チラシは江戸時代から「マーケティング」の原点
わが国のチラシは江戸時代の瓦版がその起源と云われている。
チラシはWEBやパンフレットの縮小版、伝えたい商品情報、販売方法等がすべて凝縮されている「マーケティングの原点」と呼べるメッセージと云えよう。
江戸時代の前は戦国時代
江戸時代といえば、天下泰平300年の鎖国文明時代、しかしそこに至るには戦国の世があり、数々の戦いが繰り広げられた。織田信長、豊臣秀吉、上杉謙信、武田信玄、毛利元就、多くの戦国武将らが、その勇気と知略を絞ってこの時代を生き抜いたが、その「陣取り合戦」の戦術、戦法には現代に通じる教則があろう。
不況下の現代~天下統一に向けて出陣
すっかり景気低迷の昨今でござろうが、人心乱れる不況下にこそビジネスチャンスが生まれうる。それは群雄割拠の時代、あたかも戦国の世のごとき状況でござる。通算35年間の現場人生を礎に、戦国武将のエピソードを交え、手裏剣と火縄銃を武器に天下統一に向けて出陣じゃ!
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次回セミナー開催は決定次第お伝えします。
出陣の準備をしてお待ちあれ!
日時:午後2時~戦国セミナー(定員40名)、午後4時~個別相談会(要予約)
お申込など詳細については、近日中に本ブログにて公開いたします。
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ブログ及びセミナー(随時開催)のご対象者
<其の壱> 中小企業、各種ご商売の経営者
良い製品なのにどう売っていいのかわからない。過去にまったく反響がなく失敗した。なかなか予算もかけられない。
<其の弐> マーケティング・販売促進の担当者
低コストで反響の高いSPを探している。人員削減でDMの手配やメルマガに手が回らない。
<其の参> 独立志向の強い方、起業を目指す方
チラシは販売の原点。商売的センスを磨くことができる。チラシ業者、DM業者、ポスティング業者として独立開業したい。
ご訪問を歓迎いたしますぜひブログ本文をご覧ください
第2次平成大不況・・・世は戦国時代です
目的は誰に対して?
不況の折、だまってショーウィンドウに従来の商品を並べていても売れません。
その為、企業は
『価格の引き下げ』 『商品力の向上』 『販促の強化』
といったことに力を入れています
確かに
『安いから買う』 『良い物だから購入する』 『宣伝を見て購入する』
といったことは往々にしてあるのですが、これらは全て販売する側から発信されたもので、決して顧客側のニーズではないように思います。
物の売買においては
『売り手 → 顧客』
だけでなくて
『顧客 → 売り手』
といった2つのベクトルあります。
すなわち、扱う商品を顧客に宣伝したり、手ごろな価格にて販売する手法が
『売り手 → 顧客』
顧客が求めるニーズを調べて(マーケティング)それにあった商品の開発や販売をおこなうのが
『顧客 → 売り手』
ということです。
マーケティングをおこない商品を開発するというと
『ある程度の大手ならともかく、個人商店では無理なのでは?』
とお考えになられるかも知れませんが、そんなことはありません。
たとえば学生街の飲食店などで昔から良くある
『学生さんにはご飯の大盛りや定食に付く小鉢を一品サービス』
等がまさに顧客のニーズに答えることです。
ようは
『誰に対して販売するのか?』
といったことが大切だということです。
戦国時代に織田信長のエピソードでこんな話があります。
京都において攻め滅ぼした、敵方の三好家に仕える坪内石斉という料理人を信長は召抱えたことがあります。
