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奥のことは孝蔵主が

仕事と言うのは大まかに、内へ向けた物と外部へ向けた物の2種類に別けることが出来ます。


良い商品を生産することや事務・経理といったことから社員教育・人材育成などは、内へ向けた仕事といえます。


宣伝活動・接客や営業販売といった社外へのアプローチは、外部へ向けた物といえるでしょう。


私は企業が内に向けた仕事にばかり力を注いで行くと、業績があまり上がらなくって苦しい経営状態を招くことも起こりえると思っています。


さらに細かい社内の人間関係などに重きを置くと業務と関係ない派閥などによる足の引っ張り合いやインナー・コミュニケーションが社内に蔓延してしまい、業績よりもこちらの方が大事というコミュニティーが出来てしまうのではと危惧します。


一方で外部に向けた仕事ばかりが中心の会社というのも業績は上がりますが、数字や結果至上主義になりがちでコミュニティーバランスが偏ったりコンプライアンス意識の薄い組織になる気がしています。


この2種類に対する力の入れ方のバランスが大事だといえるかもしれません。


この内への対処と外への対応という考え方は、戦国時代の政においても重要なものでした。


豊臣秀吉は天下を治めると、内と外に向けてそれぞれに適任者を定めて豊臣家の運営にあたっていました。


豊臣政権発足時に秀吉は


『内々の儀は宗易(千利休 )、公儀の事は宰相(秀長)存じ候』


と大友宗麟に言っています。


茶の湯を通してのコミュニケーションなどから内に向けた人間関係による諸大名間における問題や陳情は、茶頭として秀吉に仕えた千利休に任せる。


外に向けた公儀のことは、最も信頼の出来る弟の豊臣秀長に任せる。


こうして豊臣政権の維持と躍進に秀吉は努めたのです。


その後、秀長が病死して利休が切腹により亡くなる(秀吉との間に確執が生じて切腹の命を下すまでの経緯は諸説があります)と替わって


『表のことは浅野長政が、奥のことは孝蔵主が』


と言われるようになります。


浅野長政は秀吉の妻である北の政所(『ねね』もしくは『おね』)の義理の兄であり、孝蔵主は北の政所の執事でした。


このことからも豊臣政権が


『農民の子秀吉と足軽頭の養女ねねが、夫婦二人三脚によって作りあげた摂家による天下』


と云われるのも肯けます。


さてこの孝蔵主という人物ですが、秀吉の


『つゆと落ち つゆと消えにし我が身かな なにわのことは夢のまた夢』


という有名な時世の句を、臨終のはるか前の時点で極秘に預かった人物だといわれています。


また、あの伊達政宗が秀吉から奥州にて謀反の企て在りと疑われた際に、秀吉に成り代わって詰問をしています。


小早川秀秋の朝鮮出兵時の失態についての国替え勧告なども、秀吉に代わっておこなっているのです。


ある意味で秀吉の、キツイことを伝える時には女性を使ってやわらげて相手に言い含めるといった、人たらしの妙であったとも言えますが政にかかわる表のこともこなせるだけの力を持っていた人物だったのは確かです。


しかも秀吉の死後に、豊臣の世から徳川の世へ移り変わると孝蔵主は、北の政所から高台院となっていたねねの下を去り江戸へ向かい(この原因も諸説ありますが今だはっきりした理由は謎です)二代将軍徳川秀忠の執事として仕えています。


いわゆる大奥制度というものが春日局によって作られるその基礎となる奥のあり方を、豊臣政権・徳川政権の中で作った人物といえるかもしれません。



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