**我が人生の旅路** -3ページ目

**我が人生の旅路**

                     英 満(はなぶさ みつる)

 祖母が買ってくれた2合炊きの小さい炊飯器を大学生活から使い始めた。今回はその「小さなやつ」との思い出を綴ることにしたい。
 京都での一人暮らし、祖父母にはなるべく金銭的な迷惑はかけまいと思い、できるだけ外食はせず、「小さなやつ」でご飯を炊いて食べることにしていた。
 ご飯など炊いたことはなかったのだが、自分でご飯を炊いて食べるのは案外楽しいものであった。
 「小さなやつ」で炊けたご飯をすぐ茶碗についで「ホクホク」しながら食べる時、おかしいかもしれないが、幸せを感じていた♪
 白飯のおかずは、シーチキン缶詰やシャウエッセンのソーセージ等の一品しかなかったが、当時の私にはそれで十分であった。
 大学に行くことを許してくれた祖父には奨学金(無利息or支給)をもらうことで授業料他の負担をかけないようにし、一人暮らしでの生活面で気を使って時々何か送ってくる祖母には感謝の気持ちを忘れないようにしていた。
 そして「小さなやつ」はいつも私に「頑張れ!」、と美味しいご飯を炊き続けてくれていた☆
 当時、バブル期の多くの学生が経験したような学生生活(それなりにリッチで楽しい。)はおくれなかったかもしれないが、自分なりに充実した毎日を過ごすことができたと思っている。
 それは、学問、というものにふれることができ、それに集中することができたからだ。おかげで大学院にも進学することができた(^_^)v
 あの時代が私を強くし、その礎の上に今の私がある。「考える力」、というものを鍛えることができたのは、きっと白飯オンリーの贅沢のできない生活があったればこそだ(笑)
 今思えば、祖父母は私に貧しいが故の生活をさせていたのではなく、豊かになっても「慎ましく生きていける」ようにしてくれていたのだ、と。
 祖父母の意思をしっかり引き継ぎ、教育の場で生かしていきたい!!
<対応年代:10代~20代> 

 中3生になった。いわゆる受験生だ。そんな事は全く気にせずに過ごしていたのだが、世の中、そんなに甘いものではなかったのである。
 中学校では実力テストなるものが中間・期末テストの合間をぬって実施されることになっていて、そのために勉強する教材=「5教科のまとめ」をドサッと渡された。
 こんなのせないかんのかなぁ、と思いつつ、家に帰って祖父に尋ねてみた。私は祖父に「ねぇじいちゃん、実力テストのための勉強とかせないかんのかねぇ。何かそのための教材をもらったんやけど。」、と言った。
 すると祖父は、「その教材で勉強した内容から実力テストの問題が出るんやったら本当の実力は分からんのやないか!?」、と答えた。
 ごもっとも、と思い、もらった教材で勉強することはしないようにしよう、と決めた。
 その日、勉強机の右端に教材を横にねかせて置いた。使うことがないので横にしておこう、と思ってのことだ。
 一学期が過ぎるのはあっという間だった。夏休みに入ってもクラブ活動の大会が終わる迄は忙しかった。
 が、クラブ活動をしなくなった後、時間ができた。いよいよ受験生の夏休み、といった感じがしていた。
 みなのように塾に行っていなかった私には学校からもらった教科書・問題集以外には何もなかった。
 そんな中、「5教科のまとめ」なるものが机に横たわっていることを再認識した。
 しかし、これは「やらん」、と決めたものだから、何かせないかん、と、ちとあせり始めていた。
 その様子をひそかにうかがっていたのか、祖父が、「これしてみらんか。退屈しのぎには丁度いいやろう。」、と言って、一冊本をくれた。
 それは、数Ⅰ(高校生用)の参考書だった。
 「なんで??」、と思ったが、「まぁ、いいか。」、と思い直し、その参考書を読破=理解することに決めた。
 さて、やり始めると、以外や以外、結構面白いことが分かった。「ふん、なるほどね。」、という感じで中学校の数学の内容より分かり安いので、どんどん先に進めていくことができた☆
 私の残りの夏休みは、そう、この「数Ⅰ」をやりあげることのみに費やした、といっていいだろう。(午後、祖父のすすめで運動不足にならぬようプールにだけは行くようにしていた。)
 そんなこんなで集中してやったおかげもあって、無事にやり終えることができた(^_^)v もっとも今思えば、一通りやった、というレベルではあったのだが。
 祖父は性格上、「5教科のまとめ」をしない私に対して、やらせるものを選んでくれたのであった。(中2の時のうさぎの本のように。)
 あれもこれも満遍なくできぬ私に祖父は集中できるものを今回も与えてくれた。おかげで数学が随分好きになった。
 その後二学期になっても数学の勉強を続けた。そして、高校数学の内容を終えるのには翌年の夏の終わりまでかかった。
 ところで、夏休み明けの実力テストは文字通り実力で乗り切った。運良く問題が解けて、200点満点中、4点のミスで済んだ(^o^)
 私は受験生としては失格者に違いなかった。でも、その『代わりに』それで良かったんだ、と思えるオンリーワンの15歳を過ごすことができた♪
<対応年代:10代> 