もちろん、敵方に仕えていた訳ですから本来であれば即、首を跳ねられていてもおかしくなかったのですが、京ではこの坪内は名の知れた料理人であったことから信長は坪内に対して
『料理がうまければ料理人として召抱えてやろう』
と言って坪内に料理を作らせました。
腕のある料理人なら召抱えるといったところが信長らしい、能力主義による人事のあらわれです。
ですが、この時に坪内の作った料理は味が薄く、信長は
『少しも旨くない』
といって坪内を処刑しようとしました。
すると坪内は、もう一度だけ機会が欲しいと言い出します。
それに対して信長は訴えを認めます。
そして二度目に出された料理を口にした信長は
『大変うまい』
と、その味を認めて料理人として取り立てたのです。
しばらくして、坪内はことのあらましを親しい仲間に話しました。
『最初は京風の上品な薄味の料理を出し、次は味の濃い田舎料理を作ったが、しょせん信長公は田舎者だった』
これが坪内の本音だったようですが、このことが後に信長の耳に入りました。
てっきり坪内は信長に手打ちにされると思われましたが、信長は澄ました顔でこう言ったそうです。
『坪内の料理の腕は確かなものである。したがって濃い、薄いの味付けも自在であろう。然るに物の道理は解っておらぬ。わしに仕えるならば、わしの好みに味付けをすれば良い。それを京風だ何だと小賢しき振る舞いでは所詮が坪内も二流の料理人である』
まさに
『誰に対して料理を作るのか?』
が大切だということでしょう。
残念! 何処かで観たような・・
今回は、海外ドラマ『ドールハウス』を観ての感想です。
主演がエリザ・ドゥシュクということで、結構な前評判のドラマでしたから期待して観たのですが・・
内容は、主人公のエコーという女性が記憶を書き換える技術により、様々な人格に入れ替えられて毎回別人となって、闇の企業ドールハウスから派遣され(貸し出し)るといったSFアクションです。
まだシーズン1の4話までしか観ていませんから何ともいえないのですが、大きな見所となる箇所ではどうしても他の海外ドラマを思い起こしてしまい、いまいちドラマの世界観へグッと入いり込んで行けませんでした。
別人格となる度にエリザ・ドゥシュクが演じるエコーは、その人格にあったコスプレ的な装いをするのが見所なのですが、どうしても『エイリアス』のシドニー・ブリストウ(ジェニファー・ガーナー)がスパイ任務に就く度におこなったコスプレシーンを思い起こしてしまいます。
他にも、植え付けられた人格を任務完了後に消去する際に、毎回抜け殻のようになって呆けた状態で『私寝ていたの?』と質問するシーンがあり、そこで人格変貌の差が強調されるシーンなのですが、これも『ターミネーター サラ・コナー クロニクルズ』での女ターミネーター、キャメロンが人間の感情を理解出来ずにいるシーンの演技を思い起こさせます。
内容やキャストは決して悪いとは思わないので、他の海外ドラマを観ていない方には何も問題ないと思いますが、他のドラマと内容が被る(意図的なのか?偶然なのか?が大きな問題ですが)のは、ドラマ好きには魅力が半減してしまい残念です。
どこかで観た展開だなぁと思った瞬間に、パロディやスタンダード作品のオマージュがテーマになっていたりしない限り、視聴者の中では二番煎じの作品と感じられてしまいます。
これだけ表現が多様な時代では、言語はABC・・あいうえお・・などの組み合わせで作られ、音階はドレミ・・の組み合わせ、映像もインターネットにより一夜で世界を駆け巡る訳ですから、似た所が出てくるのはある意味しょうがないのでしょうが、表現の送り手や作品の作り手となる人には、結構多難な時代だなぁと感じずにはいられません。
とろ~りとした餡がだんごの中から!
