音楽には想い出がつきまとう。それが音楽が持つチカラのヒトツだ。既知の楽曲に関しては、あの時あんなことがあったな、とかあの曲が流れる店によくいったなとか。それは甘い記憶も、苦い記憶も連れてくる。その音楽が流行っていた時代背景や当時の自分の状況、その時どんなことで苦労していたかがよみがえってくる。オレが音楽を聴くことにはまり込みたくない理由は、ココにもヒトツある。済んだことを蒸し返して泣きたくないでショ。
そのように音楽は記憶に結びつく。また同じような感覚に嗅覚がある。醤油が焦げるニオイに惹かれるのは、縁日の焼きとうもろこしの記憶や、醤油で食べる正月の餅の記憶が連動しているのではないかと思う。嗅覚についてはオモシロイ研究がされていて、古来ヒトは鼻で方角を知ったというのだ。東西南北を鼻が磁力によって感知していたというのだ。たいへん興味深い。
ハナシが音楽からドンドンそれていくが、音楽には記憶以外にイメージを喚起するチカラがある。モチロン各個人によってもたらされるイメージはさまざまだが、音楽を聴いている自分がその瞬間にどこか別の空間にいるように感じたりすることがある。また演奏者の伝えたいことが明確に理解できたりする。これも音楽のチカラである。
そういったことのすべてが正解で、喚起されるイメージはヒトによってさまざまでそれもすべてOKで、そんなこんなをすべて受け入れるのが本当の音楽の力だと思う。そんなふうになりたくて、音楽やってるんだよ。
オレは生まれてこの方、運転免許というものを取得したことがないので、この場合のドライブは車関係のハナシではない。ドライブ感のことだ。これはジャズの世界ではスイング感とよばれR&Bやソウル、ファンクなどの世界ではグルーブ感と呼ばれたりする。これを説明するのは至難の業だが、実際の音楽を聴けばイッパツで判る。この感覚のない音楽はつまらないのだ。大上段に言い切ってしまったが、クラシック以外のアップテンポの曲ではすべてこの感覚が必要と思っていただいていいだろう。どんなもんかというと、じっと聴いていられなくなる感覚だ。勝手に体が動き出す感覚、立ち上がらずにいられなくなる感覚、といったところだろうか。ジャズの方からは「一定のテンポで演奏されているのに、どんどん早くなっているように感じられること」と言われていたりもする。ひどいところでは「死にそうなヒトを起き上がらせるチカラ」などというヒトもある。
しかし、逆に考えればコレさえあれば他は何も要らないといえる、極論だが。でもね、この感覚を創りだすのはムツカシイ。おもにタイコとベースが中心となって、うねるような、ドキドキするような、緊張するのに聴かずにいられないようなリズムをつむぎ出していくのだ。そう、リズムなのだ。かのYMOというバンドは、リズムを完全にデジタル化してもドライブできるか、という実験の基に結成され大成功を収めた。そして実験は終り、彼らは解散した。でもすごいドライブ感だったでショ。このようにドライブ感を生み出すのはリズムが関係している、ということは判っているのだが、その発生のメカニズムは不明である。
いやはや、音楽の世界は奥が深い。
音楽を演奏するなら楽器を自分の体の一部のようにしなければならない、本来は。そうしないと自分が演奏したいスタイル、あるいはコンマスや指揮者の意図に沿う演奏ができないからだ。しかしながら、それは至難の業だ。膨大な時間と努力を必要とする。それを短縮する術はあるかというと、ない。だからそういう訓練を日常生活に持ち込むのだ。サッカー選手を目指す子供がボールを蹴りながら通学するのは、正しいことなのだ。
そういう意味ではギターやピアノは日常生活に持ち込みやすいだろう。プロのギタリストだって常に楽器を手放さないというし、ピアノは膝さえあれば運指の練習くらいは可能だ。
問題は上記のようなことを自分に課せられた訓練と思わないことだ。当たり前のようにそーゆーことをしてしまう、というのが大事なのだ。だって訓練を課せられてるんじゃなくてスキじゃなきゃ続かないでショ。ね、スキならできるんだよ。オレですらやってるよ。頭の中に流れる音楽に合わせて、アドリブフレーズの運指だけやるってーのは。ボールを蹴りながら通学する子は、それがスキだからやってるんだよ。誰にも命令なんかされてない。
