学校、組織、社会、あらゆる集合体でよくしようとすればするほど消えていくもの

 

それは

 

寛容さではないだろうか。

 

結果それはその集合体を作り上げている個人を苦しめることになり、最終的には集合体そのものの崩壊へと繋がる。

 

でも一度向上を目標にし始めた集合体は、なかなか途中でその流れを止めることは難しく、特にトップにいる人たちにはそれは見えていないことが多い。

 

向上を求める時に必ずと言って邪魔をして来るのが、周りからの評価。

 

一度組織として褒められると、組織の上の人たちはさらに上を目指そうと張り切るのだが、そうなると、すでにベクトルがずれている可能性が高い。

 

この会社が、組織が、団体が評価されたところで、中の人たちが、評価されたいとさえ思っていなければ、評価されたことを喜ぶ上層部の人たちのことは、しらけた目で見るのは当然のことだ。ましてや、外で見せる態度と中の人たちに見せる態度が違っていればなおのこと、不信感は増すばかり。

 

止まらない向上心は、時として「当事者」を置き去りにし、寛容さを見失い、苦しめる。

 

親子の間であっても、子どもに向上心を求めすぎれば、子どもは結果パンクしてしまう。

 

もっと上を、もっとよくなるように、と上を目指す時には、必ず立ち止まって、それをそもそも何のために目指しているのかを問い続ける必要があるのではないか。

 

人はそんなに強くない。少なくとも、現代のスマート社会についていけるだけのキャパはとっくに超えているように感じる。感じないように、見ないようにしているだけで、この息苦しさ、圧力、しんどさを感じている人は相当数いるはずだ。

 

人と人が弱さを補う社会、許せる社会、受け入れる社会、風通しがいい社会

 

その小さな単位が家庭であり、学校であり、組織であり、それを作るのは、いつまで経っても、機械ではなく人と人である。

 

今日も、寛容であろう。自分にも、人にも。

 

 

 

日々ママさんたちと話したり、観察したりしていて気づいたことがある。

 

多くのママたちは、子供の「自己肯定感」を上げようと必死だけど、空回り感がすごい。

 

どういうことかと言うと、

 

「あなたは自分は何もできなくても愛される価値があると思いますか?」

 

この質問に対して、「はい、もちろん。」と即答できないということ。

 

教育本で、子供に対して自己肯定感を上げるには、ありのままを肯定してあげることが大切だと学んだところで、

 

自分に対してそう思えてないのだから、日常的にそれが生活の端々に表れ、子供にもしっかり伝わってしまっている。

 

だから、「愛しているから」「大切だから」と言う名目の元、

 

子供に「それじゃだめ」「○○したかったら〜しなきゃ」みたいな、

 

小言を言い続けてしまう。

 

それは根底で、自分に対して、「何も出来ない私は愛される価値がない」と信じてしまっているということ。

 

いい母親でなければならない

家計にも貢献しなければならない

要領よくママ友付き合いもできなくてはいけない

子供のために常に何かしてあげなくてはいけない

 

そうでなければ私の価値って何?

 

そう感じてしまってるんじゃないかな。

 

これはあくまで私の主観だけど。

 

子供云々の前に、親が、自分自身は無条件に愛される価値があるんだってことを根底から信じる必要がある。

 

そういう意味では、無宗教が多いと言われている日本でも、昔からの宗教観というものはいまだに根強く残っている気がする。

 

日本では、「因果応報」とか「バチが当たる」とか、ネガティブな理由から悪いことをしないようにという空気がある。それが広く浅く社会で蔓延した概念が「迷惑をかける」だと思う。

 

結構伸び伸び子育てしているように見える人でも「人に迷惑だけはかけたらだめ」と明言する人は多い。

 

でもそれってほんとに、なぜそれがダメなのかという理由なのかというと疑わしい。

 

迷惑をかけたらなぜダメなのだろう?

迷惑ってそもそも何?