このお団子は食べると中から、みたらしとゴマペーストの餡がとろ~りと出てきて口のに広がります。
最近関西地方では大変に流行っている、中からたれが出る団子なんです。
大阪の一部では類似商品がコンビニなどでも並び始めています。
東京では販売しているお店が無い為、イベント会場や町の空きスペースにおいて、京都の和菓子屋さんから取り寄せて販売をしてみたところ大評判を頂いています。
まだまだ、関東では認知度が低い菓子の為、試食販売といった手法をとっているのですが、皆さん召し上がるとその
『とろ~りとした食感』
におどろいてご購入頂いております。
空きスペースでの露店販売は、世田谷区を中心に行っていますので、どこかで見かけたら是非ともご試食くださいね。
またイベント会場への集客目的による出店も行いますので、お気軽にお問い合わせ下さい。
『黒田節』は福島正則の酒席における失敗談
梅雨に入りハッキリしない天気が続きますが、これが明ければ真夏がやって来ますね。
以前のブログにも書きましたが、寒い冬は暖かいおでんが食べたくなり、暑い夏には冷たいビールが飲みたくなります。
『季節を感じて、食べたくなる』
の代名詞が私にとってはおでんとビールです。
仕事関係のお付き合いでも、プライベートの仲間とでも、冷たいビールをこの季節にキューっとあおれば、全ての関係が旨く行く気がしてしまいます。
ですが・・
酒の席では気が大きくなり、つまらぬ約束を口にしてしまい後で後悔するなんてこともありますよね。
今回は戦国時代の武将で酒豪と呼ばれた福島正則が起こした数ある失敗談の中から、唄にまでなって後世に伝えられた黒田節のお話です。
『さぁ~けぇは~飲めぇ飲め。飲むな~らぁ~ばぁ~』
で有名な黒田節ですが、この歌詞は福島正則と盟友の黒田長政の家臣だった母里太兵衛の間に起きた酒席のことを唄ったものです。
それは秀吉による朝鮮出兵が一旦休戦となり、京都の伏見城に福島正則が滞在中のことです。
酒豪の正則は朝一番から家臣達と酒を飲んでいました。
するとそこへ黒田長政からの使いとして母里太兵衛がやって来たのです。
この太兵衛は豪傑で酒豪の猛将として名をはせる人物でした。
正則はこの太兵衛に自分と同じ匂いを感じており、正則に拝謁するなり用件を後回しにして一献差し向けました。
けれども太兵衛はその誘いを断ったのでした。
というのも、太兵衛はここへ使いに来る際に主君長政より
『正則殿の前へ出た際には杯を差し出されるだろうが、絶対にそれを口にしてはならんぞ』
ときつく釘を刺されてきていたのです。
長政は酒豪同士の対面となることから酒によるトラブルを事前に考慮していたのです。
けれども、そんなことは知らない正則はさらに強く酒を勧めます。
それでも『飲むな』という主命を受けて来ていた太兵衛が断ると、正則は
『飲めと言ったら飲め!もし、その大杯の酒を一気に飲み干せば褒美に、そちの望むものであれば何なりと取らせようぞ!』
と言って大杯に、並々と酒を注いで差し出します。
『何と言われようと某は飲み申さぬ』
その太兵衛の答えに正則は、声を荒げて
『酒豪と名の通る母里太兵衛でさえ一杯の酒に臆するようでは、黒田家は腰抜け侍ばかりのようじゃ』
と太兵衛ばかりで無く黒田家をも蔑む発言をしたのでした。
ついに太兵衛は決心します。
『主家をそこまで辱められては武士の面目が立たちませぬ。この上は、喜んで頂戴つかまろう』
そう答えると、大杯に並々と注がれた酒を一気に飲み干しました。
その姿に部屋にいた者達は大喝采を上げます。
太兵衛の見事な飲みっぷりに正則は気を良くして
『いやぁ~貴殿の見事な飲みっぷりは、惚れ惚れするわ!ささっもう一杯』
と空になった大杯にまたも、並々酒を注いだのです。
もはや、今の一杯で酔いのまわった太兵衛は、二杯目の大杯も一気に飲み干しました。すると、さらに酔いのまわった太兵衛は、おもむろに立ち上がり、部屋の壁に掲げてあった名槍・日本号を手に取るや
『この槍をば、先程の正則殿の口より発せられた望みの褒美として貰い受け申す』
といって部屋を出ようとしたのです。
これにはさすがの正則も慌てました。
それというのも、この日本号という槍は、正親町天皇から足利義明へ、そして信長、秀吉の手を経たのちに正則の所有となった正則自慢の天下の名槍だったからです。
『そそ・・それは・・』
正則が断りの言葉を発しかけたのをさえぎって
『まさか?福島正則ともあろうお人であれば、武士に二言などござらんでしょうな』
と答えた太兵衛は、名槍日本号をかつぎ、黒田藩歌の筑前今様(これが黒田節の音階)を口にしながら部屋を出て行ったのでした。
こうして現在、唄われている黒田節はこの模様が詩となって今も皆の口にされている訳です。
ちなみにその後の正則は酔いがさめた後に気が大きくなり、とんでもない約束を口にしたと後悔しきりだったとの事です。
今回は、酒の席における約束ごとは口にしないように注意が必要だと感じるお話でした。
『どうしようかな?』に対するアプローチ
『今日の夕飯は何を食べる?』
こんな質問をされたら、皆さんは直ぐに答えられますか?
