3歳の頃の記憶は、断片としてはかなりクリアだ。

でもそれ以前の僕の居場所、ほぼ赤ん坊だった時期に、僕がどこで暮らしていたのかは、いまだにはっきりとわからない。

 

理由はふたつ。

ひとつは、僕にまつわる父の記憶と、母の記憶にちがいがあるから。

ふたりは、僕が8歳の頃に別れて暮らすようになったため、あいまいな記憶を両親にそろって確認できるチャンスがなかった。僕は、あるときは母にたずね、あるときは父にたずねた。

でも彼らの頭に残っている僕にまつわる記憶は、しばしば大幅にちがっていた。

 

僕は、本当に彼らふたりの子どもなのだろうか。

とくに父の話を聞いていると、なぜそんなに無関心でいられるのかとさえ思うことがあった。わからないこと、確認できないことが多いまま、父は、僕が36歳のときに亡くなった。

 

もうひとつは、父の兄弟仲のよさによるものだ。

父は、四人兄弟の末っ子。父が中学生と高校生のときに、それぞれ母と父を亡くしている。

 

実家は、薬局を営んでいた。父の父が亡くなったとき、父は17歳、いちばん上の兄はすでに医師免許をとって、聖路加国際病院に勤めていた。

次兄は、「神童」のほまれが高く、文壇からも誘いがあったらしいけれど、家業の切り盛りに人生を捧げることになった。おそらく23歳くらいで家業の責任者になった。

 

落語か歌舞伎なら、「しっかりものの番頭」か「腹黒い番頭」、あるいは「口うるさい親戚のおじさん」が出てきて、話が展開していく。

でも、父の実家では、大卒くらいの年齢の次兄が経営者となり、父とその姉の三人で、三、四人の従業員とともに、店をうまくやっていかなくてはいけなかった。

23歳から17歳までの若者。

子どものような人々が、親の庇護も、大人のアドバイスも多くないまま、世間を乗り切ろうとしたら、兄弟仲も特別になるだろう。

 

彼ら3人は、中央区にあった店で暮らした。

ちょうど薬科大学に通っていた伯母が、間もなく薬剤師免許をとり、薬局は存続が許された。

 

父は高校を出たのち、大学に進学。学校から戻るとバイクで配達もしていたらしい。

といっても、勤勉だったわけでもなく、多くは「店の若い衆」がやってくれたようだ。あいた時間でデパートの配送などのアルバイトもし、彼女もつくり、友達とも遊んでいた。苦労をした意識など、ほぼなかったらしい。でもそのぶん、次兄には終生、感謝をしていた。僕ら子どものことよりもずっと、兄のことを考えていた。

 

三人の子ども時代は戦時中だった。

父と伯母は一緒に疎開をして、伯母が父のおねしょの世話などをしていたという。

父が9歳のときに戦争は終わった。

 

店を切り盛りするうちに、伯父も伯母も父も結婚した。

伯父の妻は店の二階に住んだ。父の姉である伯母も、医師の長兄も最初は同居していたはずだ。

母は、結婚前からこの店に出入りしていて、伯父夫婦とも、父の姉とも親しくつき合っていた。

 

父と母は結婚当初、店ではなく、月島にアパートを借りて新婚生活を送っていた。

 

やがて僕が生まれる。

父は末っ子であるにもかかわらず、彼のきょうだいのなかで、僕はいちばん初めの子だった。ちやほやされた思い出はたくさん聞かされているのに、僕がどこに暮らしていたかになると、なぜかとたんに雲行きがあやしくなる。

 

僕から1年11か月後に弟が生まれるのをきっかけに、父は郊外に家に建てる。郊外の家に引っ越してからは、疑問をさしはさむ余地もないから、弟の歴史は相当にクリアなのに、僕の歴史は、誕生からそこまでがもやもやっとし続けているのだ。

 

母によれば、僕と家族は、薬局に暮らしたことがあったという。

生まれて数か月たったときには、常楽寺にも住んでいたという。

でも、父にそのことを告げたところ、自信たっぷりの反論を受けた。

 

「お前が店に暮らしてた? そんなことあるもんか」

「あのさ、僕は、1歳くらいのときに店の階段をごろごろと落ちたんでしょ?」

「ああ、そんなこと、あったなあ。うん」

「そのときには、僕は店で暮らしてたって、母が言ってるんだけど…」

「ああ、そうなのか。うーん、じゃあそうなのかもな」

 

自信たっぷりだったわりに、簡単に折れる。それも僕を不安にさせる。

 

父やそのきょうだいのことを考えてみる。

両親の没後、家業を継いで、自分たちで生活を組み上げなくてはならなかった。

どうにか「子どもたち」だけで家業を軌道に乗せ、生活のパタンもできあがった。

その生活の延長線上に、伯母の薬剤師資格の取得や、父の大学入学と卒業、それぞれの結婚などがあったのだろう。

父たちにとって、両親没後の記憶はきっと「一本の線」として、ある。場所はつねに実家の薬局である。

 

一方、その生活に途中から参加した母の、薬局にまつわる記憶は、突然、始まる。

すべてが初めて見るもの、知る生活だ。記憶された思い出は、それぞれが鮮やかさを持っていて、強い印象とともに記憶に刻み込まれたと思う。

 

母が薬局と密接にかかわった期間が、刺激にあふれたものだったのは間違いない。

従業員もともにする夕食の時間は、サロンのように人が集まるムードを持っていたことや、晴海にあった「支店」の店番で起こったハプニングのことなどは、いまだに母はよく話す。

そしてそうした生活は、郊外の家に引っ越すまで続いた。

 

中央区の薬局。晴海の支店、常楽寺の家、郊外に買った家、大船の家、豪徳寺の家。

父たちは、居場所をたくさん持っていた。でも中心で濃密な記憶をつくっていたのは、きょうだいと時間を共有し続け、自分の歴史のすべてを刻んだ「薬局」だった。

 

僕の誕生など、たくさんあった大きなできごとのひとつにしか過ぎなかったのだろう。ましてや、僕がどこに暮らしていたかなど、父にとっては、とくに記憶にとどめるべきことではなかったようだ。