(承前)

中央区の薬局と、常楽寺の「緑の芝生のおうち」。そして月島のアパート。

2歳までの僕は、どこで暮らしていたのだろう?

 

 

「常楽寺のあの切通しを、おくるみを着せたあなたを抱っこして、よく散歩したわ。ほかにすることもなくってね…」

「どういうこと? まるで暮らしてたみたいじゃない?」

「そうよ。暮らしてたのよ」

「え、そうなの? おやじと?」

「あなたと」

そこまで言って、母は何かを思い出したようだった。

「玄関を出て、緑の芝生を抜けて、切通しに出て、ね。その頃から、あなたは外が好きだったのよ。家の前の道を歩いていくと、首をちょこちょこ動かして、木や空をきょろきょろ見回し続けてね、声を上げてすごく喜んでたわ」

 

子どもの頃「常楽寺の家」と聞くと、僕は必ず「緑の芝生のおうち?」と聞き返していた。「芝生」にわざわざ「緑」をつけて…。母と散歩に出るときに最初に見る風景をそのまま言葉にしていたにちがいない。

散歩は、長年の趣味でも暇つぶしでもある。緑の多い場所も好きだ。高校時代には星を見るためによく山に登ったし、働き始めてからは、木々が生い茂った場所に行くと気持ちが落ち着く。

 

「初めて聞くよ。なんで常楽寺に暮らしてたの?」

「別荘みたいにつかってた場所でしょ。ふだんは誰もいないから、たまに空気を入れ替えに誰かが行ったりはしてたのよ。あなたが生まれたあと、留守番もかねて、お前が寝泊まりしててくれって言われて、一時、生活してたの」

「おやじは?」

「お店で暮らしてたわ。たまにようすを見には来たけど」

「ふだんはひとり? まわりに何もないところじゃない? 何してたの?」

「そうよ。知り合いもいないから、家のなかでぽつん、ひとりでいた記憶ばかりね」

 

ぽつん、といた…。

つまらなかったろうな、と思った。

でも母は、求められたことをこなすことがとても上手だし、親しい人の言葉を、そのまま受け入れて疑問をもたない人でもある。

僕には、父が母に告げた「空気の入れ替え」は、本当の理由ではないだろうと思えた。

 

母と父が結婚後に、月島のアパートで暮らしていたのを知ったのは、40歳を過ぎたあとだ。

僕が生まれても月島に暮らしていただろうか? 赤ん坊の鳴き声に文句が出なかっただろうか? 僕の出産後には月島を引き払い、薬局で伯父夫婦と二世帯同居をしていたとしても、客商売に差しさわりがあったのかもしれない。

常楽寺に母と僕が暮らすようになったのは、じつはそんな理由だったのではないか。

 

「いつ頃の話?」

「あなたが8か月くらいの頃かしら…。…あの頃は、××さんはまだ来てなかったなあ…」

母が口にしたのは、伯父の妻の名前だった。

「伯母さんが来てた、って?」

また謎が増える…。

 

「そうよ。少しのあいだ一緒に暮らしたの」

父のきょうだい仲がよすぎて、混乱することがたまにあった。これもそうだ。

伯父の妻と、父の妻である母が、どちらの生活スペースでもない場所でともに暮らす。それに同意する母と伯母。このふたりは、今でも仲がよく、気心の知れた間柄ではあるけれど。

「なんで?」

「おなかに子どもができたからよ。出産までのあいだ、彼女も常楽寺にいたの」

 

僕より15か月遅れて、いとこの女の子が生まれた。

父方の家系では、いとこどうしの子どもたちを、短い期間でも同じ場所で生活させる習慣があったらしい。父たちがそうして育てられたから、父たちもいとこどうしで親しみ、おかげで僕は「はとこ」とも、気軽なつきあいが生まれた。

その後、友人に聞いても「はとこ」とつきあっているという人はほぼいなかった。

 