 小学校低学年の頃、TVで放送されたアニメ等の人気キャラクターのカード集めが流行ったことがあった。
 カードはスナック・ガムなどのお菓子類のおまけとしてもついていた。
 近所に「駄菓子屋」なるものが当時あって、そこではカードのみの販売もしていた。
 そのカードのみのカード集めを自分もやりたかったのだが、祖父は認めてくれようとはしなかった。
 お菓子類についているカードは、「おまけ」なので、そのカードについてはまだしも、ただ「カード」だけをお金を出して買う、ということについて祖父は理解してくれなかった。
 友達はカードを既に結構買っていたので、自分も何とかカードを買いたい、買えないものか!?、と、子供ながらに思い悩んでいた。
 「駄菓子屋」で友達がカードを買い、カードの入った紙袋をビリビリ破ってカードを取り出して、「またハズレた★」、と毎度のように言うようになっていた。
 友達がそう言うようになったのは、カードには当たり=ラッキーカード、というのがあって、それを引き当てたらカードホルダー=アルバムがもらえるので、友達はそれをもらうためにカードを買うのだが、まだ一度もラッキーカードを引き当てることができずにいたからである。
 そんな中、「そういえば、ばぁちゃんが確かお茶漬けのカードでラッキーカードをだして、東海道五十三次のアルバムをもらっていたよなぁ。」と、ふと思った。そして、「これだ!」、とひらめいた☆
 夕食時祖父に「ばぁちゃんが東海道五十三次のアルバムを貰ったように、友達の誰もまだ貰っていないアルバムのラッキーカードを引きたいのでカードを買わせて欲しい、お願いします。」、と言った。
 すると祖父は、「そんなら10円やるけ、一発で当ててこい。」と言い、夕食後10円をくれた。
 カード代は1枚当時10円だった。たった10円しかもらえなかったが、結構嬉しかった♪
 翌日「駄菓子屋」に行こうとした時、祖母が「ハズレたらもう1回がんばり!」と言って、もう10円持たせてくれた。
 もう10円もらえたのでルンルン気分になって「駄菓子屋」に行くことができた。
 「駄菓子屋」で10円払い、初めてカードを選び取った。そして気持ちを込めて紙袋を破いた。
 結果は、○=カード裏に「ラッキーカード」と赤文字で大きく書かれたカードを引き当てることに見事に成功したのであった(^_^)v
 これは、ひとえに運が良かったからに違いない。既にかなりの枚数が買われ、それが全て「ハズレ」、であったので、そろそろ当たり=「ラッキーカード」がでてもおかしくなかったのだろう。
 今思えば、祖父が時期=タイミングを見計らって私を「駄菓子屋」に行かせてくれたのでは!?、と思えてならない。
 なぜなら、1枚のカード代金が10円であったことを祖父は知っていたからだ。
 これも祖父なりの愛情=教育、であったのだろうか!?
 何事も慌てずにじっくり構えて事にあたることの大切さ(時期=タイミングさえ間違えなければ「運」がきっと見方してくれること。)を今は熟知しているつもりである。
 その後、祖母のおかげで、スナック・ガムの二つについても一発でラッキーカードを引き当てることができた。万歳、万歳!!
<対応年代:幼少> 