 

「迷惑」って元々は、広い意味で使われてたのが、明治末年以降に公的な意味として使われるようになったらしい。こういう、今は当然のように使ってる言葉でも、時代背景を読み解くと、政治とかマスメディアとかが深く絡んでいて人を操ってきてることが分かって面白い。

詳しくはこちら→

 

 

 

 

で、親がこういうネガティブ(ここでのネガティブは、受け身という意味で)な生き方をしていると、当然ポジティブ(能動的)な生き方を子供に示すことは困難で、結果子どもも受動的な生き方になり、矛盾したことに気づかないまま、親は子供にもっと能動的に生きろと言う。

 

受動的に生きてるうちは常に自分を人と比べてないといけないわけで、そうなると、人と同じことができない自分に対して劣等感を感じたりすることも多くなる。

 

自分は何もできなくても、存在してるだけで愛されてる価値があるのだと心から思えたら、自然と子どもを本当の意味でありのままに肯定する言葉が出てくる。

 

育児は「育自」とは本当に的を得た言葉だなとつくづく思った。

 

ママ、いや、全ての女性。あなたは、結婚しててもしてなくても、子供いてもいなくても、オシャレでもそうでなくても、痩せてても太ってても、家事うまくても苦手でも、人付き合い得意でも苦手でも、愛される価値があるんだよ。

 

パートナーや年上の人たちから上記のような理由で下に見られたり、言葉や身体的な暴力受けるのが間違ってるのはもちろん、

自分自身でも、そういう、長年かけて親や社会から植え付けられてきた概念を見直す勇気が必要。

 

もちろん男性もだけど、あえて女性に向けて書いてる。この国では、あまりにも、女性の価値が労働力や結婚、育児に結び付けられすぎていて、これでは根本的に幸せな子育てがなかなかやりにくいのだ。

 

子どもを変える前にまずは大人が変わること。

 

大きな問題を解決するには、その一歩前の原因を探して、戻って、またもう一つ戻って、って突き詰めていくと、根本的な原因が見えてくる。

 

そしてそれは、他人や環境ではなく、一人一人の内面のちょっとした変化に関係してることが多い。それが派生しあって、いい波長も悪い波長も生まれる。

 

大事なことなので最後にもう一度。

子どもに、無条件に愛されてることを伝えるには、親自身がそれを自分に対しても信じている必要がある。

 

以上、今まで頭の中でモヤってたことでした。

昨日散々サクラをディスったような形となってしまったので


今日は自分で桜の下に身を置いてただただフラットな気持ちでサクラを見てみた。


木の下に座っているだけでこんなに多くの人たちを笑顔にできる木は日本で桜だけだよなぁー


と、やっぱり桜は人々に春の訪れを告げるシンボルなんだろうと感じた。


夕方から夜にかけても続々と桜の木の並ぶ公園に人が集まり、みんな緩んだ顔してる😊


桜の木を愛でる姿はあまりないけれど、桜がそばにあるからこその話の弾み方があるようだ。




こんにちは。

 

今週はあちこちでお花見をしている人たちが目立ちますね。

 

すでに散り始めている桜もあり、その下で写真を撮っている人たちの姿が見られます。

 

私、常々思っていたんですが、今年改めて、桜の良さについて考えてみました。

 

いや、綺麗だとは思うんですけど、どっちかというと、堤防に咲いている緑の中の黄色い菜の花とか、ほとけのざとか、チューリップとかが見てて元気が出るから春って感じで好きなんですよね。

 

でも春にそんなこと言うと、あまのじゃく!非国民!と言われかねない(笑)

 

なんと言っても日本の国花ですものね。

 

それで、なんでこんなに桜が日本人に愛される花になったかを調べました。

 

桜は元々中国から持ち込まれた花というのが有力な説ですが、その時から、絵画や詩にはたびたび桜が登場していたとされています。

 

日本で桜が広まったのは平安時代の貴族たちからだそうで

 

平安時代の歌人である藤原定家は、「桜散りて なほ人の住むころに ありあけの月と 見るまでには」という歌を詠み、桜が散ってしまう儚さと、女性の美しさが重なり合うイメージを表現しています。

 

また、江戸時代になると、浮世絵や芝居などでも、儚い女性像が描かれるようになりました。

 

このように、桜の儚さや淡さは、日本文化において女性の美しさを表現する際に用いられる表現手段となってきました。

 

