席を譲られた。

人生初の体験だった。数か月前のことだ。

そして、昨日もまた、譲られた。

 

どちらも外国人の、中学生くらいに見える男の子だった。

 

山手線の外回りで、妻と東京方面へ向かおうとしていた。

車内はすいていて「快適に立っていられる」ほどだった。座席はあいていないように見えるが、それぞれのドアに必ずひとりが立っているほどでもない。

 

僕は、子どもの頃から、電車では立っているようにと親に育てられたせいか、大人になっても空席を探そうとはしなかった。

山手線沿線の住民は、20分以内に乗り換えることが多い。だから還暦を迎えるころまでは、相当にくたびれていなければ、座席を探すことはまずなかった。

 

妻と出かけるときには、僕の席の心配はしないでいいから、空いているところがあったら座ってしまってほしいと、いつもお願いしている。おたがいをケアしすぎて、彼女は座れない、僕は、快適な立ち位置を確保できないでは、あまりに間抜けだ。

 

快適な立ち位置を探しながら、車両に乗り込んだ。優先席のほうに目が泳がせると、少し肌の茶色い少年が、すくっと優先席から腰を上げた。僕のうしろのほうを見ているようだった。振り返る。誰もいない。少年を見ると、どうぞ、という仕草をしている。

 

びっくりして彼の目を見つめ、「俺?」と僕自身を指さしてみた。

少年は、うなずく。

瞬間的に、いい、いい、と手を横に振ってしまった。

そのあと、どうぞ座っててください、というジェスチャーを少年に送った。

 

何年も前から、いつかこういうことが起こるだろうと想像し、対処法まで考えて周囲に伝えていたのに、実際に起こってみると、思い描いていたプランは瞬時に消え去った。むしろ、「こんなことは、絶対にしないぞ」と心に誓っていたことを、してしまっていた。

 

どうぞ座っていて、という仕草を彼に送ったあと、自分が恥ずかしく、いたたまれなくなった。電車が隣駅につくと、妻を促して電車を降り、隣の車両のできるだけ遠くの扉から再び乗車した。降りぎわに、その少年に“thank you!”と言いたかったのに、それもできなかった。

 

「俺に席を譲ってくれようとしてたのに、絶対に俺にじゃないって、信じてたから、泡、食っちゃったよ。格好悪いなあ…」

妻はとくに何も言わない。

「初めて席を譲ってくれたのが、外国人の少年っていうのも、あわてた原因かもね…」

「うん」

「それにしても、つね日頃から、席を譲られるようなことがあったら、絶対に断らない、好意をそのまま受け入れようと思っていたのに、断っちゃったなあ…。席を譲るのって勇気がいるのに、ひどいことをしたなあ…」

「それはそうよね」

「若いときは、譲らなきゃって思うと同時に、いろんな感情に包まれたもんなあ」

「勇気が必要、ってだけじゃなくて?」

「そう。最初のうちは、初心者らしく「どうぞ」なんてダイレクトにお年寄りに語り掛けてたけどさ、相手を困らせることもあることがわかってくるでしょ。今日の僕みたいな対応をされちゃうと、どぎまぎしちゃう。だから、相手にへんな圧力をかけないような譲り方ってないかな、って考えるようになっていったんだよ。いいことしてます、みたいな空気を醸し出しちゃうのも格好悪いでしょ。だから経験値が少し上がってくると、さりげなく席を立って、さりげなく遠くに歩いていったりしてた。近くに座りたいお年寄りがいれば、座るだろうし、そういう人がいなければ、席はあいたまんま。誰にも押し付けないですむからね」

 

電車は、田端に着こうとしていた。ここで快速に乗り換えて東京駅に向かう。

「10数年前に、当時75歳くらいだった母と出かけることが増えたの覚えてる? あのときにね、一緒に電車に乗り込むと、母がしばしば席を譲られてたんだよ。でも、母は、あたしは大丈夫、って断るんだ。もちろん母には断る自由もあるんだけどさ、せっかく勇気を出して席を譲っているのだとしたら、「譲る人の勇気」を受け入れてあげればいいのに、といつも思ってた。だから、今、少年の申し出を断っちゃって、自己嫌悪…」

山手線を降りて、プラットフォームの反対側に入線してくる京浜東北線を待った。

「その後、席を譲られたときの気持ちについて、しばしば母にたずねるようになった。当時の母は、「まだまだそんな年齢じゃないわよ、そんなふうに年寄り扱いされるの、やだわって、実際に反発心が起こるのよ」って言ってた。プライドが許さないから断ることもある、ってことだよね。今はさ、すっかり腰が悪くなったせいで、できたら座りたいんだって。だけどね、ひと駅、ふた駅で降りるときには、いったん座っちゃうと、電車の座席が比較的低いせいで、立つのに苦労するから、立ったままでいたいんだってさ。いろいろあるね。近くにそういう人がいないと、想像もつかない」

 

京浜東北線の車内に乗り込むと、角からふたつ目の席があいていた。妻に座っちゃいなよと呟き、僕はある扉にもたれようと妻から一、二歩離れたときに、妻の隣、角席に座っていた男性が僕のほうを見ながら立ち上がり、むこうへと去ろうとした。やっぱりさりげなく譲るよね、僕もそうだ…。

「どうもありがとうございます」

シンパシーを感じながら、今度は、僕は素直に座った。

 

10歳ほど若いだけの人にお礼を言ってこうして座れるのも、さっき、外国人の少年が席を譲ってくれたおかげだな…。少年には好意をむだにするようなことをしてしまって残念だった…。今度、同じようなことがあったら…。