 人と話をすることは「楽しい」と思う。今の私はよく喋る。
 しかし、子供時分から学生時代にかけての私は「無口」であった。今の私からは考えられない(笑)人は変わるものだ、と。
 祖父母との生活の中、二人は無口であった。とりわけ祖母は殆ど話をすることがなかった。
 そんな生活環境だったせいもあって、私も知らず知らずのうちに無口になっていたのではないか!?、と思われる。
 子供ながらに祖父母が何を今考えているか、言葉としては聞けない「心の声」を聞くように心がけていったような気がする。
 自身の心を静かにして、祖父母の気持ちに心を傾けることによってその「心の声」を受け止めることができていたと思う。
 祖父が他界する時もその「心の声」を受け止め京都から戻り、その後、祖母が他界する時も同様にその「心の声」を受け止めて生きてきたつもりである。
 身内をなくし社会人なった私にとって「無口」からの脱却は必要不可欠のなにものでもなかった。
 話をする、ということは、生きていく上で大切なことだと思えてならない。
 が、表面的な会話がそれほど大切だとは自身は思わない。その奥にある言葉にはならない「心の声」をいかに聞き、それに対し何気なく応えるか、が真に大切だと。
 言葉巧みな話術ではない、素朴でもその相手に対して「心の声」をくみ取った的確な表現ができれば、双方の人間関係は「good!」な状態を保つことができるのではないだろうか!?
 父母の顔を覚えていない私に祖父母はいつも「心の声」を与えてくれていたに違いない。そのおかげで今の私は助けられている。なぜなら、教育の現場で生徒の「心の声」を大いに感じることができるから☆
 じいちゃん、ばぁちゃん、ありがとう!
<対応年代:幼少~40代> 

 経営に携わるようになって自身の行動で増えたことがある。それは「お詫び」をする、ということである。
 様々な環境下において行き違いや誤解が生じることは多々ある。ましてやそれがビジネスの世界ともなるとなおさらのことである。
 お互いに利益を追求していくのだから一歩も譲れないことが起こってしまうことがある。
 その時たとえ自身が正しい、と思っても謝らないといけない状況下におかれてしまう場合がある。
 そんな状況下でムクムクと邪魔をするやっかいな代物が登場する。それは「プライド」である。
 私の知る限りある程度の知的レベルの方はこのプライドが妙に高い気がする。
 その高いプライド故に結局はその身に不利益な結果をもたらしてしまうことになり、端から見ると「ただ損をしただけ。」のように感じてしまう。
 今思うに、私にはそのプライドというやっかいな代物が殆どないようである。
 いつもまずは「お詫び」しよう!、後のことはそれからだ、と思い行動している次第だ。
 そのおかげかどうかはさだかでないが、これまで幾たびとなくピンチを切り抜けてこれたのが実感である。
 お怒りのクライアントに対してはすばやく訪問し何度も何度も「お詫び」をする。(一度の訪問で会ってもらえない場合には二度三度と訪問し、会ってもらえるようになるまで頑張るのみである。)
 そして「お詫び」をする内に先方の応対に変化の兆しが現れ、やがてそれは次第に「もう分かったから今後も宜しく。」のようなことで何とかおさまる方向に向かうのであった。ありがたいことである。
 今21世紀においては知的レベルの高い人がこの日本においては数多く存在するのであろう。
 しかし、うんと知的レベルの高い=本当に知的レベルの高い人であれば「プライド」なるものをそっと後ろに隠し、頭を垂れ、「お詫び」をすることができるに違いない。
 亡き祖父に改めて感謝している。それは、厳しく育てられた中に人としてどうあるべきか!?、ということを教えてくれたから☆
 未来を担う世代に教育というフイールドを通して「お詫び」のできる、そんな人づくりに貢献していきたい♪
<対応年代:40代> 

