**我が人生の旅路**

**我が人生の旅路**

                     英 満(はなぶさ みつる)

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 自分がまだ稚児の時亡くした両親、今の私はその当時の両親よりもだいぶ長生きした事になる。
 私を育ててくれた祖父が亡くなった年に京都から九州福岡の地に戻り、右も左も分からぬまま、その時に与えられたわずかな光(チャンス)を何とかものにして働いたものだ、実によく。
 今思えばあっという間の30年だったような気がしている。
 死期の近い祖父から「達成しろよ。」言われた二つの事柄(学位取得と経済的自立)は無事に果たす事ができたようである。
 そう、学位を取った後は経済的に自立するという事を自分なりに考えて、大卒(一般)の生涯賃金超え、次に出身大学(学部)の生涯賃金超え、更に院修了(一般)の生涯賃金超え、そして出身大学(院)の生涯賃金超えを突破してきた。
 何とか還暦にはならずに自身の目標を突破できてよかったとの思いである。
 飛び抜けた(特殊)な才能のない私にはコツコツやり続ける「地道な努力」以外、二つの事柄を成す事はできなかった。
 亡き両親よりも長生きさせてもらえた事に感謝し、死から生を見据え、残りの人生、静かに過ごしていけたら本望である。
<対応年代:20代~50代>

 学校行事の一つ、運動会。両親を亡くしていた私には祖母が見に来てくれていた。

 とある年、祖母の体調が悪く運動会を見に来る事ができなくなってしまった。

 「無理せんでいいけ、今日は一人でいい。」、と祖母に言い、小学校にその日は行ったのを覚えている。

 運動会は何事もなく進行し、お昼の昼食の時間をむかえた。

 今日はばあちゃんがおらんけ、どっか一人で食べんといけん、と思い、誰もいない(確か体育館の裏だったと思う。)所を見つけそこで弁当を食べた。

 幼少の頃から一人でいる事が多い私には「さみしいな」と思う気持ちはなかった。

 こんな誰もいない所で弁当を食べようと思ったのは、まわりの大人に気を使わせたくなかったからだ。

 祖母の作ってくれたおにぎりを食べながら「ばあちゃんが今日これなかったから人とは別の景色を見ることができた、よし♪」、と思った。

 天気のいい中、午後のプログラムも無事に終わった。運動会、それなりに楽しかった。

 家に帰り、夕食時、今日の運動会の事を祖父母に話した。

 「そうか、一人は○○だけやったか?」、と祖父から言われたので、「うん。」とだけ私は言った。

 すると祖父から「今経験して感じている事が必ず役立つからな、はげめ。」、と言われた。

 祖母の顔を見ると、祖母はいつものように微笑んでいた。

 還暦近く生きてきた今から考えると祖父が言ったその時の言葉の意味がよく分かる。

 「お前にはもう両親はいない。どのような事をしてもそれを埋め合わせはできない。だからお前はお前の人生を切り開いて欲しい。『いなかったからこそ』のいい人生を!」、と祖父は私に☆

<対応年代:10代>

 今回は学校の先生から「いらんもん持ってくるな。」と言われ、ビンタされてしまった話を綴る事にしたい。
 祖父は時々「いいな。」、と思う物を買ってきて、それを私にくれた。
 祖父が「○○見てみ。」と言って、黒い四角形(縦長)の物を私の目の前にだした。
 「何これ!?」、と私は祖父にすかさず聞いた。
 すると祖父は、「電卓という自動で計算してくれる便利なものだぞ。」、と言い、「やり方はな、・・・」と続けて話始めた。
 「あぁ、凄いね!」、と私は祖父からその電卓なる物を受け取り、自身で操作してみた。
 「こりゃすごく便利だね。そうだ、明日丁度そろばんの授業があるからこれ持って行って、みんなにみせよう。」、と祖父に言うと、「そうしたらいい。」と祖父は言ってくれた。
 当時電卓がでた(市販された)ばかりの時に祖父は早速どこからか買ってきて、私にそれをくれたのであった。
 「+-×÷」しかできない今では考えられない電卓であったが、
当時の私には宝物のように思えた。
 翌日、学校のそろばんの授業になった。授業が始まって間もなく私は「先生~。」と言って、先生の立つ教壇の所まで行った。
 「先生見て下さい、これ。電卓です。これがあればもうそろばんなんていらなくないですか!?」、と言い、電卓を先生に見せた。
 すると先生は、「△△、おまえふざけとるんか。いらんもん持ってくるな。」と大きい声で言われると同時にビンタをされてしまった。
 私はみんなの見ている中、後の席にメソメソしながら戻り着席した。
 悲しかった。が、学校はそういう所なんだな、と思った。
 そろばんで計算するより電卓でやった方がいい事は先生だって分かっているに違いない。でも全体(授業の流れ)を乱すような事はできない。よって自分はビンタされたのだと。
 その日家に帰り夕食の時間に祖父にビンタされてしまった事を話した。
 話を聞き終わると祖父は「ビンタされた事は気にするな。電卓の時代は必ず来るからな。」と言った。
 ふと祖母を見ると祖母もうなずいていた。
 さて、電卓はというと、21世紀を生きる世代からみたら、100円ショップでも売っている物の一つでしかもはやないように思える。(祖父のくれた電卓は、当時5,000円もした物だった。)
 祖父の半世紀前に言った内容は正しかった。
 私の思いも『ビンタをされたけど』、また間違いではなかったかと。
それは、そろばんを日常使っている人はもはやいないのではないかと思えるからだ。
 祖父のように22世紀には電卓と同じになるような物を後進(子孫)に与えてやることができるよう努めていきたい。
<対応年代:10代> 

