であったようだ!西郷従道などは超イケメンの写真を遺しているが、彼でさえ苦笑していたと言われている。修正の結果、西洋人風の目鼻立ちとなり、大事な特徴である目元の非対称や瞼の上のコブを残すことはしていなかった。
頭部の禿げは本来、頭部の左にあるべきだがキヨッソーネが勘違いしている。この誤った特徴がほぼ全ての肖像画に引き継がれている。
⑤ 長崎歴史文化博物館の西郷隆盛の写真(参考)
頭髪の禿げは正しく左側頭部にある。
判別出来る唯一の特徴は左側頭部の白く見える禿げ、額と頭髪の境目あたりは弟の従道にソックリ生き写しのように見える。