音楽を、特にジャズを演奏する上で、この曲は通過しなければいけないのかもしれない。だが、オレはこの曲が吹けない。ビリーホリディが黒人差別の激しいアメリカで、バスでの移動中に見たというその光景。野ざらしの大木に絞首刑に処された黒人のことを彼女は「奇妙な果実」というタイトルの歌にした。世の中にはジェノサイドもあるし、厳しい現実もたくさんあるが、これほど生々しい芸術表現があるだろうか。



彼女の死後、マルウォルドロンがいかに彼女がいなくなって悲しいかという「レフトアローン」という曲を創り、日本の小説家が盛んに取り上げたが、何もわかっていない人間に何もいってほしくない。



芸術は残酷だ。




過去に一度、アレサ・フランクリンのコンサートに行ったことがある。前座はス○○○でかわいそうなほど情けなかった。で、アレサが登場した。会場は大阪城ホールだったのだが、総立ちになった。アリーナに座っていた○○○ラのファンが帰っていった。



しかし、会場は凄いことになった。だって登場したとたんに狂喜乱舞よ。オレもさー、音楽やってて、あんな風になりたいと思うよねー。オーラでもなく存在感でもなく威圧感でもなく、ただそこにいるだけでスゴイというニュアンス。


道は遠い。





残念なことだが、楽器を習熟するにはある程度のまとまった継続した時間が必要だと思う。社会人になって一日に2時間も3時間も練習をするのは不可能だと思うのだが、やはりメトロノームを相手に、常に2拍目4拍目を意識しながら、ロングトーンスケール練習をするのが必要なのだろう。昨今の音楽教室で行われているような「好きな曲を練習する」やりかたでは、他の曲が演奏できなくなっちゃうでショ。



オレがやった時間短縮の練習法は、スケール練習ロングトーンを組み合わせるというものだった。つまりエニイキーエニイスケールロングトーンをするのだ。テンポは40、7拍目でとめてたっぷりブレスする、というものだった。この基礎練習でだいたい20分くらいだろうか。モチロン楽器の構造上の最低音から最高音まで吹くだのが。



でも自宅で管楽器の練習はできないよねー。





よくいわれることだがジョンレノンがが必死に歌っていたときと、アドルフヒトラーがアジっていたときの声紋は、驚くほど似ているらしい。残念なことではある。オレはアコースティックな楽器を自分の息で吹いているのだが、それが殺略者の声紋と似ているといわれると、なんとなくへこんでしまう。



くしくも今日は大震災のあった日である。オレはできることなら平和を願って楽器を吹いている。辛いことはコリゴリだ。


水泳や自転車やその他の習い事と、音楽は一緒である。ある程度の密度の濃い練習期間が必要なのである。昨今のスクールでは、演奏したい音楽を課題曲として生徒に教えるらしい。生徒数を増やすためとか、生徒がとっつきやすい、という意味では正解だが、楽器を習熟するという意味では大間違いだ。



時間をかけるのがいいとはいわないが、楽器の習熟に近道はない。





文明が発達していない部族で、その部族の歴史を子孫に伝えるために音楽が使われるらしい。何百年も連綿と伝わる歴史が、歌にすると10分とか20分とかで伝わるのだそうだ。これは先にも書いたイメージ喚起力にも通じるものがあると思うが、それだけじゃーないと思う。もっと脳の奥底で電気反応が起こっているのだ。



げに音楽は恐ろしい。日本人もさ、入ってくる情報量を今の1万分の1くらいに減らせばいいんじゃない。


音楽の絶対構成要素はメロディーハーモニーリズムの三つだといわれる。そこに歌詞はない。なぜか。昨今のJ-POPでは愛だの恋だの寂しいだの強く生きるだのといったありきたりのことばが乱れ飛んでいるが、本当は不要なんではないか。MISHA果て無く続くストーリー、というひとことで聴衆の心を揺すりあげた。女の涙、口付け、ブルース、タバコの煙、残り香、ホテルの小部屋、たそがれ、横浜、ということばをつなげて阿久悠という作詞家「横浜たそがれ」という名曲を創りあげてしまった。これはいったいなんなんだ、と思ってしまう。



音楽はそれ自体がイメージ喚起力の強い芸術なので、歌詞というストーリーは不要なのではないかと思う。モチロン歌詞があったほうがいいのだろうが、聴衆に対してイメージを固定しすぎることにはならないか。ポリティカルな楽曲ならそれも必要だろうが、犬猫がさかってるわけではない。そんなに発表される楽曲すべてが色恋沙汰を取り上げたものでなくても良かろう、というのがオレの見解である。



そんなことをいいながら、かのベートーベンは最後の最後に歌詞付きの交響曲を創ってしまった。オレだってスタンダード演奏するときは歌詞は当然、それ楽曲が創られた時代背景だとかは、知っておいたほうが良いと思うのだが、歌詞を持たない楽器演奏者言葉より自分の音を選ぶのだ。





なんてことはない、今日も一日、放心したまま過ごしてしまった。オマケにウツ症状が朝からひどくてエライことになりそうだった。だいたい、この土日に練習といっても、通常のバンド練習なのだ。アドリブパートロックなのでGmイッパツ。コーダ後からカデンツァの16小節。それを20テイクくらいやっただろうか。毎回違うフレーズでやっていたのが悪かったのか、フラフラになってしまった。



明日は通常に戻れるだろうか。いや、戻らねばならん。昨日は12時間も寝たのにねー。困った困った。





昨日、一昨日とバンドリハで吹きまくってきた。で、口の中が裂傷でギダギダになった。体はいいんだが、精神がカラッポで本日は何も出来ない。朝から飲んで寝るだけ。さいなら。



音楽をやる上で「物まね」というコトバは良い評価ではない。しかし、音楽の発生にさかのぼってみればどうだろう。異性を呼ぶ動物の鳴き声を真似できる奴は、一族のヒーローだったはずだ。また一人で複数の声音を出せるヒトは、対立する部族との戦いを回避するのに有効だったはずだ。音楽で「物まね」が良い評価を受けないのは、プロフェッショナルなヒトがそれを行っている場合だろう。「なんだアイツは、○○の物まねじゃん」と言われる。佐野元春ブルーススプリングスティーンの物まねだと叩かれた。実際そうだった、その上にヘタクソだった。しかし現在彼は確固とした地位を築いてNYで活躍している。このように、音楽は物まねから始まってもいいんだよ。好きにヒトに近づきたい、あんなふうになりたい、と思う気持ちは間違いじゃないでショ。



本当の天才は何もないところから自分のスタイルを生み出すのだ。