前回のブログ(パチンコ業界に足を踏み入れた当時の話)に登場したパチスロ機ニューペガサスについての追記です。

 

ニューペガサス(パル工業:1.5号機)

 

ニューペガサスは1987年に登場した1.5号機のパチスロ機でみなし機撤去が厳密化された2007年頃まで20年近く稼働し続けた名機です。

 

パチスロは2号機以降、基本的には完全確率方式というものが採用されており(違法改造された裏モノを除く)、レバーを叩くと毎回同じ確率で小役やボーナスの抽選が行われています。

 

しかし、2号機の規制が入る前に登場したニューペガサスのボーナスの抽選は、レバーを叩いた時に抽選するのではなく、ボーナス終了時に次回のボーナスがいつ当たるかが決まってしまう吸い込み方式という抽選方式が採用されていました。

  • 吸い込み方式とは
    吸い込み方式とは毎ゲームボーナスの抽選をするのではなく、ボーナス終了時に次のボーナスまでに使うコインの数(吸い込み枚数)が予め決められ、その決められた枚数を消費すると必ずボーナスに当選するという方式。
    この吸い込み枚数を複数用意することで、連チャンやハマリを演出するゲーム性でした。

ちなみにこの吸い込み方式が、後にパチスロブームの一翼を担うことになるストック機の原型となったことは言うまでもありません。

 

そして、このニューペガサスが長年愛される要因になったのは吸い込み方式によるゲーム性にもありますが、その他に致命的な攻略法がなかったということに尽きます。

 

というのも、この当時の台は、機械的にまだまだ未成熟なものが多く、設計の時点で必ず小役が揃ってしまう打ち方があったり、ボーナスを強制的に成立させられたりといった様々な攻略法が存在し、当然攻略されてしまった台は攻略プロに食い物にされホールが損するだけなのですぐ撤去されていったんです。

 

しかし、ニューペガサスは攻略法が存在しなかったため、攻略プロに荒らされることもなく、そのゲーム性からファンも多く、ホールも大事に使い続けることが出来たのです。

 

で、ここで出てくるのが本記事のタイトルにもある「HACK-MAN」です。

 

 

HACK-MANはパチスロマンガ誌「別冊パチスロパニック7」で連載されている、原作:緑川蓮、作画:奥田渓竜による漫画です。

 

HACK-MANのストーリーは攻略法がないと言われていたニューペガサスの攻略法を自力で編み出し、その後15年間、みなし機撤去でニューペガサスがなくなるその日までひっそり勝ち続けた男の実話を元にしたフィクション漫画です。

 

この人の何が凄いって、まだパソコンが全然普及していない時代に、数十万もするパソコンとニューペガサスの実機を買って自力でロム解析をすることで、絶対に負けない攻略法を編み出したってところ…、はもちろんなんですけど…。

 

本当に凄いのは、15年もの間攻略法を誰にも明かすことなく、隠し通したってところだと思います。

 

俺なら確実にすげぇ攻略法見つけた〜!って友達にバラして自慢しちゃいそうですもん。

 

で、このHACK-MANの前回だか前々回の回で旅打ちに行く話があるんですが、その目的地が福岡だったんですね。

 

私が、このニューペガサス設置店でバイトしてる当時(2002年頃)ですら福岡での設置店は3店舗ぐらいだったので、もしかしたら…、いやかなりの高確率でバイトしていた店にも来ていたはず。

 

そんなことを考えてたらかなり胸熱になって、ついついこんな記事を書いてしまったのでした。

 

 

アンケートサイトのブログから記事移植をしてからだいぶ経ってしまいました。

 

前回は東京から福岡に帰ってきてパチンコ店でアルバイトを始めたところまででしたね。

 

 

時は2000年、20世紀が終わりを告げる、そんな年でした。

 

バブルは当の昔にはじけ、不景気になっていく世の中。

 