今となっては、桜を見て、女性の美しさにつなげて歌を読む人は少ないかもしれませんが、漫画やドラマでは桜の花をイメージした女性キャラがちょくちょく出ていますね。

 

『花ざかりの君たちへ』(漫画)

『さくら』(ドラマ・歌)

『桜蘭高校ホスト部』(漫画)などあるようです。

 

なんか、無意識の内に桜の儚さや淡い感じ、控えめな感じを日本人女性と重ね合わせるような見方が根付いているんだろうな、と女性の社会進出度なんかを見ていても、家庭内での女性の理想像なんかを見ていても、改めて思いますね。

 

他の国でも、花と女性を重ね合わせている文化は存在しています。

 

例えばインドではハスの花と女性が関連づけられて描かれたりするわけですが、泥の中でも美しく咲く女性の煌びやかさや強さを象徴する花として描かれているし

 

中国では、冬のうちに咲く梅の花が女性の美しさと精神的な強さを表現するシンボルとして重要視されていたり、牡丹や菊は豪華で華麗な花であり、女性の美しさと高貴さを表現するシンボルとして用いられることがあります。

 

韓国では、薔薇が女性の美しさ、愛情、幸福を表していたり、イギリスでも薔薇が女性の優雅さ、純粋さ、そして魅力を表していたりします。

 

他の国でも、女性と花が結びつけられることは結構あるのですが、花は女性の美しさや優雅さといった特質を表していて、自然の中で成長するものであり、女性と自然とのつながりを表す象徴としても捉えられています。

 

日本では、菊も国花ですし、花言葉に「高潔」や「気品」があり、華やかな色や形から、日本の女性の理想像として描かれることがありますが、桜ほど女性の美しさや儚さと深い結びつきをもつ花はないと言われています。

 

ということで、私が菜の花を好きなのも腑に落ちました😁

 

 

"We do not inherit the earth from our ancestors, we borrow it from our children."

(私たちは祖先から地球を受け継ぐのではなく、子供たちから借りているのです。)

 

という格言を聞いたことがありますか?

 

この言葉は、ネイティブアメリカンの考え方に由来するとされています。

 

先祖から受け継いだ地球を大切に保護し、将来の世代に引き継ぐ責任を持つことが求められているという意味が込められています。

この言葉は、現代の環境保護や持続可能な社会の実現においても重要な指針となっています。

 

本屋さんに行くと、最近はいかに幸せに生きるかについて書かれた本が山ほど並んでいます。

 

多くの人が、特に大人たちは、いかに幸せに生きるかを求めて、お金を稼いだり、ワークライフバランスを考えたり、ウェルビーイングについて学んだりしています。

 

そして、子育てをする親たちは、目の前の子供たちの姿だけを見て、

 

宿題ができてない

ゲームのやりすぎ

テレビの見過ぎ

真剣さが足りない

努力が足りない

 

と焦ります。

 

でも、そもそも、私たちがそんな生き方をしていること自体が、ちょっと方向性が間違ってきているのではないでしょうか?

 

私たちがコントロールすべきは、子どもではなく、まず自分です。

 

なぜかというと、自分が何に向かって生きていて、何を目指していて、何を大切にしているか知らない人は、目先のことに一喜一憂する生き方しかできないからです。

 

そういう人は、自分が社会を作っているという認識が薄いため、政治にも興味を持たず、常に誰かが作った枠組みの中でなんとなく生きている状態です。

 

そんな大人に育てられる子どもたちは、粘土のように大人の理想像に近づくように練り固められていきます。

 

自分が本来持っていた可能性やエネルギーはどんどん押し潰されて、気づいたら似たような形の歪な人形たちが並んでいるような状態。

 

でも本来、大人の責任というのは、この子どもたちのまた先の先の子どもたちが幸せに生きることができる世界を築いていくことだと思うのです。

 

そしてそのことを真剣に考える大人が増えると、社会が変わってきます。みんなが当事者意識を持つということですね。

 

目の前の現象だけを見て振り回されるのではなく、自分は何に向かって今生きていて、どんな世界を子供達に見てほしいと願うのか、大人が真剣に考え始めると、この国の政治も変わってくるはずです。

