最近特に、意識的に自然に目を向け、耳を澄ますようにしている。


普段の生活の中での移動手段はほぼ車ばかりなので、意識して歩かないと、田舎なわりに自然に触れる機会は持てない。


だけど、行き先を特に決めずに歩いて自然に五感を委ねると、驚くほどに色々なことに気付かされる。


まず前提として、建物や整地の前に、そこに自然が存在していたこと。


雑草やランダムに生えている木や小さな花たち。

きっとそれらはずっとずっと昔から存在していて、人間から潰されて埋められても大声で反発することもなく、また別のところに根を張る。


置かれた場所で咲きなさい、という本のタイトル通り、自然は、置かれた場所でそれぞれ、咲いては散りを繰り返し、命を全うし、繋いでいる。


だけど、養老孟司さんが言う通り、私たち人間は、生産性がないとみなす自然に関しては、無いものとして扱おうとする。その土地にどんなに昔から植物や生き物がいたとかそんな事は関係ない。その土地に金銭的価値があるかどうかしか見なくなってしまった。


それが、今日のタイトルにある、子どもをコントロールする衝動の根源に関係している心だと思う。


子どもは、昔は子どもとして存在することが当たり前だった。それが世界で産業化が進んでいる国では、生産性のない人間には価値がないとみなされるようになり、お金のために売られたり、労働を強いられるようになったり、搾取の対象となってきた。


日本のように、人身売買や子供に労働を強いることが禁止されている国では、これが別の形で表れている。


子どもの権利を無視すること。


子どもが遊ぶ場所を消し、子どもの笑い声を消し、子どもが意見を発する場を消し、子どもが子どもとして安心して存在できる場は次々と奪われている。


親たちは、自分も意見を持つことが出来ないような教育を受け続けた結果、自分達は何にコントロールされているか、どんな意見を持てばいいかさえ分からないまま国家や社会という組織に動かされ、常にわけのわからない何かにコントロールされている状況である。


にも関わらず、原因を追求することもないので、ただわけのわからない不安や不満だけが募り、その不安を解消するために、何かコントロール出来る対象を無意識に探している。


お金がなくてもコントロールしやすい対象が、自分の子どもなのだ。


しかも、『愛しているからだよね』と言う枕詞を互いに慰めのように使えば、多少合理的でない叱り方をしても許される空気がまだまだ残っている。


子どもを支配することが唯一自分の万能感や存在感を実感できる方法になってしまっている。でもそのことに本人たちは気付いていない。


逆に言えば、そういう自分に気づくことが出来れば、自ずと子どもへの意識も態度も変わってくるのだ。


自分の性質や傾向について気づくという事には、自分と向き合う覚悟や責任が伴う。私たちの多くは、社会に対する責任については教わってきたけれど、自分の決断や自由に付帯する責任については、意識して考えてみないとなかなか上手くできないのではないだろうか。


特に日本では、女性として、男性として、母親として、などという意識の植え付けもあり、自分で選択して自由な形で子育てをしていくというよりは、他の人のやり方を見て、正解に近い子育てをやろうとしてしまいがちだと思う。


それをやる事で、子ども個人が何を必要としているかよりも、自分がその子を自分の理想に近づけるために何をすべきかに目がいきがちになり、結果的に子どもとは心が通い合わないまま、またモヤモヤが残ってしまう。


私たちは誰も、何ものにも支配されるべきではない。社会であれ、家庭であれ、特に子どもたちは、常に見守られ、支援され、セレブレイトされるべき存在だ。


教育ノウハウを学ぶのもいいが、自然を見ること、自然の音を聞くこと、自然を観察すること、自分という存在以上の圧倒的存在を感じることをお勧めしたい。