その日に食べる物なのに、意外とギリギリまで決まっていないことの方が多かったりしますよね。
こういった
『どうしようかな?』
と思っている人達にと対して、チラシや看板などアイキャッチの高い広告は大きな切欠となり効果を示します。
実際に
『夕飯はどうしようかな?』
と考えている人達が何を食べるのかは何時決まるかというと、家庭の主婦の場合、雑誌やテレビなどで取り上げられた食材や料理を見て決るか、街へ買い物に出てスーパーや商店で食材を見ながら決めるのではないでしょうか?
独身男性の方なら、帰宅時に仲間と話し合って一緒に外食する店を決めるか、一人の場合は街中にある飲食店の看板やのぼり等で決めることも多いかと思います。
毎日必ず食べることであるが故に、殆どの人達が具体的に何処で何を食べるかを決めかねている訳です。
このことは飲食店や食材販売店にとって、自店の売上UPに向けた大きなチャンスがあるといえるでしょう。
夕食を取るという行為において、売り上げ見込みのベースとなる固定客、常連客、人気食材の販売といったもの以外でこれだけの浮動顧客(どうしようかな?)が存在している訳です。
その浮動顧客を自店へ導くことが出来るのが、チラシや看板、のぼり等の販促だということがお解かり頂けるでしょう。
ですからスーパーは朝刊の折込みチラシを欠かさずにおこないますし、飲食店はネオンや看板、のぼりによる告知に力を入れている訳です。
またアイキャッチの高い広告は
『どうしようかな?』
とさえ思っていない顧客に対しても、目で見るという視覚に訴えることで
『食べたい』 『欲しい』
といった欲求をその場で喚起することさえあります。
チラシの内容に工夫を凝らしたり、配布の仕方におけるタイミングや手法を凝らすことで顧客のパイを増やす効果も得られるのです。
チラシは既存客にプラスαを作り出す広告手法なのです。
織田信長『是非に及ばず』の解釈は・・
ある上司が勝手な判断によるミスを繰り返していた部下のAさんに
『勝手な判断をせずに上司の私に相談をしてから仕事を進めるように』
と注意をしました。
一方では細かなルーチンワークのことまでも毎回上司に確認を求めるBさんに対しては
『自分で判断出来ることはある程度、考えて行動するように』
といった発言をして注意を促します。
それを聞いたAさんは上司のことを
『相談、報告をしろ』 と言ったり 『自分で考えて行動しろ』
と言ったり発言にバラ付きがあるので信用できないと感じてしまいました。
この例のように解り易いケースであれば
『どのような状況で何に対して』
の発言だったかは明白な為、言葉の意味合い通りに発言を受け止めるAさんの方が誤解をしていると解ります。
けれども複雑な状況での発言については意外と誤解がまかり通ってしまうケースも多いのではないでしょうか?
織田信長が本能寺にて明智光秀の謀反と聴いた際に発した有名な言葉で『是非に及ばず』というのがあります。
『光秀に襲われたのでは、もはやこれまで』
との潔い信長の決意判断による言葉と受け止められています。
ですが本当にそうなのでしょうか?
私は前例のように、その発言が何に対して発せられた言葉だったのかを考えずに判断している為の勘違いなのでは?
