日本人から「初体験を持ちかけられたこと」は、まだ、ない。

日本人どうしだと、席を譲るべき年齢かどうか、を読み切れるのかな…。

 

そういえば、僕自身がお年寄りの女性に席を譲ったことで、人間模様が繰り広げられたことがあった。最後には、ツーリストの外国人の若者にほっとさせられたひと幕だった。

 

その山手線にはかなり空席があった。優先席の近くの扉から乗って優先席に躊躇なく座った。

ところがターミナル駅に着いたとたん、150%くらいの乗車率になった。

「カオス理論」の「ソリトン」のようなものだ。波が突然、乱れて混乱を起こす。ガラガラだった車内が、一気に満員になった。

 

目の前に荷物を両手に抱えたお年寄りの女性が立った。かなりくたびれているように見えた。乗り降りの混乱がひとしきり収まって車内の空気が落ち着いたところで、その人に座ってもらおうと席を立った。

彼女が座りやすいように、僕が席から一歩横にステップしたとたん、元気の余っているように見えるじいさんが、ずかずかと割り込み、女性を押しのけてどかっと座った。呼吸も行動もひとつひとつ大きな音を出し続けるようなじいさんだ。からだもでかい。優先席の中央。彼の左右の座席の人は身を縮めた。

あっけにとられたけれど、この女性に譲ったのだ、と主張できるわけもない。山手線が僕の所有物なら、そう言っただろうけれど。

おばあさんは、がっかりした表情を見せるわけでもなく、座席横のスチール棒につかまって静かに揺られていた。

 

ふた駅後に、乗客の乗り降りがふたたび激しくなり、じいさんが降りて席があいた。おばあさんは、ペースを変えることなく、ゆっくりとした動作で座ろうとし始めていた。とたんに、乗ってきたばかりの60代ほどの女性が席に突進して、からだを押し込んだ。

おいおい、どうなってるんだ、この国は…。少なくとも僕は、お年寄りには親切にしなさい。若い人は席を譲りなさい、と教わってきたぞ…。60代と70代が、80代を押しのけてでも席を確保するのか…? 「人の業」を目の当たりにして、僕は憤慨し、気落ちした。

 

数駅前に立ち上がってからずっと、僕は優先席の通路に立っていた。おばあさんにとっての「ついていない日」なのかもしれないけれど、見ているこちらがいやだ。どうにかならないものかときょろきょろと周囲を見渡した。

反対側の優先席のドア側にツーリストらしい男性がいた。彼の前と手すりの向こう側に、大きなスーツケースがひとつずつ置いてあった。台湾人か中国人のように見える若い男性だ。

彼が、僕を見ながら、スーツケースの位置を変えつつ席から立ちあがった。どうやらこれまでの事情をすっかり把握しているようだった。すぐに彼の意図を理解できた。

「あそこがあきましたよ」

おばあさんに言葉をかけると、ひと呼吸おいてから彼女は笑顔になって、お礼を言いながらそちらへ歩き始めた。本当にほっとしたように見えた。

ツーリストらしい若者のそばの人々が、身を軽く動かしている。座りたいと思ってなのか、おばあさんを通してあげようとしてなのか…。

中国人の青年は、おばあさんがたどり着くまで、大きなからだで座席の前に立ったまま動かなかった。スーツケースを少し動かして、よぶんなスペースをふさぐような動作もした。おばあさんが近づくと、今度は座席に近づきやすいように荷物を動かして空間をつくり、おばあさんを迎え入れるように横にずれて、彼女が座りこむまでの動作を見つめた。

 

おばあさんが腰を落とすと、応援していた選手がゴールした瞬間のような気分になった。やっと…。座ったばかりのおばあさんは力が抜けて、ずいぶん小さくなったように見えた。ただ座ったせいかもしれないけれど。

 

「どうもありがとうございました」

彼女は、少し遠くからていねいに僕に頭を下げた。僕じゃないんだけどなあ…。

背中合わせに立つことになった青年の肩をたたいて、おばあちゃんの感謝と、僕自身の感謝を伝えた。英語が通じるかは、もうどうでもいい。

“thank you very much, and have good days.”

 

本当にうれしかった。同じゴール、気持ちの共有、達成感、充足感。いろいろある。

声をかけると、彼はにこっと、やわらかく無言に笑った。