字を読むってことは、自分には結構骨のおれることである。子供の頃から眼もあんまりよくなかったし、加えて近頃は老眼もあって、字を読むことが減ったような気がしている。
一人暮らしをするようになった大学生から新聞というものを殆ど読んだことがない。それは今も続いている。
京都から戻って来たとき、友人から「日経新聞を毎日きちんと読んで、ゆったりした時間に地方紙(西日本新聞)を読むようにしたらいい。」、と言われたことがあった。
その友人は、私のことを理解してくれている数少ない友の一人なのだが、その助言には従うことはなかった。
幼い頃から自分の感覚(直感)と、人の話を直接聞くことで生きてきた身としては、新聞はそぐわない、と判断したからだ。それにもう10年以上読んでいなかったし、今更新聞はないなぁ、と思った。
育ててくれた祖父は物知りだった。その祖父がよく口にしていたことの一つに「自分の目で確かめるまで鵜呑みにするな。」、というのがあった。
自分の目で確かめる、というのは、そうたやすいことではない。
だからそれを補うために、ダイレクトにそのことについて聞けるチャンネル作りに努めてきた。そう、人とのネットワークである。
それは、立派な文字になった情報よりもうんと役に立つし、何より、自分の側にたった話を聞けるのがよい。
そして、それらを通して感覚(直感)を研ぎ澄まして「感じる」のである。今自身はどうあるべきなのか!?
21世紀、前世紀では「感じる」ことのできなかったこれからの未来に繋がるものを感じていきたい。
<対応年代:幼少~50代>
幼稚園児の手を引いて歩く母親が、「車が通って危ないから内側を歩きなさいって!!」、と何度も言うのだが、その子はいっこうに構わず、といった様子であった。
そのやり取りを見て、思い出したことを含めて今回は綴ることにしたい。
祖父は厳しかった。今、思えば、ありがたかったのだが。
そんな祖父から幼い頃からよく、「弱虫と言われてもいいからいつも慎重でいなさい。」、と言われていた。
そしてそれを身をもって示してくれたのが、祖母であった。祖母は、言葉にだすことなく、自然とそうなるように私を導くのが旨い人であった。
祖母と買い物に出かけた際、道路では、車側からかなり内側(他の人と比べて)を一緒に歩いていた。(歩かされていたのかもしれないが。)
このことが、大人になって自身の身を守ってくれることになった。
京都から九州福岡に戻る前日、大通りに面した道路の横断歩道で信号待ちしていた時、大型トラックが運転を誤って、信号機の電柱に突っ込んできた。
私より前に立っていた女子学生2名が衝突の風圧でバタンと倒れたのである。人間がいとも簡単に前のめりに倒れてしまった。
その瞬間、ビックリするのと同時に、「あぁ」、と思った。人よりいつも「一歩引いて」横断歩道に立つことで事故に巻き込まれることなく助かったのだ、と。
20代最後の年のこの経験をもって、私は、祖父の言っていたことがよく分かり、祖母が身につけさせてくれたことに感謝できたのである。
京都から戻った私は、そのことを肝に銘じて、どこまでも慎重に生きてきたような気がしている。端から見たら臆病にみえるようなことも多々あったに違いない。
慎重に生きるということは、なるべく人に迷惑をかけずに済むことになるだろうし、人に迷惑をかけずに済む、ということは、自由(ノンビリとした心持ち)でいられる、ということに通じていくのではないだろうか!?
