巷では「嫌われる勇気」なる本が売れているそうですが、そんな本の内容とは全く関係なしに「本当の嫌われる勇気」について考えてみました。
いま自分の周りにも嫌いな人を自分から遠ざけて好きな人、一緒にいて楽しい人たちとだけ関わっていれば人としての成長目覚しく、自己実現も出来るし幸せいっぱいの人生を送ることが出来るから嫌いな人はどんどん排除しましょう。当然排除した人たちから嫌われますが「嫌われる勇気を持ちましょう」なんて言う人がいる。
これ読んで一番最初に感じたことは・・・・・なんとも欧米的な思考だなと。考えてみれば世にはびこる自己啓発もカウンセリングもコーチングも欧米から来たものです。特に自己啓発の「ポジティブで楽しく」がこんな考え方の根底にあるのではないでしょうか。
この世は魂の成長の場であるのなら、それでいいんでしょうか。
人は価値観もそれぞれなので「好き嫌い」があるのは当然です。ですから自分のことを嫌いだという人が出てきても致し方ありません。自分のことを嫌いだといっている人を好きになる必要は当然ですがありません。
でも多くの人は「みんな仲良く」と心の底にあるし、もしかしたら自分に悪いところがあるからあの人は私のことを嫌っているのではないかと思い悩んでしまう。
でも相手の価値観(好き嫌いの価値観)に自分を合わせる必要はないのです。自分のことを嫌いと言っている人に嫌われたっていいじゃないですか、「嫌われる勇気を持ちましょう」。
で・・・・それだけかっていうと、これでは修行になりません。
問題は自分です。
相手が自分のことを嫌いだといってもいないのに、何かものすごく嫌なことをされたわけでもないのに「あの人嫌い」と思うこと多くありませんか?
私はこれが人生成長の課題だと考えます。
「なぜ自分はあの人が嫌いなんだろう」
自分に深く問いつづける。
ここで邪魔するのが巷にあふれる自己啓発本やセミナーやその手のブログに書かれてある「答え」です。
鏡の法則
相手の中に自分の嫌な部分があるから
そう言って割り切ってしまう。ひどい人になると「どうせ私はそういう人間なんだから仕方ないだろ、これが私だ」と開き直る。
開き直るは実は自らを開いて直るからとてもいい言葉なので居直るが正しいですね。
実は居直りは逃げなのです。
田坂広志さんは「割り切る」人は知性が低い人と言われています。
私はドライな人間ですと割り切って語る人を見ると「なんて知性の低い人なんだ」と思います。
知性とは答えを割り切らず、ずっと向き合い続ける力なんだそうです。そして今、時代は「知識・知能」から「知性」へと移行が始まっています。
そうやって自分はなぜあの人が嫌いなのか向き合い続けると嫌いな理由が自分の中にあることが分かるのです。分かるまでの悶々とした過程が魂を磨きます。
その結果自分の中でひとつ「嫌」が消えることになります。自分の中の「嫌」が無くなれば無くなるほど人は自由に、在りのままに生きることが出来るようになります。
そして「嫌」に使っていた膨大なエネルギーを自分が本当にやりたいことに使うことが出来るようになる。
自分のことを嫌いだといっている人に好かれる必要はありません。堂々と嫌われましょう。
でも、自分の「嫌」についてはしっかりと向き合いましょう。そうすることによって人の知性は磨かれ、自由、在りのままを手に入れることが出来る。正に「自由自在な人生」を手に入れることが出来るでしょう。
私も「嫌」と向き合い続けています。頑張らねば。
次回は・・・・実は人は自己防衛のプロなのです。今日の記事の裏をかくようなことを無意識あるいは意識的にやっています。ということで次回はそのことを書こうと思います。