私が福岡に戻ったのは小渕総理大臣が急死し森内閣が誕生したすぐ後ぐらいでしたね。

 

森総理大臣、、、。そう、最近女性蔑視発言で東京五輪組織委員会の会長を辞任したあのお方です。

 

尚、森さん、総理を辞めるのも失言がきっかけでした。懲りないおっさんですね。

 

 

閑話休題。

 

 

この頃のパチンコ業界は不景気になっていく世の中とは逆行するように売り上げは右肩上がり。

 

パチンコは盛り上がっていた源さんやギンパラ、花満開や一発台、パチスロは正規の挙動とは違う動きで連チャンする裏返った2号機、3号機に規制が入り一旦苦しい時代が続いていました。

 

しかし、私が業界に足を踏み入れる少し前ぐらいからですかね。

 

パチンコはCR海物語3Rというモンスターマシンが、そしてパチスロは規制の穴をついた大量獲得機やAT機が登場し、台の射幸性が上がると同時に再び盛り上がりを見せ始めていました。

 

私がアルバイトで入った店も、海物語が3BOX、パチスロは台数が少なかったのですが、一応最新台も導入されていました。

 

でも、このお店の主力マシンは最新の人気台ではなかったのです。

 

パチンコだと、羽モノのファインプレー、権利物のミルキーバーやギンパラが現役で稼働し大人気。

 

パチスロは、2BOXしかないのに、なんとその1/4(あれ?半分だっけ?)が1.5号機のニューペガサスという10年前の台で、その台が朝から満台になるような特殊なお店でした。

 

神奈川の大学時代に通ってた店に2台だけ置いてあるのを見たことはあったんですが、1列丸々ニューペガってのかなりビックリしました。

 

そんなお店が最初の職場ということもあり、台の故障はしょっちゅうで、メンテナンスに関してはかなり鍛えられましたね。

 

 

ちなみに、当時近隣にはパチンコ店が5店舗ありましたが、駅前の1店舗を除いてどこもお昼過ぎには稼働率8割超えてました。

 

高時給でアルバイトを雇えるわけです。

 

とまあ、このようなクソ忙しいお店でパチンコ店での接客や機械のメンテナンス、新台入替作業などを学び9カ月働きました。

 

最初の半年で両親に借りた借金を返し終わり、その後2カ月で貯めたお金と孫に甘い母方のお爺ちゃんの力を借りて車を購入。

 

そのタイミングでちょうどグランドオープンに備えて正社員を募集していた隣町のパチンコ店に就職が決まり転職することになるのでした。

 

今日はここまで。

さて、前回は大学を辞めてまで就職を考えたアルバイトを悲しい形で辞めることになった話でしたね。

 

傷心のまま実家のある福岡に戻ったんですが、約13年ぶりの福岡は愚痴を言える友達もいなくて、2,3カ月立ち直れないまま家に引きこもっていた気がします。

 

ちなみに、東京で作ってしまった借金は、両親に頭を下げて一括で返済を立て替えてもらいました。

 

もちろん返済することを約束して。

 

 

そんな訳でいつまで経っても家に引きこもっていては借金は返せないので職探し。

 

経験のあるファーストフードも考えたんですが、くそ田舎の実家近くにはそんなものはなく、一番近い所でも車かバイクがないと通えない。

 

しかも、東京よりも時給が100円ぐらい安かったので、少しでも早く返済したかったので断念しました。

 

 

そして選んだのがパチンコ店。

 

自転車で通える距離にあって、しかも高時給。

 

しかし、パチンコ店に対してはまだまだ偏見がある時代だったので、両親にはかなり反対されました。

 

少しでも早く返済したいという思いに加え、偶然5年生まで通っていた小学校で仲の良かった同級生がそのお店で働いていたこともあり、なんとか説得に成功し働くことが出来ました。

 

ここが、その後長いことお世話になるパチンコ業界人生の始まりでした。

 