 幼少時、祖母の隣で寝ていた。今回はその寝床でのエピソードを綴りたい。
 ある日の夜、中々眠れないので、祖母に「なんか寝られん。」とつぶやいた。
 すると祖母は、「そんなら目をつぶって羊さんを心の中で数えたらいいよ。」と私にこたえてくれた。
 「ふ~ん。」と私は何気に返事をして祖母の言われた通り羊くんを数え始めた。
 「一匹、二匹、…。」と心の中で数え始めたのはいいのであるが、羊くんを囲む「おり」を作らないといけない、と思った。
 それで、「おり」のことをあれこれ考えてやっと「おり」ができた。
 さっきまで数えていた羊くんは当然のことながらこの「おり」にはまだ入ってないので、最初からまた数え始めることになった。
 「一匹、二匹、…、…、…、~。」と数えていったのであるが眠くなるどころかますます目がさえていくのを覚えた。
 が、祖母が言ったのだから、とさらに数え続けた。
 するとどうであろう。500匹を超えてしまった。こりゃいかん、羊くんが「おり」に入らなくなってしまった。別の「おり」を作らないと、などと考えていた。
 ちらっと横を見ると、祖母はもう寝ているようであった。
 仕方なしに私は「おり」を増やして、羊くんをまたまた数え始めた。「501匹、502匹、…、…、…、~。」
 そうこうしている内に頭の中が羊くんだらけになっていた。「999匹、1,000匹」となった時、おもわず「寝られんやんね!!」と横の祖母に叫んでしまっていた☆
 すると祖母は目を覚まして「まだ数えよったんやね」といいながら笑みをうかべた。
 「寝るときは何も考えんで寝ならいかん、そうやろばあちゃん!」と私は、祖母に強く言った。
 「そうかもね。それじゃ、おやすみ。」と言って祖母はまた寝てしまった。私もそれから直に寝てしまっていた。
 祖母はあまり多くを語らない人であった。今思えばこの出来事も私への祖母からの教育であった、と思えるのである。
 それは、①信頼のおける人からの助言には素直に耳を傾け実行すること。②実行するにあたっては、なるべく助言を求めずに自身の創意工夫を施していくこと。③結果=最終決断は、自身の経験を重視し、それに基づくものとすること、といったものではなかろうか☆
 幼い子供の頃は誰でもそうであったに違いないこれらのことが時と共に失われていく近頃の世情のような気がしてならない。
 そう、あまりにも多くの2次的情報とゲーム等によるシュミレーシュン=未体験をあたかも体験したかのごとくしてしまう思考システム化が妨げとなり、「直体験」という本来最も大切なものが阻害されているのではないか!?、と私は考える。
 今思えば、テレビもあまり見せてもらえず、ゲームも殆ど買ってもらえなかったが、そのおかげで別の多くの体験=「直体験」をできたのだと思っている。目を閉じるとまぶたの奥に今日も祖母が微笑んでいる♪
<対応年代:幼少> 

 京都の夏は暑い!、と祖父から聞かされていた私は、夏休みが始まると同時に帰省した。19の夏のことである。
 実家に戻った時、わずかな間しか留守にしていなかったはずなのに、妙に懐かしく思えた。このことは、誰しも同じような経験があるのではないだろうか。
 帰省したその日の夜は、祖父母に京都での学生生活についていろいろ話をした。祖父も学生時代は京都で過ごしていたので、「○○の所は今はどうなっている!?」といった祖父の質問に答えたりした。
 その翌日だったと思う。2階にいる私の所に祖母がうんと冷えたスイカを持ってきてくれた。小さかった頃、祖母と買い物に行くと夏場はよくスイカを持たされたものだ。ポンポンとスイカを軽く手でたたいて、買うスイカを祖母は決めていた。
 祖母は私と一緒にスイカを食べながら高校の卒業式に教えてくれた亡き父母のことを話してくれた。あまり詳しいことは聞かずじまいで京都に行ってしまっていた私を気遣って祖母はきっと話をしているに違いない、と思いながら、私は祖母の話を黙って聞いていた。
 父は、俗にいうところの優等生だったらしい。高校の時の通知表を祖母が見せてくれたのであるが、その優等生ぶりが表記されていた。祖母曰く、私は父ではなく祖父に性格が似ているらしい。えっ、そんなことはないやろ!!、と当時は思っていた。
 が、時が経つにつれて、祖母の言ったことは、正しかったのかもな、と思えるようになった。隔世遺伝ということなのだろう(笑)
 通知表には、試験の席次が書かれてあった。1回だけ2番で、残りは1番だった。私がそこを見ているのを察してか、祖母は、「酷い風邪を引いたことがあって、病院で注射をしてもらって試験を受けたことがあってねぇ。その時2番になってしまったんよね。」、と言った。
 「ふ~ん、そうやったんやね。」と私は祖母に言いながら心の中で、「自分やったら学校休んどるね。父はさすが優等生やね。」とつぶやいていた。
 その後祖母は、「○さんは、その点元気やけいいよね。おかげでずっと1番になれたし。」と言って微笑んだ。
 確かに私は1番だったかもしれないが、それは亡き父と母の恩恵が多分にあるからだろうから、父よりよかった、と単純に喜べなかった。
 文章を書いていて思うのは、文学好きのK大文学部卒の亡き母のありがたさであり、交渉事を取りまとめて思うのは、物静かなK大法学部卒の亡き父のありがたさである。
 そう、顔も見たことのない亡き父と母に私はいつも何某らの形で助けられているのである☆ありがたいことである♪
 威厳のあった祖父、そして祖父のまなざしを真摯に受け止め同期トップの最年少で某銀行の支店長になったエリートの父。この二人の「意志を継ぐ者」として私は、『元気なサポーター』になれたら、と思っている。
 『元気なサポーター』とは、自身と関わりのある方に少しでも役立つよう努め、喜んでもらえる人になる、というものである。 
 「意志を継ぐ者」という言葉は、亡き祖父が私を認めてくれた時に言ってくれた、私には忘れることのできない言葉である。
<対応年代:10代~40代> 