と感じています。
信長公記によると、鉄砲の音や木戸を打ち破って乱入して来る者達の物音に
『これは謀反か?誰の企てだ』
と信長が聞き、その質問に森蘭丸が
『明智の者と見ました』
と答えた際に
『是非に及ばず』
と答えているのです。
明智と聞いての答えが『是非に及ばず』なので、従来の
『明智であればぬかりは無いだろう、もはやこれまで』
との解訳がされています。
けれどもこれは 『明智と聞いての答え』 であって 『明智に対しての答え』 では無いはずです。
『是非に及ばず』が何に対しての発言だったのかで大きく意味合いが違ってくることから、このことは重要だと感じます。
『明智もしくは謀反』 に対しての 『是非に及ばず』 であれば従来通りの解釈は出来るのですがそうなると、その後の信長の行動がつじつまの合わないものになってしまうのです。
信長公記によると『是非に及ばず』発言の後、すぐに御殿へ入り森蘭丸ら小姓衆と共に敵を迎え撃ちます。
信長は初めに弓を持ち、二度三度と射たあとで弓の弦が切れると、その後は槍をとって戦かいます。
そんな中で槍疵を受けて、始めて退いています。
ここに至ってやっと
『女は苦しからず、急ぎまかり出よ』
と言って落ち延びるよう命じるのです。
その後、御殿に火をかけ、その火が燃え広がると殿中の奥深くに入って腹を切った。
とあります。
『どうしようもない』
とあきらめた後に果たして弓や槍で応戦するでしょうか?
これでは潔く『是非に及ばず』と覚悟を決めたとは到底思えません。
ではこの『是非に及ばず』は何に対しての発言だったと考えれば良いのでしょうか?
そこで信長という人の性格を考えて見ると、戦略というキーワードが出てきました。
信長という人の戦は自らの名が世にでた桶狭間の戦い以外では、無謀な戦はせずに全て戦略を駆使して勝てる状況を整えてから開戦しています。
その戦略が出来るまでは、同盟を組んでいる徳川が応援の要求をしてきても兵を送ることをしなかったり、武田、上杉という戦上手の敵には、恥も外聞もなく贈り物して媚びて戦略の期が熟すのを待っていました。
もはや戦略を練ることが信長の戦い方とさえ言えるでしょう。
この謀反に気が付いた時に信長は、まずどう対処するかの戦略を練ろうと考えたのではないでしょうか?
そして、その戦略を考える上で必要な情報は誰によるものか?
であり、その質問に対する答えが森蘭丸による
『明智の者と見ました』
だったとしたらどうでしょう。
この時点で既に鉄砲が打たれ、木戸が破られていたのなら、もはや首謀者の特定や戦略を練る時間は無かったでしょう。
そこで信長の口から出た言葉が『是非に及ばず』だった訳ですからこれは、戦略を練る。首謀者を確かめる。といったこと対しての『是非に及ばず』すなわち『もはや考え(戦略を立てる)ても仕方が無い』ではなかったか?
それならば、その後の自らが応戦するといった悪あがきとも取れる行動や傷を負ったことにより奥へ下がって女達を落としたこともうなずけます。
信長が語った『是非に及ばず』の意味合いは
『もはや考え(戦略を立てる)ても仕方が無い、応戦するのみ』
で、さらに信長自身はまだ、あきらめてはおらず
『応戦していれば本能寺近くに居るはずの息子、信忠が駆けつけて来て、謀反の軍勢が少数ならば活路を見出せまいか?』
などと、考えていたように思えてなりません。
奥のことは孝蔵主が
仕事と言うのは大まかに、内へ向けた物と外部へ向けた物の2種類に別けることが出来ます。
良い商品を生産することや事務・経理といったことから社員教育・人材育成などは、内へ向けた仕事といえます。
宣伝活動・接客や営業販売といった社外へのアプローチは、外部へ向けた物といえるでしょう。
私は企業が内に向けた仕事にばかり力を注いで行くと、業績があまり上がらなくって苦しい経営状態を招くことも起こりえると思っています。
さらに細かい社内の人間関係などに重きを置くと業務と関係ない派閥などによる足の引っ張り合いやインナー・コミュニケーションが社内に蔓延してしまい、業績よりもこちらの方が大事というコミュニティーが出来てしまうのではと危惧します。
一方で外部に向けた仕事ばかりが中心の会社というのも業績は上がりますが、数字や結果至上主義になりがちでコミュニティーバランスが偏ったりコンプライアンス意識の薄い組織になる気がしています。
この2種類に対する力の入れ方のバランスが大事だといえるかもしれません。
この内への対処と外への対応という考え方は、戦国時代の政においても重要なものでした。
豊臣秀吉は天下を治めると、内と外に向けてそれぞれに適任者を定めて豊臣家の運営にあたっていました。