「子どもができたからって、どうして一緒に暮らすことになったの?」

母は「さあ…」。

薬局の雑然とした空気のなかに妊婦を置いて、手伝いに神経をすり減らさせるより、のんびりとした空気の常楽寺のほうが胎教によさそうだね。さいわい母もいるから一緒に暮らせば寂しくもないだろう…。

伯父や父の考えは、そんなことではなかったか…。

 

「で、いつまで一緒にいたの?」

「それも覚えてないわ」

「僕が、そのときに8か月くらいってことはさ、伯母さんは妊娠3か月くらいってことだよね? 生まれる直前まで一緒だったの?」

「ちがうんじゃないかしら。そろそろ出産ね、という覚えはないから…」

 

僕が、母とともに「芝生のおうち」にいつまでいたのかは、わからないままだった。

ひとつだけわかったのは、伯母が出産後には神楽坂の実家に戻っていたように、僕を産んだ母もひと月ほど実家に戻っていた、ことだった。

 

僕がこの世に生をうけたあとのピースが、少しだけ埋まり始めた。

生後ひと月は、母の実家にいた。

8か月の頃には、常楽寺にいた。

 

「僕を産んで、実家での静養を終えたあとは、月島のアパート? それともお店?」

「どうだったかしら…。次に印象に残ってるのは、常楽寺なのよ。そのあいだは…」

母はしばらく考え込んでから、

「あ、そういえばね、月島のアパートに、沖縄出身の女性が部屋を借りてたわ。思ったことをすぐに口にする人でね、あたしたちが暮らしてるときに、ふたりとも若いからまるでおままごとみたいに見えるわ、って言われたのよ、失礼しちゃうわ」

 

よみがえった何十年も前の記憶に、母が「失礼しちゃうわ」とつぶやいている。相当に母の気持ちを揺さぶった言葉だったのだろう。

そのときには、僕は生まれてはいなさそうだな、と思った。僕がすでにいたとしたら、子どもの世話を焼く女性に、独身の女性が「おままごと」とは言わないだろう。

 

実家での静養後、常楽寺までの数か月は、月島での生活ではなさそうだ。母の入院前に月島を引き払い、出産後は母も父もそれぞれの実家で生活…それが自然かな、と思う。

実家での静養したあとは、お店で暮らして、生後8か月の頃には、常楽寺…?

そして、1歳の頃には、お店で事件が起きた。

 

「僕がお店の階段から落ちたのって、ちょうど1歳くらいの頃って言ってたよね?」

「そうよ、アイちゃん(お手伝いさん)に預けて、あたしは銀行におつかいに行ってたのよ。アイちゃんがいい加減でね、目を離したすきにあなたが1階のお店への階段に近づいて転げ落ちちゃったの。2階にいないことに気づいて探し始めたら、階段の下にいたって。…そろそろ立ち上がりそうな頃だったわ」

転落事故のことになると、母は饒舌になる。うんわかったよ、と静かに言った。

 

「そのあと、郊外の家に移るまでに、ほかのどこかに暮らしたって記憶はない?」

「それはないわね」

時系列が少し判然とし始めた。…まあ、こんなものかな。

 

最初の1年間の人生、僕はあちこちを転々としていたのか…。

のちの生活のプロローグのようにも思える。

2歳で郊外の家にいったん落ち着くものの、8歳のときにはその家も常楽寺の家もお店もなくなる。そして僕は、半年ごとに3度の転校を繰り返した。

 

自分の生まれ育った場所を、たいていの人は自信をもって言えるだろう。

自分の記憶になくても、波乱に満ちた乳幼児期だったとしても、何歳のときにはどこにいて、こんなことをしていたぞ、と周囲の人から聞かされる。その記憶に疑いを向けることはあまりない。

 

僕は自分がどこで生活していたか、謎を残したまま何十年も生きてきた。

 

そして今日、62歳になった。