 外であまり遊ばず、幼稚園(1年保育)も殆ど行かずじまいで小学校に通うことになったのであるが、教科指導の中で「体育」が好きになれずにいた。
 そんな中、「逆上がり」なるものに取り組まなければならなくなった。今回はそんな小1の頃の出来事を綴ってみたい。
 友達とも遊ぶ事をできるだけしてこなかったせいもあり、鉄棒には、ほぼ触れたこともなかったのに、いきなり「逆上がりできるようになりましょうね!」、と先生。
 「こりゃ困った。」、と心の中で呟いてしまった。
 周りを見ると、何と、できるクラスメイト多数。なんだこりゃ、の状況下におかれた私であった。
 とりあえず先生にやり方=コツを聞いてみよう、と一目散に先生の所に。
 先生が「・・・、それからね、・・・」、と教えてくれた。
 聞いてはみたもののとりあえずはできないから、みんなのやってるとこを見とこう、とずっと見学してしまった。
 先生は「○○くんはやらないの。」とか言う人ではなかったのでありがたかった。
 その日家に帰って夕食の時間に祖父に「逆上がり」の事を話した。
 すると祖父は、「頭できちんと理解してその通りに体を動かすことができればできるはず。でもな、それが中々できないから面白いんだぞ、運動は。」、と言った。
 できなかったら面白くないんじゃないかとは思ったが、黙ってうなずいた。
 次の日放課後「逆上がり」の練習をした。できません、なんせ、初めてやってる訳だから。
 頭で考えてやってるのに、なんで!?、と思った。そこで、勉強する場合に置き換えて考えてみた。
 そっか、と、思うことがあり、再度(何度目かはもう分からなくなっていたが)、「エイ」、とやってみた。
 できた、できた、となった。とっても嬉しかった♪
 できてしまえば何でもない簡単な事なのだが、「コツ」をつかみ、その「コツ」をのみこんでやればできるのであった。
 祖父が「面白い」と言った意味が何となく分かった気がした。
 直面した問題には、真正面からぶつかるのではなく、自分の知りうる得意なものに置き換え、その中から「コツ」=解決のヒントを見つけて立ち向かっていけばいいのだろう。
 21世紀の「逆上がり」に後進と一緒にチャレンジしていきたい☆
<対応年代:幼少> 

 「サラリーマンにはなれないかもな。」、小学4年生、当時10歳だった私がふと思ったことがあった。
 家の近所を歩いていて(お散歩するのは小さい頃から好きだった。)何気に思ったことなのだが、今思い返せば、祖父は既に働いていなかったし、毎日同じ時間に起きて、小学校に行くのでさえ結構しんどい思いをしていたので、当然だったのかもしれない。
 そんな中、朝ネクタイをきちんとし、勤めに行っている多くの大人を見るにつけ、ますます「無理だ~。」、との思いは強くなっていった。
 たまたま勉強ができていたので、進学を続けることができ、いつの間にか大学院に通うことになっていたのだが、社会人(勤め人)になりたくないが故の大学院進学であった。
 このままずっと大学にいられたら、との思いで自分なりに頑張った結果、運良く大学に残れることになったのだが、家庭の事情が生じて、故郷に戻ることになってしまった。
 故郷に戻ってからの経緯は、この「我が人生の旅路」で書いたような次第である。
 今思えば、私にとっての30代は、無我夢中で駆け抜けたような気がする10年間であった。
 そして、40歳になろうとした頃、自分の立ち位置が何となくではあるが分かったとの思いに至った。
 そう、10歳から実に30年の月日を経て、私は、勤め人ではない私に「なれていた」のである。
 幸せな気分で迎えた40歳の誕生日、これからも静かに(コツコツ)生きていこう、と改めて思った。
<対応年代:10代~30代> 