豊臣政権発足時に秀吉は
『内々の儀は宗易(千利休 )、公儀の事は宰相(秀長)存じ候』
と大友宗麟に言っています。
茶の湯を通してのコミュニケーションなどから内に向けた人間関係による諸大名間における問題や陳情は、茶頭として秀吉に仕えた千利休に任せる。
外に向けた公儀のことは、最も信頼の出来る弟の豊臣秀長に任せる。
こうして豊臣政権の維持と躍進に秀吉は努めたのです。
その後、秀長が病死して利休が切腹により亡くなる(秀吉との間に確執が生じて切腹の命を下すまでの経緯は諸説があります)と替わって
『表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が』
と言われるようになります。
浅野長政は秀吉の妻である北の政所(『ねね』もしくは『おね』)の義理の兄であり、孝蔵主は北の政所の執事でした。
このことからも豊臣政権が
『農民の子秀吉と足軽頭の養女ねねが、夫婦二人三脚によって作りあげた摂家による天下』
と云われるのも肯けます。
さてこの孝蔵主という人物ですが、秀吉の
『つゆと落ち つゆと消えにし我が身かな なにわのことは夢のまた夢』
という有名な時世の句を、臨終のはるか前の時点で極秘に預かった人物だといわれています。
また、あの伊達政宗が秀吉から奥州にて謀反の企て在りと疑われた際に、秀吉に成り代わって詰問をしています。
小早川秀秋の朝鮮出兵時の失態についての国替え勧告なども、秀吉に代わっておこなっているのです。
ある意味で秀吉の、キツイことを伝える時には女性を使ってやわらげて相手に言い含めるといった、人たらしの妙であったとも言えますが政にかかわる表のこともこなせるだけの力を持っていた人物だったのは確かです。
しかも秀吉の死後に、豊臣の世から徳川の世へ移り変わると孝蔵主は、北の政所から高台院となっていたねねの下を去り江戸へ向かい(この原因も諸説ありますが今だはっきりした理由は謎です)二代将軍徳川秀忠の執事として仕えています。
いわゆる大奥制度というものが春日局によって作られるその基礎となる奥のあり方を、豊臣政権・徳川政権の中で作った人物といえるかもしれません。
需用と供給
茨城空港の開設に伴って現在、巷で湧き出る議論は
『東京への鉄道路線が充実している為、地元空港よりも成田や羽田の空港を利用する』
といった物や
『近隣空港と比べた各航空会社による定期便数の違い』
などネガティブな話が多く、路線維持の不安を口にする方が多いようです。
そもそもが
『自民党政治による負の遺産で無駄な空港開設だった』
との身も蓋もない話も聞かれます。
需用の見込みが薄いのに無駄な空港を開設しているとの論調が圧倒的だということです。
多分この結論は正しいのでしょう。
けれども今回の空港開設に向けての経緯や思惑は一旦、横において考えるとすれば結構物事が起こり、活性化して成熟して行くプロセスには
『需用がある → 需要に向けて事が起こる』
だけでは無くて
『物事が起こる → 需用が生まれる』
と言う両側面があるのではないかと思います。
もちろん前者は固く、後者はギャンブル的要素がありますから公の資金や労力を賭しておこなう事には後者の理論は向かないと言えますが、既に出来てしまった物に対しては後者の理論で活性化させることが必要かと感じます。
広告宣伝という仕事をしていると、イベントや新商品開発といった起爆剤を軸にして多くの需用を産むムーブメント作りが必要だと考えてしまいます。
ですから、既に出来てしまった空港について後ろ向きな論理を展開するよりも、前向きに空港が出来たことで生まれる様々な需要を生かして、地域の活性化を考えて行くことが重要だと感じてしまいます。
ただそんな私も、何でも結果主義で考えるべきだとは思っていません。
空港開設に向けた動きが始まった時点では
『需用がある → 需要に向けて事が起こる』
を軸にして考えるべきだと思っています。
無理な計画は上手く行くはずがありません。
何せ空港を作る訳ですから随分と前に需用と供給の予測による採算性や活性化による地域の利便性向上の具体例が、議論されてきたはずです。
けれども、ニュースその他で一般的に報道されることはあまり無くて、いざ開設となったとたんに大騒ぎしているように感じます。
そういう意味では現在議論される危ぐが正しければ、空港開設に向けて動いていた人達の読みの甘さは非難されてしかるべきですが、その部分の議論が開設前に公で話題にならなかったことに、きな臭さを感じます。
やったもん(作ったもん)勝ち的な流れに向けて一気に突っ走ったのでは?
