学校、組織、社会、あらゆる集合体でよくしようとすればするほど消えていくもの
それは
寛容さではないだろうか。
結果それはその集合体を作り上げている個人を苦しめることになり、最終的には集合体そのものの崩壊へと繋がる。
でも一度向上を目標にし始めた集合体は、なかなか途中でその流れを止めることは難しく、特にトップにいる人たちにはそれは見えていないことが多い。
向上を求める時に必ずと言って邪魔をして来るのが、周りからの評価。
一度組織として褒められると、組織の上の人たちはさらに上を目指そうと張り切るのだが、そうなると、すでにベクトルがずれている可能性が高い。
この会社が、組織が、団体が評価されたところで、中の人たちが、評価されたいとさえ思っていなければ、評価されたことを喜ぶ上層部の人たちのことは、しらけた目で見るのは当然のことだ。ましてや、外で見せる態度と中の人たちに見せる態度が違っていればなおのこと、不信感は増すばかり。
止まらない向上心は、時として「当事者」を置き去りにし、寛容さを見失い、苦しめる。
親子の間であっても、子どもに向上心を求めすぎれば、子どもは結果パンクしてしまう。
もっと上を、もっとよくなるように、と上を目指す時には、必ず立ち止まって、それをそもそも何のために目指しているのかを問い続ける必要があるのではないか。
人はそんなに強くない。少なくとも、現代のスマート社会についていけるだけのキャパはとっくに超えているように感じる。感じないように、見ないようにしているだけで、この息苦しさ、圧力、しんどさを感じている人は相当数いるはずだ。
人と人が弱さを補う社会、許せる社会、受け入れる社会、風通しがいい社会
その小さな単位が家庭であり、学校であり、組織であり、それを作るのは、いつまで経っても、機械ではなく人と人である。
今日も、寛容であろう。自分にも、人にも。