尚、福岡に帰ってきて初めて働いたそのパチンコ店は先月にどうやら閉店してしまったらしいです。

 

コロナ禍で休業要請が出ている中でも強行営業していたので、経営が厳しいのは感じてましたが、第3波でギブアップだったようです。

思い出深いお店だったので寂しいですねぇ…。

さて、大学に入ったはいいものの、バイトとパチスロにハマってしまった結果、1年半で大学を休学することになりました。

 

休学の理由はバイト先の社員になることを目標にすると決めたからです。

 

私の入った学部は工学部動力機械工学科で、某ファーストフードで働くのに役立つことは学べないと思ったからです。

 

本当はその時点で中退するつもりだったんですが、1年休学していいからその1年でその道でいいのかもう一度考えろと言われ休学と言う形を取ることになりました。

 

しかし、もう心は決まっていたので、休学してからはバイトでも社員と同じような仕事をする立場になり、さらに没頭して行きました。

 

ちょうどその頃、父が再び転勤になってしまい福岡に戻ることになったので、人生初の一人暮らしも経験しましたね。

 

結局そのまま大学は中退し、その後のバイトは死ぬほど頑張りました。

 

バイトでしたけど、サテライト店(支店の支店みたいな小さめの店舗)の責任者とかもやらせてもらって、認めてもらおうと月100時間以上サービス残業してたりもしました。

 

ちなみに、サービス残業に関しては今はコンプライアンスやら働き方改革やらで、こんな無茶なことは許されないだろうし、自分が勝手にやっていたという面も大きかったので会社がブラックだったとは思ってません。

 

その後、3年ぐらい頑張って、店長から中途採用試験に推薦もして貰ったんですが、試験直前に店長の上司のエリア長みたいな立場の人の人事異動があり、新たに就任した人から、直接見てないので次回の試験まで延期しろと言われたのです。

 

何でこんなことを突然言い出すんだろうと、他の同じく中途採用で社員になった人に聞いてみると、その新しいエリア長は生え抜き社員で中途採用に対して否定的な人であると言われました。

 

その時は不満はありましたが、しょうがないから次の試験までは我慢することにしました。

 

しかし、半年待った次の試験の直前社員に呼ばれ、エリア長から「今回の試験は希望者が少なかったためなくなったと伝えてくれ」と言われたと言うのです。

 

え?何それ?5年以上いたけどそんな理由で中止になったとか聞いたことない!何かがおかしい!

 

あまりにも直前すぎる話だったんで、疑問に思い、意を決して本社人事部に問い合わせしてみました。

 

すると、人事部の方から「え?ちゃんと予定通り行いましたよ」と衝撃的な一言を言われたのです。

 

ええ、噓をつかれてました。

 

社員を問い詰めると、エリア長の考えは「中途採用の奴なんて俺は認めない、でも人手は足りないから嘘ついてでも辞めさせるな」ということだったようです。

 

もうね、絶望です。悔しくて悔しくてその日はずっと泣いていたのを今でも覚えています。

 

結局そのことが引き金になり、大学を辞めてまで社員を目指したバイトでしたが辞めることになりました。

 

 

その後、しばらく派遣バイトをやったりして一人暮らしを続けていたのですが、パチスロが原因で作った消費者金融の借金もあって生活が苦しくなり、実家のある福岡に戻ることにしました。

 

この時25歳。この後の話はまた後日。

 

さて、今日は大学時代にハマったもうひとつ、パチスロについて書いていこうと思います。

 

 

私が初めてパチスロに触れたのは、大学に入学する1か月前。

 

理容師になって就職する友達の引っ越しを手伝った時でした。

 

朝から引っ越しを手伝い、その日は友達の家に泊まることになってて、引っ越し作業が早目に一段落したので、晩御飯まで時間が空いてしまい、友達が時間までパチスロを打ちたいと言い出したのです。

 

パチンコ屋に対しては、過去に両親が父のパチンコ通いで大ゲンカしていた記憶が残ってて良いイメージはなかったんですが、別に自分が打たなければいいだろうと付いて行ったんです。

 

しばらく友達が打っているのを見ていたんですが、友達が「隣で1000円だけ打ってみなよ。もし当たらなくても1000円は出してあげるから」と言うので、1000円だけ打つことにしました。

 

すると、その千円分のコインがなくなりそうになった時、友達が「おい、それ入ってるよ!」というのです。

 

え?入ってるって何?