オレの家にはマトモな音楽再生装置がない。今あるのはパソコンと20年近く前に知人にもらったCDラジカセだけだ。振り返ってもレコードプレイヤーがあったことくらいしか思い出せない。だからといって不自由した記憶もない。だから移動中なんかでも音楽が聴きたい、というヒトのことがよく判らない。試験やオーディションで暗譜を試されるときに、覚える時間がなかったから寸暇を惜しんで聴く、というのはかろうじて判る。でもさ、フツーのヒトがフツーの状況でそんなことないでショ。だからよく判らない。
覚えちゃったほど好きな楽曲なら、わざわざ聴かなくても自分の体の中から聴こえてくると思うんですが、違うんでしょうか。その大好きな曲を自分の頭の中で再生していれば、それで充分ハッピーになれるんじゃねーかな、とフト思ったりする訳です。
そう、サックスという楽器は管楽器の中でもっともカンタンに習得できるのではないかと思う。なんせ指使いはリコーダーと同じだし、吹きさえすればナントカ音は出る。汚い音だけど。で、そこからは他の習い事と一緒で、自分が到達したいレベルに合わせた訓練が要求される。なかでもロングトーンという練習は、疲れる上に退屈極まりない。何しろヒトツの音を吹き続けるだけなのだから。が、そこはプロレスラーがヒンズースクワットを欠かさないように、イチローが素振りを欠かさないように、IKKOがお肌の手入れを欠かさないように、克服していただきたい。この練習にはヒミツの上達法もショートカットもラッキーアイテムで一面クリアもないのだ。だが、だがしかし、だ。サックスらしい音が出て、さて練習曲でもやりたいもんだ、と思ったときに差が付く練習法はある。しかもカンタン。それは音をシッカリ止めること。コレだけ。
実際の曲を吹いたときに差が出るのは、音の最後なのだ。だからロングトーンで息が続かなくて途中で吹くのをやめるときも、シッカリやめる。これ以上は吹けません、とシッカリ自分の中で意識して、そこで自分の意志でやめる。コレがサックスをコントロールするための第一段階です。
あっそれと、今からサックスを習おうと思っているヒトがいたら、間違っても値段の高い楽器を買ってはいけません。サックスって最低でも10万円くらいするし、上限はキリがない。高い楽器を買わそうとする先生は「そんなメーカーも判らないような楽器は修理屋さんが直してくれない」などというし「この楽器なら割引幅が大きいから得なんだよ」などという。しかしサックスは放り投げたりぶつけたりしないかぎりカンタンには壊れません。さらに割引幅が大きくても金を払うのは先生ではありません。そうでショ。そんな先生はマージンもらってるんだわ。また「初心者はいい楽器を使わないとヘンな癖が付く」などというバカモノがいれば「それを直すのがお前のシゴトだろ!」と突っ込んであげてください。高い楽器は、お金がありあまっている上にバカなやつか、その楽器を墓まで持っていく覚悟のある人間が買えばよろしい。ふー、意味なく感情的になってしまった。
楽譜は第二外国語だと思う。そのココロは「出来るヒトには出来るが出来ないヒトにはまったく出来ない」だ。あたりまえだ。他にも共通点はある。義務教育の音楽の授業中、音符に「ソ」とか「ラ」とか音名を書いていたヒトもいらっしゃるだろう。同じように英語の教科書に「ハウアーユー」などとカタカナを振っていた方もいらっしゃるだろう。コレはまったく同じコトなのだ。そして結論からいっても両者とも未来永劫まったく身につかない。コレが第二外国語説の論旨だ。
フリからオチまで短すぎるが、それだけでは終わらない。外国語というからにはチャンと方言があるのだ。英語圏で生活する英国と米国はモチロン、それぞれの国内でもひどい違いがある。日本国内でも同じだ。沖縄の言葉をヤマトンチュは理解できない。沖縄県内でも年齢によっては通じないだろう。
では楽譜の場合はどうなのか。それがあるのだ。一般的な楽譜で


と音符が並んでいると、ヒトは「タ タン タ」と理解する。