 

それはただテレビに向かって文句を言ったり、ネットに書き込んだりすることではなく、どんな人達が自分の住んでいる地域、社会、国の決め事をしていて、その人たちはどんなふうに選ばれて、どんなことをしたら自分達の意見が取り入れられるのかを学び、行動に移していくことから始まります。

 

家庭の中で、子供の成績や細かい行動について逐一見張る暇があったら、小言を言う暇があったら、自らが責任を持った行動を示しましょう。「道徳的に」悪いことを行っていないからいい大人ではありません。

 

何もしていない=責任放棄をしているということを大人が認めて、小さいところから行動に移していく姿を、子供たちは見ています。

 

2023年4月9日(日)~23日(日)は統一地方選挙ですね。何それ?って大人も実は結構いるんじゃないでしょうか。

 

統一地方選挙について→

 

 

それぞれの地域での団体一覧が載っています→

 

 

まずは、4月9日に都道府県知事と議員、市長と議員を決めるための選挙があって、23日に基礎自治体の市長、区長、町長、村長と議員を決めるための選挙があります。

 

自分の自治体名+選挙と入れてググると、どんな人が立候補してるかも見れますよ♪

 

先日の侍JAPAN優勝の試合、興奮しましたね〜。

 

野球ファンでない人でもやっぱりこういう大きい大会があると盛り上がりますよね。

 

日本中のテレビやメディアが「侍JAPAN」の文字でいっぱいになりました。

 

それで、ふと、思ったわけです。

 

そもそも、なぜに「侍」なん?笑

 

海外の人にわかりやすいから?

 

それにしても侍って、日本をよく知らない欧米人が

 "Samurai, Yah!"みたいな感じで、ステレオタイプっぽくない?

 

でもまぁ今回のWBCでつけた名前というわけでもないし・・・。

 

元々は、日本チームは国内では監督の名前を頭につけて「王ジャパン」とか「星野ジャパン」とか呼ばれてましたよね。

 

でも海外で使用するとなると、「WBCJAPAN」「WBC日本代表」となる。その場合、WBCという名称やロゴを使うたびにWBCに許可を得なければいけなかったので、当時日本代表ユニフォームの広告、放送権、マーケティング権を獲得した電通が新しい名称を提案したのですね。

 

それで、「サムライジャパン」が上がったのですが、既にアイスホッケー日本代表チームがその名称を商標登録してしまっていたとのことで、英語で「SAMURAI JAPAN」と表記することで名前が決定したそうです。

 

それにしても、こういう、スポーツチームの名称自体、すごく日本ぽいなと私は思います。

 

もちろん他の国にも、ニュージーランドのオールブラックスやメジャーリーグでもレッドソックスなど、チームの名称自体は存在するのですが、黒のユニフォームや他チームとの差別化目的の靴下の色に基づく「見た目由来」のものであったり、足の早そうな動物の名前がついていたり、という感じです。

 

でも日本は、有名どころでいくと

 

サムライジャパン

侍JAPAN

サムライブルー

なでしこジャパン

フェアリージャパン

 

男のイメージ→強い侍

女のイメージ→しなやかさ、軽やかさ?

 

日本人の昔ながらの概念でいくと多くの人がパッと頭に想像しやすい「あるべき理想の姿」を象徴している気もします。

 

実際に、これらの名称は大会時にはメディアで連呼されまくり、それによって見ている人たちもある種の一体感を感じやすくなっているのも事実だと思います。

 

WBC繋がりでもう一つ気になったことがあったのでそれも書いておこうかな。(ここからなぜかデスマスがなくなる笑)

 

WBC決勝はアメリカで行われることが多いにも関わらず、日本ほどの盛り上がりがアメリカにはない。

そして、MLB(メジャーリーグベースボール)の強い選手はほぼ出場さえ出来ていない。

 

なぜか?それは、WBCにMLBの選手を出すメリットがそんなにないから。

 

アメリカではWBCなんかよりも、アメフトやバスケを含むその他のメジャースポーツの方が人気が高く、それらには多額の資金が費やされている。

 