 

友達がとりあえず7狙ってみてと言うので人生で初めて目押しというものに挑戦したんですが、全く上手くいかず、結局友達に揃えてもらいました。

 

ちなみに揃ったのはバー図柄。BIGではなくREGでした。

 

そりゃ、いくら7狙っても揃わんよね。

 

まあ、当時は仕組みも何も知らなかったので、友達に言われるまま消化したんですが、その後はどんどんなくなるコインを見て怖くなり、千円分のコイン50枚だけ残して交換しました。

 

こんな感じで10分ほどで収支もトントンだったパチスロ初体験だったですが、ここで体験してしまったが為に、大学で友達に誘われた時には抵抗感はなくホールに入り、大学の友達のレクチャーでどんどん楽しさを知り沼にハマっていったのです。

 

ちなみ、初めて打ったパチスロは山佐の名機ニューパルサーです。

ニューパルサー(山佐 4号機)

 

この台には散々貢ぎましたねぇ。面白いんですが、あんまり思い出したくない台です。

さて前回、大学に入ったと同時にバイトにハマったと書きました。

 

今日はなんでそんなにハマってしまったかを書いていきたいと思います。

 

 

バイト先は某ファーストフード店でした。

 

高校の時、レストランの調理場でバイトしていたことも有り、仕事の覚えは早かったと思います。

 

なんせ、ファーストフード業界No1企業ですから、全てがマニュアル化され誰でも簡単に調理出来るようになってましたからね。

 

ちなみに、今のそのファーストフード店の厨房機器は、ハンバーグ(パティ)を焼くグリルは両面を一気に焼くことが出来るクラムシェルグリル、パン(バンズ)も十数秒で焼けるラピットトースターが使われ、注文してから作り始めるスタイルに進化しています。

 

しかし、私がバイトしていたのは今から25年前。

 

パティはもちろん片面ずつ焼くグリル、バンズも混雑状況に応じてまとめて焼いて、出来上がったハンバーガーをヒーターで保温しておくスタイルでした。

 

でも、そういうシステムだったので、逆にいかに早くキレイにパティを裏返せるかとかを追究したりなど、今では出来ないような楽しみがたくさんありましたね。

 

また、年に1回、優勝賞品がハワイ旅行(世界大会参加ともいう)の接客や厨房の各部門を競い合う大会があったり、クルーランクが上がると時給が上がるという明確な基準があったり、従業員のモチベーションを上げるシステムが出来上がっていて、まんまとハマってしまいました。

 

他にも、閉店作業が終わった後、深夜に社員の車でラーメン食いに行ったり、バイト仲間と麻雀したり、高校時代のバイトにはなかった夜遊びが楽しくて、それもバイトに引き込まれた理由のひとつですね。

 

とまあ、こんな感じで5年間。最終的には社員さんと同じ仕事をこなすまでハマってしまいました。

父の反対に遭い大きく目指していた道から外れてしまった訳ですが、二浪してなんとか神奈川の平塚にある某大学に合格することが出来ました。

 

最近、野球部員に大麻使用者が見つかって大騒ぎになったあの大学です。

 

受かったときは物凄く嬉しくモチベーションもあったんですが、自分の望んでいた道を諦めてのことだったので、すぐに授業に身が入らくなります。

 

そうなると、どうしても他に気持ちが移ってしまい、入学と同時に始めたアルバイトに没頭して行くことになったのです。

 

 