 2学期頭に成績表をもらったのだが、高1の夏休み直前に受けた全国模試の順位が全国で61番となっていた。(英数国、数学については満点だった。)
 残り60人か、コツコツやればトップにもなれるかも!?、とふと思った。
 高校数学の内容もやり終えていたので、力試しでもしてみるか、と考え、軽い気持ちで秋のとある日曜に高校3年(大学受験)生の全国模試を受けてみた。
 結果は、散々たるものだった。(東大E判定、九大C判定、共に医学部進学課程)
 「まぬけなことをしてしまった。」と夕食の時に話すと祖父に笑われてしまった。
 実力(応用力)もないのに「いける(やれる)かも」、と思った自身の行動を反省し、基本(基礎知識)から応用できる力を身につけるられるよう工夫しながら勉強していくようその後努めた。
 そして高校2年生の夏、同様に高校3年(大学受験)生の全国模試に改めて挑戦してみた。
 結果は、九大でA判定になっていた。(ここしか志望校で書かなかった、というか、書けなかった。)嬉しかった。祖父にも今度は笑われなかった。
 「まぬけ」な事をしたことは無駄ではなかった、これでよかった♪のだ、と思った。
 以来、何度か「まぬけ」なことから学びながら、全国1位になれたのは、高3の秋だった。(やれやれでした。)
<対応年代:10代> 

 高校入学後、少しして、時間割に1時間目の前に「0時間目」なるものが出現した。何だこれは!?、と思った。
 この「0時間目」の授業は、いわゆる課外授業(補講)にあたるものだった。
 早速、その「0時間目」のことを家で祖父母に話(夕食時、今日の出来事等を話するのが習慣になっていた。)した。
 すると祖父は、「課外とか受けんでもいいぞ。ばぁちゃんが早く起きないけんようになるしな。」と言った。
 それに対し、「余分に勉強するのいややし、ばぁちゃんのこともその通りやけん、やめとく。」と祖父に返答した。
 祖母は何も言わずに、ただ微笑んでいた。
 翌日、担任の先生に「課外受けないことにしました。祖母を早起きさせるのがちょっとかわいそうだと思ったので。」と話した。
 そう言うと、「お前ならまぁいいか。分かった。」と言って、すんなり課外を受けなくていいことになった。
 実の所、余分にお金を出して、課外を受けられる程の余裕は、祖父母しかいない我が家にはない、というのが実情だった。
 今思えば、学校からの教科書と問題集に亡き父が使っていた参考書等でよく受験勉強ができたな!?、と思う。きっと運が良かったのだろう。
 時々、祖父の知人がやっている本屋さんで立ち読みをさせてもらい、足りない知識等の補充をしたりしていた。(殆どは、好きなものを読んで、というか眺めていたような気がするが。)
 さて、この文章を書き始める少し前に、「あ、そうだったのか。」と思った。
 それは、「0時間目」って必要だったんだ、ということだ。
 教育事業を手がけてきて、本指導(絶対に最初から受講させるべきもの)の前に「0時間目」の前指導を設定しておけば、本指導に遅刻する生徒はほぼいない、ということが実証できたからだ。
 そう、当時の高校もきっと1時間目の授業からきっちり指導できるよう、「0時間目」を設けていたのだろう。
 「0時間目」、受けなかったけど、ありがとう♪
<対応年代:10代~50代> 