祖父母の教えを守り、自分を信頼してくれる人の役に立つためにも「一歩引いて」これからも生きていきたい。
<対応年代:幼少~50代>
お散歩に行く公園でメイン遊具とは少し離れた場所に「滑り台」が置いてある。その「滑り台」を見た時、「あぁ、そうだよな。」と思った。
そんなふうに思ったのは、これまでの自身の身の置き方と同じように感じたからである。
私は、小さい頃から常に一歩引いて生きてきた。祖父の影響もあったとは思うが、その方が性に合っていたからだ。
中学生の時、生徒会長選出においては、自身では立候補せず、陰に回って自分のことを頼りに思ってくれている友達を当選させることに努めた。
裏方という役割は、割にあわないと思われがちのような気がする。表舞台に立ち日の目を見ることはないからかもしれない。
しかし、自分は裏方が好きだ。なぜなら、裏方は、神輿を担ぐ脇役と、神輿に乗る主役をコーディネートすることができるからだ。
そんな私が得た適職は、最前線の社長職ではなく、オーナーという立場で経営に携わることであった。
50歳になる年にある契約解除(解任)を契機に実務から退くことになってしまい、さすがに当初(後5年は実務にも携わっておこう、と考えていた。)は、身の処し方に窮したが、その後、健康的に日々を過ごせるようになっていく中で、これで良かったのだ、と思えるようになった。
そして、一段高い所から物事(自社)に必要な判断を下すことができるようになった。
人は、望むと望まないとに関わらず、落ち着くところに落ち着いていくのではないだろうか!?
だから焦る事無く、今の自分に与えられた役割をコツコツこなしていけば、未来はきっと切り開かれていくに違いない。
メイン遊具ではなくなったあの公園の「滑り台」のように、ほのぼのとした存在で、残りの人生を過ごしていきたい☆
<対応年代:40~50代>
祖父と父のかつて通った高校(祖父の時代は中学校)に自分も同じように通っていた。今回はその高校での3年2学期の出来事を綴ることにしたい。
一応、地元の進学校だったので、高3の2学期ともなると、大学受験に向けて皆が頑張るようになっていた。
そんな中、中々人の言った通り受験勉強のできない私は、自分流でやっていた。
その自分流で、校内模試の国語と世界史各1問、学年で自分だけ正解できたことで、やっと自分のやり方(特に参考書もなく、学校でもらった教科書や問題集だけで繰り返し勉強していた方法)でいいんだ、と思えるようになった。
その後、進路についての最終面談で、いろいろな意味でお世話になってきた担任から、「日本の大学ならどこでも行けるぞ、女子大以外ならな(笑)。」、と言われた時は嬉しかった。
そしてその先生の計らいで、私は「0番(1番の上、という意味)」、という学年順位をもらった。最後の校内模試で、ダントツ、ぶっちぎりの得点だったことで、先生のユーモアも交えて成績表に「0」と書いてあったのだ。
生徒に配布される成績の度数分布表からも消えていたことで、クラスの友達が、「○○の成績がない、なんで!?」、と言い合っていた。
そんなクラスメイトの言葉を聞きながら、自分流を貫き通すことで、私はついに「ない」、という超越した存在になれたような気がしたと同時に、学校(先生方)が本当に自分のことを認めてくれたのだ、と実感した。
人と同じようにできなくてもコツコツたゆみなく努力することができれば、やがてそれは、自分流となり、必ず認めてもらえる時がくると。
<対応年代:10代>
父母に代わって自分を育ててくれた祖父母が亡くなってからもうだいぶ経ったなぁ、と何気なく思うことがあった。
平凡だが、健康に気をつけて毎日、明るく、元気に過ごすことが、今の私のモットーである。
29歳になる年に祖父を亡くし、その後、30歳になる前に祖母も亡くなってしまった。仲良く二人とも他界してしまった。
身内のいなくなった私にとって、自分を鍛える意味では良かったが、いつ如何なる時も甘えは許されなかった。