ところがジャズ関係者は「ター タッタ」と理解するのだ(厳密な解説をすべてすっ飛ばしてます)。これではジャズ以外の音楽に精通しているヒトでも、ジャズ関係者とは会話できない。この記譜法を関係者は「シンコペーションを厳密に表現するための手段」などという。フツーの音楽教育を受けてこられた方には気の毒なのだ。ジャズ、特にスイングジャズやビッグバンドでチョロチョロ揉まれると、この記譜法は「まさにこれしかない!」という素晴らしい記譜法だとわかるが、慣れるまでは本当に大変だった。
このような現象は日本語と中国語の違いに似ているかもしれない。同じ漢字を使うからといっても、文章は伝わらない。ましてや発音にいたっては皆目判らないでショ。まあ、昨今ではデジタルの普及で記譜法も変わりつつあり、ジャズ的な記譜はしない方向のようだが、それも淋しいもんだ。
スポーツ選手のインタビューなどでよく聞かれるのが「全力を出しきりました」という言葉だ。感動的な瞬間だし、見ている側もその言葉を要求するような風潮がある。じゃあその全力ってなんなのだろう。マラソンで優勝した選手がウィニングランで場内を走ったりするのと、駅伝でタスキを渡し終えた選手がケロケロ嘔吐するのと、どこに差があるのだろう。
以前にも少し書いたが大きな力を持つものは小さな力をより上手にコントロールできる。音楽にも共通するのだが、でかい音で演奏できることだけがエラいのではない。音の大小、さらに他者とのバランス、全体的な楽曲の意図を理解した上での自分の役割を理解する能力など、モノスゴクたくさんの要素に左右されて始めてよい音楽が生まれる。吐くまで演奏したから「全力のよい演奏」ではないのだ。
この多様性を他者との関係性だけに限定すると「アンサンブル」という便利な言葉で表現される。音楽だけに限らず団体競技もそうだし、会社などの組織でもそうだ。チョット解釈は違うが、この言葉を役割分担と訳せばいいだろうか、いや共同作業のほうがイイかもしれない。そこで今回のタイトルにかえっていうと、自分勝手に全力の演奏をしていては、良いアンサンブルが生まれない、ということだ。
あまりにバカバカしい例えだが、カラオケで気持ちよく歌っている最中に勝手にハモッてこられるのは迷惑で、こういう奴はアンサンブルを乱しているということになるのかもしれない。また場の空気を読まず好きな歌をレンチャンするのも、そのグループのアンサンブルを乱しているということになるのだ。新年が始まり、社会が通常のサイクルになれば新年会などの機会もあるだろう。ご注意あれ。
今年はじめてなので、あけましておめでとうございます。音楽について本当に読みにくい文章で勝手なことをほざいているうちに、膵炎が再発しそうになりウツの発作が出た。おかげで年賀状を40枚印刷したが、すべて失敗してしまった。そんなことまでビョーキのせいにはできねーな。イヤ、いーか。とにかくすごい勢いで落ち込んでいたのだ。そういえば大晦日には救急車を呼んでしまった。パニックになったとはいえアホなのである。
精神がめげると、本当に音楽など聴きたくなくなる。オレの場合は集中して聴いてしまうのでヒジョーに疲れるのだ。特に最近、街中でも音楽の過剰サービスが目立つ。スーパーの入り口で音楽が流れていれば、店内での音楽は不要なのだ。二重に音を聴かされると、本当に疲れてしまう。またクソ甘ったるい歌詞のポップスも要らないのだ。あとは和食店で流れるロックやポップスを和楽器で演奏した音楽ね。あれ演奏してる奴ってバカじゃん。
まあそんなこんなでこの正月は一人の家から一歩も出ず、ドーナツ食って過ごしましたとさ。明日は来るのか、オレ。
音楽はムツカシイ。だからクラシック は別として、裏を取るのだ。何のことだというと、アクセントを2・4拍目に置くということで、例えば、例は非常に不穏当だが「君が代」という曲を例に挙げると、
き み が あ よ お わ となり、フツーに手拍子を打つと
○ ○ ○ ○ になる。これがなんと、
○ ○ ○ というタイミングで手拍子を打てないと、
死んでも音楽は上達しないのだ。本当のことである。これを裏を取るといい、「2・4にアクセントを置く」ともいい、これができない奴は「イモ」の烙印を押され音楽をする資格を奪われる。悲しいが事実だ。でも、これができな いと「ノリ」や「スイング感」が出せないので、ん~、残念だが仕方ないね。