World Baseball Classisとは言え、国内スポーツとしての野球の方がランクが高いと見なされ、WBCに出ることで怪我でもされたら、MLBのチームにとっては大損害に繋がりかねない。

 

実際に球場の様子を見ていても、優勝を逃したとはいえ、決勝のすぐ後日本人ならすぐに帰らず、せっかくなので最後のインタビューまで見届けたいと大半の人が球場に残るはずだ。でも決勝後のスタンドからは比較的早い段階で次々とアメリカ人の姿が消えていった。

 

アメリカファースト健在だなと思った瞬間笑

 

実際WBC運営はアメリカの組織中心で行われており、オリンピックのように交代で各国が開催国になることもないため、収益もアメリカの運営組織に大半が回るように出来ている。

 

だから、日本でWBCが盛り上がってたくさんの人がテレビを見たり、公式グッズを買ったりしても、それが日本のプロ野球への収益にはほぼ繋がらない。

 

一回2009年ぐらいに日本の球団が、「収益が自国の球団に入らないならWBCは出ない!」と決定を下したはずなのに、結局はいまだに少ないスポンサー料の割合のままWBCに出続けている現実。

 

アメリカとしては、日本がWBCで優勝しても多分そこまで屈辱でもないし(そもそも強い選手出してないし)、日本が大口のスポンサー料を提供してくれるので、日本が勝ってアメリカまで来て決勝戦で戦ってくれるのはとっても嬉しいことなのです。

 

その収益が、自国のMLBをさらに盛り上げていくことに一躍買っているのですから。

 

そして、この無条件にただ自国の勝利に酔うといった空気感が、山崎氏が言うところの「大日本病」に通じるところがあるな〜と思ったりした昨日でした。

 

 でも、日本中で笑顔が増えたり、勇気をもらったりした人が沢山いたし、自分も頑張ろうって思えた人も沢山いただろうし、何より素晴らしいゲームが見れたこと自体は素直に幸せだと思いました😊


野球大好きだから、終わった後すぐ高校野球に切り替えて高校球児達を応援しました📣

 

 

私たちは日々、自分のキャパを超える量の膨大な情報の海の中で、自分が溺れていることにも気づかないまま彷徨い、そしてその情報によって操作されている。


もちろん、操作されているという意識を持っている人は少なく、自分で自分を知っていると思い込んで生きている。


でも実際は違う。


あらゆる有名な実験でも立証されてきているように、私たち人間はとても不安定な生き物だ。


匂い、光、色、味、触感、温度、環境、時間帯など、様々なものによって感情や行動が変わってくる。


ルーティンをこなして生きているような人であっても、全く同じ物を同じ時間に毎日食べたりしている人でも、頭の中で毎日同じ時間に同じことを考えているわけでもなく、同じものを食べているはずなのに違う感覚を覚えたり、時により美味しく感じたり、逆にそんなに満足感を得られなかったりもするわけで、とにかく気付かないうちに日常の小さなさまざまな要素に影響されている。


そのことに気づかずに生きていると、特に現代のように膨大な情報がスマホの中に蔓延している環境においては、記憶の汚染が起きやすい。事実よりも、自分が記憶したことを真実と混同してしまう機会も多い。


ネットニュースでも、全員に同じトップページが表示されているわけではなく、見ている人の傾向を掴みそれに沿った内容が表示されているし、広告ももちろん同じように操作されている。


視野が広いと自分では思っていても、知らず知らずのうちに自分の考えに似通った内容ばかりに囲まれるようになり、それに伴い自分の価値観も固まってくる。


でもよく考えたら、事実に基づかない価値観はとても危うい。まさに記憶の汚染が起きやすい状態になる。すぐに別の『あり得そう』な情報によって書き換えられてしまう可能性が高くなる。


親や教師がそうである場合、子育てに関しても軸がなく、情緒や感性に頼りがちになり、子どもからすると純粋に理不尽や疑問に感じることに対して、共に疑問を持って調べたり、正面から答えることが出来なくなり、子どもたちは大人ってこんなもんか、、、と諦め、問うことを諦めるようになる。