※私が無知なだけで、計画から開設までの間に喧々諤々の議論が公でされていて気付かなかっただけなのでしょうか・・
結果的に、ことが起こる前にすべき議論
(需用がある → 需要に向けて事が起こる)
と、
ことが起きてからの議論
(物事が起こる → 需用が生まれる)
では、おのずとその趣旨も変えて行かなければならないはずなのに、ごっちゃになった議論がされているように感じるのですが・・・
『茨城空港の開設に伴い議論される内容』
に対する素朴な感想でした。
『俺がやるよ!』 『俺がやる!』 ・・・ 『いやいや、じゃぁ俺が・・』 『どうぞ!どうぞ!』
辛い事や嫌なことを率先しておこなうと、周りから知らぬ間に高い評価を受けることがあります。
例えば毎朝きちんと起きることって、,当たり前のことですが辛くありませんか?
大抵の人が一度や二度は
『もう少し寝ていたい・・』
と、二度寝してしまい約束の時間に遅れてしまったり、会社や学校に遅刻した経験があるのではないでしょうか?
ですがそんな朝起きる辛さを克服して、一年を通しての無遅刻、無欠勤を続けるとコミュニティーによっては皆勤賞という名の評価をしてくれたりします。
こんな当たり前と思えることでも、辛いと感じることを乗り越える努力をしていれば評価されたりするものです。
マラソンなどで完走することもそうでしょう。
はっきり言って走り続けることって、しんどくて辛いものです。
ですから何時足を止めて休んでも良いのですが、そこで辛さに負けずに走り抜くと周りの観客から暖かい拍手で迎え入れられます。
身の回りの小さなゴミや邪魔な物なども、その都度片付けるのって面倒ですよね。
ですがその面倒なことを率先しておこなっていると
『あの人は何時も掃除や整理整頓してくれて助かるよね』
と、評価されて周りから感謝されたり信用をされます。
日常の中で当たり前のことではあるけれども、辛いことや面倒なことから逃げずに向き合って生活しているだけでも他者からの評価や信用を得ることがあるのです。
ですから仕事における面倒事ならば尚更、向き合うことで大きな評価を得るでしょう。
誰かがやらなければならない面倒な事が起きた場合に、誰がやるかで顔を見合わせながら素知らぬ振りをして自分に役回りが来ないようにする人達っていませんか?
そんな時私は
『じゃあ俺がやるよ』
と言って自らがそれを行うか
『誰々さんがやって下さい』
と、そのことが出来る人を指名して任せてしまいます。
そうすれば一時的に自らが面倒な事をおこなっても、それ以上に周りの人達から信用や感謝が得られて結果的には自分に良い結果が返ってくるものです。
また適任と思う人にお願いをした場合も、そのことで感謝の言葉や態度を示すと、大抵の人は喜んで引き受けてくれます。
辛いこと、嫌なこと、面倒なことetc・・
これらのものや状況から逃げてしまわずに向き合うことは、自分自身の成長だけでなく他者との間におけるコミュニティー作りに対しても大きな効果が得られると感じています。
ですが・・・
あまり周りの評価や状況ばかりを気にしながら物事に取り組んでしまうと
『タイトルのダチョウ倶楽部のギャグ』
のように・・
『俺がやるよ!』
『俺がやるってば!』
・・・
『いやいや、じゃぁ俺が・・』
一斉にみんなから、
『どうぞ!どうぞ!』
と、なってしまうかもしれませんのでお気を付け下さい・・