まぁ、失敗もしつつ、何とかやってこれたのは、若輩者だった私を支えてくれた方々があったればこそだ。きっと運が良かったのだろう。
今思い返すに、祖父母から自身が受け継いだものは何だったのだろうか!?、と、自問自答してみた。
その答えであるが、人生を半世紀過ぎたからこそ分かってきたのかもしれない。そう、「ひっそりと」生きる、ということを。
平凡な日々を静かに過ごしていくことは、たやすいことではない、と実感している。それを見事に実践していた祖父母はたいしたものだ、と思う。
まだ若かった頃には、祖父母のそういった生き方をあまり理解できていなかった。だが、今はその気持ちが良く分かるようになった。
端から見たら、何が面白くてあんな人生を歩んでいるのか!?、と思われるかも知れないが、私も残りの人生を祖父母のように過ごせていけたら幸いである♪
ところで、「ひっそりと」生きる、ということを可能たらしめるものは一体何であろうか?それは、経済的自立(自由)を得ることではなかろうか。
そして、経済的自立(自由)を得ることは、何も資本家にならなくてもなしえるのだ、ということを祖父母は身をもって示してくれた。
そのおかげで不安定になりつつある昨今においても「ひっそりと」生きる、ということができているような気がしている。
祖父母がそうであったように、我が子孫(意志を継ぐ者)に対しても数え歳が30になるまでは生き、「ひっそりと」生きる、ということをしっかり伝えていきたい☆
<対応年代:50代>
私には幼少時の頃の写真が殆どない。祖父母が写真、というものをあまり好ましいものと思っていなかったが故のことである。
しかるに、その影響を少なからず受けた小生も写真は苦手である。今回はそんな写真に対する回想、としたい。
物心ついた頃だと思うが、祖父はたいそう立派な写真機=カメラを持っていたようだ。
高所恐怖症になってしまった私を○○大橋の有る場所に立たせて、ポーズを取らされたのを今でもはっきり覚えている。
が、のちになって分かったのだが、祖父はフィルムを入れずにそのカメラを利用していた。
カメラを使って、いくら「カシャ・カシャ」やってもフィルムが入っていないので、写真にはならない。
小学生になった頃祖父に、「じいちゃんはどうして他の人のようにカメラにフィルムを入れて写真にせんと!?。」、と聞いたことがあった。
祖父は、「フィルムを入れて写真を撮ったら魂を吸い取られてしまうぞ。怖いからな。」、と笑いながら言った。
「はぁ!?、そんなことがあると!?。だったらみんな魂を吸い取られようと!?。」と半信半疑で私は祖父に言い返した。
すると祖父は、「ばあちゃんに後は聞いとけ。」、と言って寝てしまった。
しょうがないなぁ、と思い、祖母に同様の質問をした。
祖母は、「カメラで写真を撮ることは簡単やろ。写真にしておけば後で見ることもできるし、他の人にも見せられるし、便利やね。でもね、写真のなかった時代は、その大切な瞬間を心にぐっと留めるようにしてきたんやね、じいちゃんもばぁちゃんも。」、と答えてくれた。
あまり喋ることのない祖母は、それ以上のことはもう何も言わなかった。
祖母の含みの言葉に思いを巡らした末、私は、「そうなんだ☆」、と心の中でつぶやいた。
祖父は、フィルムの入っていないカメラのシャッターを切る時、同時に「心のシャッター」も切っていたんだ。「心のシャッター」を切ることで、思い出の一コマ一コマは、祖父の心の奥深い所に大切にしまわれているんだ、そうだったんだ、と小さいながら納得した。
以来、私も「心のシャッター」を時折切るようになった。自然とふれた時、あるいは、ある感動する場面に出くわした時、私はカメラのシャッターよりも「心のシャッター」を優先的に切ってしまう。
祖父母が生きていた頃よりもはるかに記録に残すことが簡単にできるようになった時代ではあるが、私は「古い人間」なのかもしれないが、祖父母が大切にした「心のシャッター」をこれからも持ち続けていたい!