私たちは、たった数年先を生きているだけで、その脆さでいうときっと子どもよりも脆い。なぜなら探究心も子どもの時からすると減っているから。探究心がないと、自分について知ろうとすることもなくなり、自分が感じていることや知っていると思っていることに関しても何ら疑問を持たなくなる。そして社会に流されて、自分が自分の社会を作り上げている感覚はなくなる。


ワンオペ育児にしても、リスキリングにしても、既存の社会の流れに沿った形で『何とか頑張って』やるのみ。出来なければそれで終わる。もちろん心の中のモヤモヤは消えず、自己肯定感も低いまま。


情報の上書きをし続けるだけの人生を送っていると、自分は何を信じて、何に向かって生きているかという感覚が薄れてくる。


まずは、流れてくる情報を一回遮断し、自らについて色々と書き出してみるといいかもしれない。

最近特に、意識的に自然に目を向け、耳を澄ますようにしている。


普段の生活の中での移動手段はほぼ車ばかりなので、意識して歩かないと、田舎なわりに自然に触れる機会は持てない。


だけど、行き先を特に決めずに歩いて自然に五感を委ねると、驚くほどに色々なことに気付かされる。


まず前提として、建物や整地の前に、そこに自然が存在していたこと。


雑草やランダムに生えている木や小さな花たち。

きっとそれらはずっとずっと昔から存在していて、人間から潰されて埋められても大声で反発することもなく、また別のところに根を張る。


置かれた場所で咲きなさい、という本のタイトル通り、自然は、置かれた場所でそれぞれ、咲いては散りを繰り返し、命を全うし、繋いでいる。


だけど、養老孟司さんが言う通り、私たち人間は、生産性がないとみなす自然に関しては、無いものとして扱おうとする。その土地にどんなに昔から植物や生き物がいたとかそんな事は関係ない。その土地に金銭的価値があるかどうかしか見なくなってしまった。


それが、今日のタイトルにある、子どもをコントロールする衝動の根源に関係している心だと思う。


子どもは、昔は子どもとして存在することが当たり前だった。それが世界で産業化が進んでいる国では、生産性のない人間には価値がないとみなされるようになり、お金のために売られたり、労働を強いられるようになったり、搾取の対象となってきた。


日本のように、人身売買や子供に労働を強いることが禁止されている国では、これが別の形で表れている。


子どもの権利を無視すること。


子どもが遊ぶ場所を消し、子どもの笑い声を消し、子どもが意見を発する場を消し、子どもが子どもとして安心して存在できる場は次々と奪われている。


親たちは、自分も意見を持つことが出来ないような教育を受け続けた結果、自分達は何にコントロールされているか、どんな意見を持てばいいかさえ分からないまま国家や社会という組織に動かされ、常にわけのわからない何かにコントロールされている状況である。


にも関わらず、原因を追求することもないので、ただわけのわからない不安や不満だけが募り、その不安を解消するために、何かコントロール出来る対象を無意識に探している。


お金がなくてもコントロールしやすい対象が、自分の子どもなのだ。


しかも、『愛しているからだよね』と言う枕詞を互いに慰めのように使えば、多少合理的でない叱り方をしても許される空気がまだまだ残っている。


子どもを支配することが唯一自分の万能感や存在感を実感できる方法になってしまっている。でもそのことに本人たちは気付いていない。


逆に言えば、そういう自分に気づくことが出来れば、自ずと子どもへの意識も態度も変わってくるのだ。


自分の性質や傾向について気づくという事には、自分と向き合う覚悟や責任が伴う。私たちの多くは、社会に対する責任については教わってきたけれど、自分の決断や自由に付帯する責任については、意識して考えてみないとなかなか上手くできないのではないだろうか。


特に日本では、女性として、男性として、母親として、などという意識の植え付けもあり、自分で選択して自由な形で子育てをしていくというよりは、他の人のやり方を見て、正解に近い子育てをやろうとしてしまいがちだと思う。


それをやる事で、子ども個人が何を必要としているかよりも、自分がその子を自分の理想に近づけるために何をすべきかに目がいきがちになり、結果的に子どもとは心が通い合わないまま、またモヤモヤが残ってしまう。