ちなみに、そのバイト先は日本で一番大きいスマイル0円でおなじみの某ファーストフード店です。

 

高校生から大学生、社会人や主婦の方、色んな年代の方々と一緒に仕事するのが楽しくて、あっという間にハマってしまいましたね。

 

そうなるともう授業そっちのけでシフト入れまくってバイト三昧ですよ。

 

 

さらに、バイトに加えて大学へ行くのに大きな足を引っ張ったのがパチスロです。

 

大学の同級生に連れていかれてハマってしまい、バイトが夕方からの日は一応朝から学校に向かうんですが、途中でホールに入ってしまい、大学に着くのは午後過ぎてから。

 

結果、大学に着いても、友達とちょっと話したらバイトに向かうっていう生活が日常になってました。

 

てか、大学の通学路が悪いんです!

 

最寄り駅が大学の名前で某大学前駅って名前なのに、駅から結構な急坂を上って徒歩20分も掛かるんですよ!

 

しかも、その道中にパチンコ屋が3件も!

 

これは罠です。絶対にホールと大学が結託してあの配置にしたんです!

 

とまあ、滅茶苦茶な言い訳をしたところで今回の話はここまで。

 

次回はバイトにハマってしまった理由とその結末について書いていこうと思います。

今回は高校卒業後の進路の話。

 

 

部活とバイトとバイクに明け暮れた高校生活でしたので、勉強の方はさっぱり成績は中の下の高校で中の下といったところ。

 

進学率もそんなに高くない高校でしたので、自分の成績では大学は厳しいだろうなと思ってました。

 

そんな感じで、特にやりたいこともなく進路に迷っていると、母親から診療放射線技師とかやってみたら?と提案されました。

 

母からしたら、資格でも持っていれば食いっぱぐれもないだろう、と軽い気持ちで言ってくれたんだと思うんですが、それを聞いて私はその気になってしまいました。

 

勉強が出来ない中でも数学と物理はそれなりに良かったので、医療系でも特にその2教科が試験の大きなウエイトを占めるってのもありましたし、放射線技師の専門学校を調べると当時なり手が少なかったのか、就職率100%というのにも惹かれました。

 

 

そして、放射線技師の専門学校に行きたいと父に話すと、なんと猛反対。

 

理由を聞くと、被ばくして癌になるからと言うのです。

 

当時はまだインターネットなんてものも全然発展してなく、情報を得る手段があんまりなかったのですが、自分の調べられる範囲では癌になる率が高いとかの話も見つからなかったし、もし被ばく線量が基準値を超えたら、しばらく業務から離れるなどの安全対策がされていることがわかったので再度父の説得を試みました。

 

しかし、自分の知識が絶対だと思ってる父は許してくれませんでした。

 

祖父に協力してもらったり、新聞奨学生の制度を使って父に頼らず専門学校に進むことを考えましたが、頑なな父は「もし放射線技師の専門学校に行くなら親子の縁を切る、勘当だ」とまで言われ結局断念。

 

父に今そのことを聞くと、そんなことは言ってないと言い張り機嫌が悪くなります。

 

ホントにたちの悪いオヤジです。

 

 

結局、浪人してでも大学に行けという父に従い、二浪して大学に行くことになるのですが、自分で決めたことを否定されての予備校生活でしたので、この浪人時代はやさぐれてて授業も半分ぐらいしか行かず、しょっちゅうゲーセンに籠ってました。

 

この進路選択が、自分の人生を大きく回り道させるきっかけになったんですが、その話はまた今度。

 

昨日は中学生時代のハマったサブカルの話でしたが、今日は高校生の頃のお話です。

 

私の通っていた高校は、ランク的には中の下、もしくは下の上といった感じの都立高校でした。

 

中学では比較的インドアな感じだったですが、高校では柔道部に入り、意外と活発な高校生活を送っていたと思います。

 

まあ、柔道部に入ったのも漫画「帯をギュッとね!」の影響で入ったんですけどね。

 

