織田信長『是非に及ばず』の解釈は・・
ある上司が勝手な判断によるミスを繰り返していた部下のAさんに
『勝手な判断をせずに上司の私に相談をしてから仕事を進めるように』
と注意をしました。
一方では細かなルーチンワークのことまでも毎回上司に確認を求めるBさんに対しては
『自分で判断出来ることはある程度、考えて行動するように』
といった発言をして注意を促します。
それを聞いたAさんは上司のことを
『相談、報告をしろ』 と言ったり 『自分で考えて行動しろ』
と言ったり発言にバラ付きがあるので信用できないと感じてしまいました。
この例のように解り易いケースであれば
『どのような状況で何に対して』
の発言だったかは明白な為、言葉の意味合い通りに発言を受け止めるAさんの方が誤解をしていると解ります。
けれども複雑な状況での発言については意外と誤解がまかり通ってしまうケースも多いのではないでしょうか?
織田信長が本能寺にて明智光秀の謀反と聴いた際に発した有名な言葉で『是非に及ばず』というのがあります。
『光秀に襲われたのでは、もはやこれまで』
との潔い信長の決意判断による言葉と受け止められています。
ですが本当にそうなのでしょうか?
私は前例のように、その発言が何に対して発せられた言葉だったのかを考えずに判断している為の勘違いなのでは?
と感じています。
信長公記によると、鉄砲の音や木戸を打ち破って乱入して来る者達の物音に
『これは謀反か?誰の企てだ』
と信長が聞き、その質問に森蘭丸が
『明智の者と見ました』
と答えた際に
『是非に及ばず』
と答えているのです。
明智と聞いての答えが『是非に及ばず』なので、従来の
『明智であればぬかりは無いだろう、もはやこれまで』
との解訳がされています。
けれどもこれは 『明智と聞いての答え』 であって 『明智に対しての答え』 では無いはずです。
『是非に及ばず』が何に対しての発言だったのかで大きく意味合いが違ってくることから、このことは重要だと感じます。
『明智もしくは謀反』 に対しての 『是非に及ばず』 であれば従来通りの解釈は出来るのですがそうなると、その後の信長の行動がつじつまの合わないものになってしまうのです。
信長公記によると『是非に及ばず』発言の後、すぐに御殿へ入り森蘭丸ら小姓衆と共に敵を迎え撃ちます。
信長は初めに弓を持ち、二度三度と射たあとで弓の弦が切れると、その後は槍をとって戦かいます。
そんな中で槍疵を受けて、始めて退いています。
ここに至ってやっと
『女は苦しからず、急ぎまかり出よ』
と言って落ち延びるよう命じるのです。
その後、御殿に火をかけ、その火が燃え広がると殿中の奥深くに入って腹を切った。
とあります。
『どうしようもない』
とあきらめた後に果たして弓や槍で応戦するでしょうか?
これでは潔く『是非に及ばず』と覚悟を決めたとは到底思えません。
ではこの『是非に及ばず』は何に対しての発言だったと考えれば良いのでしょうか?
そこで信長という人の性格を考えて見ると、戦略というキーワードが出てきました。
信長という人の戦は自らの名が世にでた桶狭間の戦い以外では、無謀な戦はせずに全て戦略を駆使して勝てる状況を整えてから開戦しています。
その戦略が出来るまでは、同盟を組んでいる徳川が応援の要求をしてきても兵を送ることをしなかったり、武田、上杉という戦上手の敵には、恥も外聞もなく贈り物して媚びて戦略の期が熟すのを待っていました。
もはや戦略を練ることが信長の戦い方とさえ言えるでしょう。
この謀反に気が付いた時に信長は、まずどう対処するかの戦略を練ろうと考えたのではないでしょうか?
そして、その戦略を考える上で必要な情報は誰によるものか?
であり、その質問に対する答えが森蘭丸による
『明智の者と見ました』
だったとしたらどうでしょう。
この時点で既に鉄砲が打たれ、木戸が破られていたのなら、もはや首謀者の特定や戦略を練る時間は無かったでしょう。
そこで信長の口から出た言葉が『是非に及ばず』だった訳ですからこれは、戦略を練る。首謀者を確かめる。といったこと対しての『是非に及ばず』すなわち『もはや考え(戦略を立てる)ても仕方が無い』ではなかったか?
それならば、その後の自らが応戦するといった悪あがきとも取れる行動や傷を負ったことにより奥へ下がって女達を落としたこともうなずけます。
信長が語った『是非に及ばず』の意味合いは
『もはや考え(戦略を立てる)ても仕方が無い、応戦するのみ』
で、さらに信長自身はまだ、あきらめてはおらず
『応戦していれば本能寺近くに居るはずの息子、信忠が駆けつけて来て、謀反の軍勢が少数ならば活路を見出せまいか?』
などと、考えていたように思えてなりません。