焼きそばパンや、コロッケパンなどのおかずパンを卒業しかけた大学時代。カレーパンは、まだつい買ってしまうけれど、少し本格的なパンも目に入るようになっていた。

 

当時、東京では町にひとつは「ベーカリー」ができて、パン文化はそれなりに根づいていた。それでも、当時、パンといって思い浮かぶのは、イギリスパンと呼ばれた角型の食パンと、まったくかたちのちがうフランスパン、あとはおしゃれなフランス系のクロワッサン、そしてクルミパンくらい。ベーカリーを名乗ってはいても、住宅街の店のラインナップは、たいてい、70パーセントは「おかずパン」か「ペ(イ)ストリィ」だったと思う。

 

銀座や広尾辺りでは海外に近いパン屋さんがあったのだろうけれど、今では有名なコーンパンさえ一般には知られていなくて、イタリア系のフォカッチャやチャバタなどは耳にしたこともない時代だった。

 

ある日、大学の近くのパン屋で、「バタール」というフランスパンを目にした。当時はまだ「バゲット」という名称は一般的ではなかった。長細いタイプのパンはすべからく「フランスパン」だったけれど、それはやや短くてずんぐりしたかたちだった。トングで持とうとした生地は、やわらかかった。

 

バタールのかごに、当時にしてはめずらしくポップがあった。

「バターを練り込んだパンで、フランスパンよりやわらかいのが特徴です」

確かそんな記載だった。僕は思い込みの激しいタイプではないと思う。

 

今では、パリジャンや、丸くてふっくらした円盤のような「ブール」など、「フランスパン」とは、表面がカリッと固い生地のパンの総称だと考えるようになったけれど、当時は目にするほとんどのフランスパンは「バゲット」だったと思う。

 

「バタール」を帰宅して食べてみると、確かに表面はやわらかだった。なかもふんわりとしていた。いわゆるフランスパンとは食感がだいぶちがっていた。

 

このやわらかさがバター? クリームではなく? と思った。

でも、もう図書館なんて開いていない。我が家には百科事典もなく調べようがない。あったとしてもフランスパンの種類について書かれていたかどうか…。そしてその後、僕は、ポップに書かれていたことを信じて生きてきた。

 

ジャック・ロンドンの「悪魔の犬」という小説を、最近、読んだ。

そのごく冒頭に、犬の名前は「バタール」と書かれていた。さらに「バタール」の注釈に、「フランス語で私生児、いやな奴、の意味」とあった。

 

え、え? そんな意味を持つパン、のはず、ないよね。もちろんスペルのちがう別の単語なんだろう…。いや、いろいろな理由から同じ単語で別の意味…? 今後、食べるたびに「いやな奴」を思い出しながら食べたくないし…。

 

今度は、身近にインターネットがあった。「バタール フランス語」でひく。検索結果のほとんどは、パンについてだった。「いやな奴」にはなかなか出会えない…。

 

「バタール」。…あれれ…。

「バターが入っているわけではない。しばしば誤解をする人がいる」とある。しかも「パンの表面はかたい」。…じゃあ、あのやわらかさはなんだったんだ?

 

「バタール」の意味は「中間の」だという。

フランスパンらしい代表が、細いバゲットと、太くて長いパリジャン。その「中間の」かたちだから「バタール」と呼ばれている…。ふむふむ。

 

「ブール」と「バタール」は、同じ斤量の同じ生地からつくられ、焼くときのかたちだけがちがうという。僕の知るかぎり「ブール」の表面はかたいし、フランスパンらしいパンだ。しかもバターは入っていない…。

 

じゃあ、僕が食べた「バタールだと思っていたもの」はなんだったんだろう?

 

まあ、食べやすいな、と思って何度か食べたし、もういいや…。

パン屋の職人が「バタール」という名前から勝手にバターを練りこんじゃったのかもしれないし、ね。あの店ももうないし、言葉の意味もわかった…。

 

なお、小説に出てきた「バタール」のスペルはBâtard で、パンのほうは、Battal と別の単語。

 

俗語の Bâtard のもとの意味は注釈通り「望まれずに生まれてきた子、私生児」。転じて、「くそ野郎」くらいの軽い罵倒の言葉…。

 

別の単語とわかったから、今後、バタールを見ても、「いやな奴(くそ野郎)」と想起することもないだろう…。

 

すんなり解決したように書いているけれど、じつは、調べている途中で、僕の頭を大いに悩ました記載に出くわしていた。

 

「ブール」を調べていると、あるフランスパン店のサイトにヒットした。

「「ブール」には、バターはつかわれていない。しかし、「ブール」には「バター」という意味があるから、なおややこしい」と、そのページには書かれていた。

 

僕はこれまで、「ブール」は「球形の」を表すフランス語だと信じていた。

それなのに突然、「「バター」の意味の名前をもつ、「バターの入っていないパン」」という、じつに混乱をきわめた名前だと読んで、頭がぐるぐるした。

 

もちろん調べてみた。すると、

Boule    :「ボール状のもの、丸いもの」を意味するフランス語。 丸型のフランスパン

Beurre  :「バター」を意味するフランス語

 

このサイトでもパン屋さんがとりちがえているのだから、かつて「バタール」を売っていた店が、勘違いしてバター入りのパンを焼いたとしてもおかしくなさそうだ。