<対応年代:幼少~50代>
「それでは○○に答えてもらおう。」、この言葉を何度高校生の時言われたことか。今回は、高校時の勉強にまつわる出来事を綴ることにしたい。
中3の夏休みから高校数学を勉強し始め、その後順調に学習して、高1の夏休み中に高校数学の内容を一通り終えることができた。
当時、数学は面白いくらい頭に入ったのを覚えている。それは、数学を学ぶことが楽しかったからだと思う。
が、学校での数学授業では、というと、反対に面白くなかった。というか、少し苦痛に思えた。
というのも、先生が、「これでいいかな!?」、などと度々聞いてきて、常に先生の板書をチェックしていなければなかなかったからだ。
そんな中、高1の2学期からは、化学の勉強にかなり集中して取り組んでいった。化学の先生は、国立大学の助教授だった人で、今迄受けた授業とは違うな、と感じさせられることが多々あった。
化学の授業では、先生からの質問に答えられなければ立たされ、その後誰かがその質問に正解できない限り、ずっと立たされっぱなし、という状態だった。
私の答える番は、いつも最後、クラスの残り全員が立たされた時で、私が答えられれば、クラスのみんなが座れるが、答えられなければ、授業の終わりまで全員立ちっぱなし、というものだった。
ありがたいことに、質問は、私には一応答えうるものであったので、クラス全員立ちっぱなし、という状況にせずに済んだ。クラスの何人かからは、「助かるよ、ありがとね。」、などと言われた。
今思えば、英語や国語でも難しい質問は、いつも自分が答えさせられていたし、体育の授業中も英語で答えさえられたこともあった。ヤレヤレである。
でもそれは、先生方がひとえに、私を鍛えんがためのものであったのだろう、と思う。そうでないと、授業中「ボー」っとしていたに違いないからである。
祖父・父と学んだ学校に行けて良かったと思っている。授業中は緊張感を持って集中しておかなければならなかったが、それ以外は、本当に自由にさせてくれた高校である。
高2になってからは、物理って面白いなぁ(教えてくれる先生が良い面で変わっていたことが功を奏した。)、ってことで、グングン勉強した。
物理が一段落した後は、世界史にはまってしまった。教えてくれた先生の影響もあって、フランス革命を自分なりにじっくり勉強して、レポートにまとめて先生に提出した。
そして高校生活最後の夏休みは、受験勉強だけやってても面白くなかったので、ナウマン象のことを勉強した。
何故、ナウマン象、かというと、理科の先生の一人からナウマン象の話を聞いたことがきっかけとなって、自身で調べたくなったためである。
ナウマン象について調べ、レポート作成していくことは、小学校時の夏休みの自由研究みたいで実に楽しかった♪
家(祖父)の方針で、私は課外授業に行くことはしていなかったので、レポート作成時間は十分に持つことができた。
端から見れば、直接、受験には役立ちそうもないことをやっているように思われたかもしれないが、それ=その思考方法が今の私をささえていてくれる!
「急がば回れ」、祖父が時々私に何気なく言っていたことの意味が、今はよ~く分かる気がする。これからもノンビリ、されど確実に残りの人生を送っていきたい☆
<対応年代:10代>
プライーベートでの利用車輌を軽キャンパー(と言っても普通車登録)にしてから4年が過ぎた。
この車輌には、「Semiry45」と名付けた。
そんな「Semiry45」であるが、なんと、総重量が1.5トン以上もある。それを660ccのエンジンで動かす訳だから、ノーマルな走行環境では、とてもまともに走れない。
それで、乗り始めて1年経った頃から、走行環境の改善に取り組むようになった。
いろいろなことがあったが、そんな中、「合金アース線」(オリジナル)を装着、リードジャパン製の「EMS」を装着、そしてその流れで「FFBマフラー」を装着した。
「合金アース線」は非力で重たい車には効果があるので、「Semiry45」にもO.Kのものであった。
「EMS」を装着後は、著しい走行環境の改善が見受けられた。これは、お世話になっている自動車整備工場も認める所であった。
「FFBマフラー」は特許製品で、マフラー代を全額チャリティーの募金にあてる、とのことだったので、購入し、装着した。
が、今一、走行環境が改善されたかどうか、自分にはあまり体感できなかった。ノーマルマフラーの時の方が、「EMS」の効果をより体感できていたように思えたからだ。
それで、吸気・排気の仕組み=空気の流れを『自分なり』に学ぼうと思い、勉強していった。
そして、ついに『自分なり』に納得のいく、ベストの走りを手に入れることができた☆
つまり、吸気環境改善にあたっては、オリジナル(オンリー ワン)で、端(車関係者)からみたら、「なんだ!?」、と思われるに違いない仕組みになった。
でもそれでもいい、と思っている。走行環境は、本当に改善されたのだから。
吸気と排気のバランスがベストマッチングしたような走りを体感することができるようになったことは、嬉しい限りだ♪
思えば、小さい頃から人と中々同じようなことができなかった自分にとっては、今も『自分なり』にしかできないようだ。
以前、『自分なり』に物理学をやっていたのだが、やっていてよかったなぁ、とつくずく思った。そのベースがあったからこそ、今回の『自分なり』へとたどり着くことができた。
『自分なり』、これからも大切にしていきたい!