私たちは誰も、何ものにも支配されるべきではない。社会であれ、家庭であれ、特に子どもたちは、常に見守られ、支援され、セレブレイトされるべき存在だ。


教育ノウハウを学ぶのもいいが、自然を見ること、自然の音を聞くこと、自然を観察すること、自分という存在以上の圧倒的存在を感じることをお勧めしたい。




まず前提として『家庭環境』と『それぞれの性質』によってだいぶ変わってくると思う。


その上で


①子供の頃はよく喧嘩していたけど大人になったらしなくなった


②子供の頃は喧嘩していなかったけど大人になったらするようになった


③喧嘩をするほどそもそも仲良くない


④自分で選択した友人関係のように仲がいい


に分かれるのかなと。


意外と、子供の頃からずっと激しく喧嘩して、大人になってもそれが続いている人は少ないのではないでしょうか。


『喧嘩』って、元々は、漢字に口があるだけあって、わぁわぁ騒いでうるさい、うるさい言い合い、みたいな意味。


喧嘩は自己と自己の主張のし合いなので、大人より、自己中心的な子供の方が喧嘩になりやすい。

だけど、その喧嘩を通して、子供たちは全てが自分中心で動いているのではないことを学んでいくんですね。


そういう意味では、喧嘩をさせる(見守る)っていうのは子供の成長にとっても大切。


親が、『喧嘩はダメ!』と先回りして無理に仲良くさせようとすると、その場では喧嘩をしないかもしれないけど、心の中では相手に対する怒りが溜まっていったり、自分の意見を言えなくなってしまったりして、なかなか心が育ちません。


これは先日の投稿の境界線の話にも繋がるのですが、適度な喧嘩を通して子供たちは適切な相手との距離感だったり、自己の統制の仕方だったり、人との関わり方を学んでいきます。


兄弟喧嘩を小さい頃からさせてあげて、必要であれば親が介入することがあっても、お互いを黙らせて無理やり謝罪に持ち込むのではなく、お互いの意見を述べる機会を必ず与えてあげることはとても大切だと思っています。


うちでは、姉弟激しく口喧嘩をしますが、基本的に見守ります。お互いにヒートアップしすぎて手が出たり、頭に血が昇って癇癪を起こして大声をあげ始めたら一旦引き離して、レフリー役を務め、1人ずつにマイクを渡すそぶりで、主張を聞きます。


すると、最初は互いに


『だって◯◯が!!💢』


と相手を責める言葉なのが



『自分は△△したかった‼️』

『△△が嫌だった。』


と自分の気持ちを吐き出す言い方に変わり


そこまでくると、だいぶ気持ちが落ち着いてきて、さっきまで感じていたものすごい怒りに対して自分でも違和感を感じ始めます。


毎日毎日喧嘩をしますが、


喧嘩をしていない時はとても仲が良く、絆も強い、そんな関係です。


いつまで姉弟喧嘩をするかは分かりませんが、出来れば、自分の意見のぶつけ合いはずっとして欲しいなと思います。


喧嘩、仲直りのプロセスを経て、

相手との間に適度な境界線を引き、自分の心を守り、相手の気持ちを尊重することを学んでほしいし、自分もそう出来たらいいなと思うのですが、大人になって兄弟喧嘩って意外と難しいですね😅


『あの人はこういう人だからもう言わずにおこう』みたいな変なレッテル貼りをしてしまったり、関係性が崩れるのを恐れたり、

修復にも時間がかかったり、

修復できないような根深い崩壊に繋がったり


だからやっぱり、小さい時はたくさん喧嘩して、仲直りの仕方を覚えていくのは

とても大切なんだなぁと思います。


結果#兄弟喧嘩は何歳で落ち着くのか

は、幼少期から適度に喧嘩ができる環境で、互いの意見も聞く練習が出来ていれば、10代前半位には落ち着くのではないかと、でもその後も適度な喧嘩を繰り返しながら絆を深めていくのが兄弟なのかなと思いました😌


兄弟喧嘩は何歳で落ち着くのか

 

 

 

 

 

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