 歯の治療に来た歯医者さんの診療台に座り、今日穿いてきたズボンを何気なく眺めて、そういえばこのズボン、大学入学前に買ってもらったものだったよな、と思い出した。
 このズボンは、当時、○○百貨店と呼ばれていた所で、初めてオーダーメイドでこしらえてもらったものだった。
 大学時代はもったいなくて中々穿けなかったこのズボンも歳を重ねるにつれ、穿けるようになったのだが、中年太りにより穿けなくなってしまっていた。
 が、運良くダイエットに成功し、また穿くことができるようになった。その時は、実に嬉しかった♪
 もう35年も前になるこのズボンを私はまだ穿いている、というより、穿けるのである。
 いいものは末永く使える見本のようなこのズボンを見て、デジタル主流の時代の中、アナログでも生き残っていけるのだとズボンから教えられたような気がした。
 世の中は、今後ますますデジタル化へと向かうに違いない。
 その事を否定はしないが、そんな中、アナログ的なものを残せたらいいのではないか!?、と思っているのは、私一人ではないのではないだろうか。 
 教育を通してこの「ズボン」のような人材を育てられたら幸いである☆
<対応年代:10代~50代> 

 字を読むってことは、自分には結構骨のおれることである。子供の頃から眼もあんまりよくなかったし、加えて近頃は老眼もあって、字を読むことが減ったような気がしている。
 一人暮らしをするようになった大学生から新聞というものを殆ど読んだことがない。それは今も続いている。
 京都から戻って来たとき、友人から「日経新聞を毎日きちんと読んで、ゆったりした時間に地方紙(西日本新聞)を読むようにしたらいい。」、と言われたことがあった。
 その友人は、私のことを理解してくれている数少ない友の一人なのだが、その助言には従うことはなかった。
 幼い頃から自分の感覚(直感)と、人の話を直接聞くことで生きてきた身としては、新聞はそぐわない、と判断したからだ。それにもう10年以上読んでいなかったし、今更新聞はないなぁ、と思った。
 育ててくれた祖父は物知りだった。その祖父がよく口にしていたことの一つに「自分の目で確かめるまで鵜呑みにするな。」、というのがあった。
 自分の目で確かめる、というのは、そうたやすいことではない。
 だからそれを補うために、ダイレクトにそのことについて聞けるチャンネル作りに努めてきた。そう、人とのネットワークである。
 それは、立派な文字になった情報よりもうんと役に立つし、何より、自分の側にたった話を聞けるのがよい。
 そして、それらを通して感覚(直感)を研ぎ澄まして「感じる」のである。今自身はどうあるべきなのか!?
 21世紀、前世紀では「感じる」ことのできなかったこれからの未来に繋がるものを感じていきたい。
<対応年代:幼少~50代> 

 幼稚園児の手を引いて歩く母親が、「車が通って危ないから内側を歩きなさいって!!」、と何度も言うのだが、その子はいっこうに構わず、といった様子であった。
 そのやり取りを見て、思い出したことを含めて今回は綴ることにしたい。
 祖父は厳しかった。今、思えば、ありがたかったのだが。
 そんな祖父から幼い頃からよく、「弱虫と言われてもいいからいつも慎重でいなさい。」、と言われていた。
 そしてそれを身をもって示してくれたのが、祖母であった。祖母は、言葉にだすことなく、自然とそうなるように私を導くのが旨い人であった。
 祖母と買い物に出かけた際、道路では、車側からかなり内側(他の人と比べて)を一緒に歩いていた。(歩かされていたのかもしれないが。)
 このことが、大人になって自身の身を守ってくれることになった。
 京都から九州福岡に戻る前日、大通りに面した道路の横断歩道で信号待ちしていた時、大型トラックが運転を誤って、信号機の電柱に突っ込んできた。
 私より前に立っていた女子学生2名が衝突の風圧でバタンと倒れたのである。人間がいとも簡単に前のめりに倒れてしまった。
 その瞬間、ビックリするのと同時に、「あぁ」、と思った。人よりいつも「一歩引いて」横断歩道に立つことで事故に巻き込まれることなく助かったのだ、と。
 20代最後の年のこの経験をもって、私は、祖父の言っていたことがよく分かり、祖母が身につけさせてくれたことに感謝できたのである。
 京都から戻った私は、そのことを肝に銘じて、どこまでも慎重に生きてきたような気がしている。端から見たら臆病にみえるようなことも多々あったに違いない。
 慎重に生きるということは、なるべく人に迷惑をかけずに済むことになるだろうし、人に迷惑をかけずに済む、ということは、自由(ノンビリとした心持ち)でいられる、ということに通じていくのではないだろうか!?
 祖父母の教えを守り、自分を信頼してくれる人の役に立つためにも「一歩引いて」これからも生きていきたい。
<対応年代:幼少~50代>