 

また、高校に入ってハマったのが、バイクとバイトです。

 

誕生日が4月なので16歳になってすぐ原付免許を取りに行きました。

 

ちなみに何でこんなにバイクに惹かれたのかは覚えてないんですよね。

 

漫画の影響かとも頭を巡らせたんですが、特攻の拓とか読んだの高校3年ぐらいの時だったと思うし、ぶっちぎりは中学の頃に読んでたけど、バイクというよりケンカと野球のイメージが強かったし。

 

う~ん、やっぱり謎です。

 

で、原付免許取ってすぐは、父の部下の人が譲ってくれたスクーターに乗ってました。

 

でも、それじゃ満足できず、当時発売されたばかりのHONDAのNS-1というミッションバイクが欲しくてバイトを始めました。

 

バイト先は、レッドロブスターっていうシーフドレストランチェーン店で、皿洗いと調理をやってましたね。

 

試しにネット検索したら、働いてた店はなくなってましたが、レストラン自体はまだ存在してました。

 

夏休みとか冬休みには常連だった本屋さんで配達のバイトを掛け持ちしたりして、1年半で30万の貯金。

 

そして、高校2年の夏、念願のNS-1を購入したのです。

HONDA NS-1

 

いや~、今見てもかっちょいいですね。

 

このバイク、大きさが250cc並みのサイズで、スピードもリミッターカットすると100km/hぐらいまで出る、原付らしからぬバイクでした。

 

さらに、レーサーレプリカタイプのバイクのガソリンタンクの部分が、なんとメットインになってるっていう驚きの仕様でした。

 

こんな感じで高校生時代は、部活、バイト、バイク(たまにゲーセン)にどっぷり浸かった3年間でした。

さて、昨日は小学校までのお話でした。

 

今日は中学生時代の話と思いますが、ここからまぁパッとしない人生が始まったというか、特に何の話題も出てこない地味~な中学生活でしたね。

 

しかし、この中学生時代に、今の自分の趣味趣向の方向性が固まったと言っても過言ではないかも知れません。

 

中学生時代、部活は一応運動部でしたが、男子も女子も大人しい子が集まった軟式テニス部。

 

活発に外で遊ぶこともなく、家で漫画読んだり、ゲームしたりアニメ見たり家にいることが多かったです。

 

当時、好きだったアニメや漫画はZガンダムやパトレイバーとかのロボットアニメでしたね。

 

あと、たまたま本屋でカバー絵に惹かれて買ったロードス島戦記にドハマり。

 

ライトノベルの元祖的存在のこの本との出会いでファンタジーというジャンルが好きになりました。

カバー絵に一目ぼれしたロードス島戦記第1巻

ちなみにこのロードス島戦記、昨年から30年ぶりに新シリーズが始まり、私のロードス島熱も再燃しております。

ファンタジーやライトノベルが好きな方は、ロードス島戦記にぜひ一度は触れてほしいですねぇ。

 

興味がある方は30周年のHPがあるので見てみてください→ロードス島戦記HP

 

皆さんもご存じガンダムシリーズも昨年公開予定でしたがコロナで今年5月に公開延期になった機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイはちょうど私が中学生の時に出た小説版の映画化ということもあり、中学生の頃ハマったサブカルが怒涛のように新たな盛り上がりを見せていて懐かしさと進化に興奮しております。

 

 

また、ゲーム関連は他の子と一線を画しておりまして、世間がファミコンやスーパーファミコンで盛り上がる中、兄の影響でTVで出来るパソコン、MSXでゲームをやってました。

 

グラディウスに沙羅曼蛇、R-TYPEなどのシューティングゲームにハマってましたね。

 

これらのタイトルはファミコンにもありましたが、MSX版は他のゲーム機とは違う方向にシリーズ化されててそれも魅力でしたね。

 

 

とまあ、こんな感じでサブカルにどっぷり浸かった中学生時代でした。