<対応年代:40~50代>
人生には節目、というものがあるように思える。私の場合で考えるに、30歳前と50歳前がそれにあたる。
30歳を前にして「零からビジネス」を始めねばならなくなった時は、何も考えずにただひたすら「がむしゃら」に頑張ることで道は自ずと開いていってくれた。ありがたいことであった♪
そんな中、10年が過ぎ、あれよ、という間に20年が経過し、私も50歳を向かえる年になっていた。
自らがまねいてしまった結果であるが、「解任」、というものをくらい、自身の予定よりも随分早く、「セミリタイア」の人生を送ることとなってしまった。
さすがの私も3ヶ月近く、「なんなのかぁ、今の状況は!?」、と混迷していた。
が、気持ちを切り替え、「健康のために過ごそう!」、と、これまで一度もやったことのなかった「速歩によるお散歩」をし始めた。
思考錯誤の上、片道3.5km、折り返し場所を図書館、その図書館で休息を兼ねて読書をし、往復7km、をお散歩するようにした。
完全にリタイアした訳ではないので、毎日必ずお散歩できるとは限らないが、なるべく勝ち越し=週4日はお散歩できるよう、心がけてきた☆
お散歩のおかげで、体重も減少し、お腹周りもスッキリとなった。(20代の頃の胴回りに戻ったことは、実に嬉しいことだった(^o^))
あれから1年、今思うことは、もしあのまま「解任」されずにいたら、私は「不健康」そののもだったに違いない、ということだ。
そして、お散歩を通して新たに見ることのできたものもあり、それが「今後のビジネスチャンス」にも繋がろうとしているのは喜ばしいことである(^_^)v
そう、このような人生を過ごせていることに大いに感謝し、残りの人生を私のことを信じてくれる僅かな人のために役立てられるよう、努めていかなければ、と、今日もお散歩しながら考えていた。
「良かったと思う」、今の我が人生。
<対応年代:50代>
子供の頃、数学の別解を考えるのが好きだった。模範解答ではなく自分で考えた末、解法を導き出すことは、結果的には数学の力=考えることを大いに身につけるのに役立っていたと思う。
もちろん、考えた末、模範解答が一番いい解法である、という結果に到り、別解を考えなくてもよかったな、と思うことも度々あった。
大人になり数学の問題を考えることはなくなったのだが、この別解を考える、という思考パターンがひょんなことで効を奏することになった。
利用中の外車の故障=走行不調の修理にあたり、お世話になっている車屋さん、他車業界の知人から示された故障原因は、どれも同じ=模範解答的なものだった。
が、どうも自分自身はしっつくりいかない=十分に納得できるものではなかった。
それで、自分なりに利用している外車に絞って考えるのではなく、もっと広く、車全般=前世紀的発想で故障原因を考えてみることにした。
そしてある解答=原因、に到った。例えて言うなら、虫歯で痛い時に本当に痛い所ではない所を勘違いして痛い、と思ってしまうことがあるようなものである。
さて、その結果であるが、みごと「的中」、ということになった。良かった、と思うとともに、自身で考えることの大切さを改めて感じた。
走行不調はようやくおさまり、以前の快適な走りに戻ってくれた♪
21世紀になり、車はもはや「電子制御カー」、となる一方だと思う。それは、車の故障が分かりづらくなっていくことを示していると思う。
だから、自身の利用車輌においては、今迄の模範解答的なサポートだけでは対応できなかったのである。
故障の原因を突き詰められたのは、「あっ」、とふと思った「気づき」にほかならない。
それは、別解を考える時と同じような感覚のものだ。
今回も何気なく思いついたこと=「気づき」は馬鹿にできないものであった。
人と少しだけ違う考え方を持てていることに感謝し、これからも「気づき」を持てるように努力していきたい☆
<対応年代:50代>