 祖父母との三人の食卓、それはいつもいたってシンプルなものであった。
 食事の前には、祖父の話が必ずあって、その話が終わらないとご飯を食べることができなかった。
 今思えば、その後大きくなった私が社会で生きていく上でためになる話をしていてくれていたのであるが、当時の私にとっては、早く終わらないかなぁ、といったしろものの話であった。
 ご飯のおかずは、祖父母が一品で、私はそれにもう一品の二品がおきまりだった。
 いつだったか覚えていないが、祖母に「どうして僕だけおかずがもう一つあるん!?」、と尋ねたことがあった。
 すると祖母は、「○さんは、これから大きくならないかんけ一つ多いと。おじいさんと私はもう大きくならんけ一つでいいと。」、と答えてくれた。
 私は、そうなのか、と納得した。そして、自分もやがて大きくなったらそうしていくんだろうな、と思った。
 両親のいる家庭ではこのような食事環境ではおそらくないのかもしれないが、私にとってはこの環境であったが故に今の自分を構築することができたと思う。
 なぜなら、もし私が他の人と同じような環境であったならば、この歳で今のような生活を送れるようになっていたとは、とうてい思えないからである。
 「粗食」という言葉をあえて使わせてもらえば、私にとっては、「粗食」が普通であり、その生きるに値する食事を美味しいと思えて食べられるように育ててくれた祖父母に感謝している。
 外食など殆どなかったけれど、毎日祖父母の顔を見ながら食事をすることで、私は心の安らぎを得ていたのだと思う。それは、「心の栄養」をそこで十分にとることができていたからではないかと思うからである。
 そう、「心の栄養」はいくら摂りすぎても肥満になることはない、素晴らしいものであり、心は頭へと繋がり、多くの教養というおかずを次々にたいらげていくことを可能たらしめる基になっているに違いない。
 子供の頃から美味しいものをあまり知らず、大人になった後も食べることもなくやり過ごしてきた感はあるが、教養という中々消化しにくい食べ物は、他の人よりは多めに食してきたと思うのである。
 教養というおかずを消化して、「知恵」というエネルギーをこれからも使い、一人でも多くの人に役立てるよう努めていけたら幸いである。
<対応年代:幼少~10代> 

 六歳になる年、幼稚園に通うことになった。1年保育だった。近所の子供は皆、その前年までに幼稚園に通っていた。
 が、私は、幼稚園に行きたくない、と祖父に頼んで、行かずに済ませていた。
 そんな中、祖母が「幼稚園に行ってもらえんかね!?」と時々、私に言っていた。
 そして祖母は、ついに「バスの定期を買ってしまったので、とりあえず、その間だけ幼稚園に行ってくれんね!?」と、私がいやとは言えない状況を作ってきたのであった。
 それで仕方なく、祖母の選んだ幼稚園に行くことにした。そこは、近所のみんなが行く幼稚園ではなかった。
 その幼稚園に初めて行き、園長先生との面接があった。園長先生が、「お名前は!?」と、私に聞いてきた。私は、??、と思った。そして、指をさしながらこう答えた。「そこに書いてあります。」と。
 すると園長先生は、「そうじゃないでしょ、ちゃんと答えなさい!!」と私に言った。祖母は私の直ぐ後ろに座っていたが、私には何も言わなかった。
 以来、園長先生とは、たった1年間という短い期間だったが、度々話をすることになったのである。おそらく、当時の全園児の中では最高回数であったに違いない。
 園長室に呼ばれて行った時、園長先生は、「聖書」の何某かのページを必ず私に朗読させた。私には意味はよく分からなかったが、園長先生の言いたいことは分かるような気がしていた。
 それは、「ここは共同の場だから、それに歩調を合わせて過ごして欲しい。あなたがみんなに合わせるしかないのだから。」、というものだったのではないかと。
 私はいつの間にか、園長室に呼ばれて園長先生と話をするのが楽しみになっていた。行きたくない、と思っていた幼稚園であったが、この「園長室呼び出し」のおかげで、まぁまぁ行けるようになっていたのである。
 6月になった。第3日曜日=父の日参観日で、幼稚園に行った。もちろん、私には、父は既にいなかった。大勢の園児は、自分の父親に手を振ったりしていた。私は、祖父母にこなくてもいいから、と、一人で幼稚園に行っていた。
 参観授業の中で、先生が目を閉じている園児の一人に目隠しをして、手拍子をする父親の所に行く、というものがあった。
 何番目だったろう。私が目隠しをされたのである。私はとっさに先生に小さい声で、「僕の家は誰も来ていません。」と言った。
 それを聞いても先生は私の背中を押した。私は手拍子のする方へ歩かざる得なくなってしまった。
 手拍子のする方へ行くと、がばっと私は抱きかかえられたのである。急いで目隠しを取ってみると、見たことのないおじさんが私の頭を撫でてくれていた。
 後に分かったことであるが、そのおじさんは、園長先生のご主人(園のオーナー)だったのである。
 園長先生は、私の家庭環境と、私が祖父母にこなくてもいい、と言って、当日誰もこないことを知り、私の父親代わりになってくれるように、ご主人に頼んでくれていたのであった。
 さらに、園のオーナーと祖父は、実は知り合いだったのである。このことは、だいぶ時間がたってから知ることになったのであるが、そのことに関わるエピソードは、またの機会にしたい。
 「父の日」の思い出は私にはないけれども、父もかつて通った幼稚園で、その父を指導していた園のオーナーの『腕の中』に抱かれることで、私は、間接的に亡き父に触れることができたような気がした。
 園長先生、素敵な「父の日」をどうもありがとうございました♪
<対応年代:幼少> 

 ここ何年間かで、街中に出ることがめっきり少なくなった。たまに街に行かなければならない用件があって、出かけてみると、人の多さもさることながら、そそくさと歩く人々の動きに圧倒されてしまう。
 車での生活が主流となったことに加え、加齢も伴い、てきぱき歩くと足が疲れてしまう。走るなどもっての他である(笑)
 昔は自分もあんなふうに歩いていたんだな、と街中を歩く人たちを見て思ったことがある。若い頃は、信号がずっと青だったら、すいすい歩けて便利なのに、とよく思っていた。
 ところが今はどうかというと、適度に信号が赤になってくれるおかげで足を休めることができる、と反対のことを考えるようになった。不思議なものだ。
 不思議と言えば、子供時分、まさか今のような生活を送れるようになるとは、夢にも思っていなかった。昨年から下が自宅で、上が事務所という自分にとっては、理想の生活環境で過ごせている。ありがたい限りだ(^_^)v
 振り返ってみると、私の前には、いくつもの信号が赤で立ちはだかっていたような気がする。その時々の信号に対して、あせらずにマイペースで青になるまで待って、横断していけたことで、大きな失敗もなく無事に過ごせているのではないか、と思うのである。
 赤で一休み、青で無理のない横断、そしてまた次の赤信号で一休み、と、端からみて、もっと素早く行動すればいいのに、と言われた時でも自身のペースを信じてのんびり・「ゆっくり」と、されど確実に歩めたのは、何よりのことである。
 私は今、私を支えてくれる人のお陰で、これまでにも増して、「ゆっくり」と人生を歩んでいけるようになった。幸せ者である♪
 これからの21世紀を生きていく若者達に是非言いたい☆「はやる気持ちを押さえて、ゆっくり、ゆっくりと歩んでいけば、道は必ず開かれ、その向こうに幸多き人生が待っている!!」と。
<対応年代:40代>