中2の夏休み、ある本にめぐりあった。うさぎの物語だった。
その本は、祖父が買ってきた上映予定のアニメ映画の原作になっているもので、英語で書かれていた。
当時、英語なるものは学校の授業以外ふれることはなかったので、英語の読解力は極めて低い状態だった。
祖父は、「これ面白いぞ。」、と言ってその本を私にくれた。
さて、読まない訳にもいかないし、と思いつつも、英語だけの本、気が重い★
でも、うさぎは小学校の頃よく見ていたので、うさぎのことをもっと知ろう!、という気持ちで読んでみよう、と思い、その本を読み始めた。
辞書を引き引き、本当に少しずつしか読み進むことができない状態だった。
が、そこは、結構気長な性格だったので、マイペースで1ページ、また1ページ、と読んでいった。
英語は、祖父から中学校に行く前に直接教えてもらった経緯があり、それがこの本を読むにあたって大いに役立っていた。
「ふん、なるほどな。結構英語の本読むの楽しいじゃん♪」、と本を読むにつれて思い始めていた。
読んでいてよく分からない箇所は、祖父に尋ねて教えてもらった。
夏休み一杯かかって何とかうさぎの物語を読み終えた。心の中は何ともいえない充実感で満たされていた(^_^)v
本を読み終えたことを祖父に告げた。すると祖父は、「ほう、やっと終わったか。褒美をやろう。」、と言って、映画の券をくれた。
それは、読み終えたうさぎの物語のアニメ映画の券だった。
祖母に言って、早速街に映画を観に行った。一人でぷらっと出かけて、映画館の下の階で好物のお好み焼きを食べ、映画を観て家に帰った。
私は小遣いというものをもらっていなかったので、お好み焼きは、祖母がくれたお金で食べることができた。嬉しい限りだ。
今にして思えば、この出来事は、当時英語に見向きもしなくなっていた私に祖父がしかけた作戦だったのではないかと。
なぜなら、うさぎの物語など祖父が読みたい、と思うことは決してないからだ。
学校の授業や受験勉強ではなく、遠回りになるかもしれないが、「英語を読む」力を確実に身につけることのできる方法を教えてくれた亡き祖父に「どうもでした。」、と言いたい☆
<対応年代:10代>
人には大なり小なり勘というものがはたらくときがあるのではないだろうか!?私は子供の頃からこの勘というものを大切にして生きてきたような気がする。
大学に入学した年のGWに早速帰省した。中3になる知人(男子)が近所にいたのだが、その子のお父さんから「ちょっと勉強みてくれんね。」と頼まれたので快く引き受けた。
午後からじっくり夜までがんばろう!!ということで勉強をみていた。その子のお姉さんが、「お世話かけるね、今日はこれで夕飯食べといて。」と言って2,000円をくれて出かけてしまった。
これで家はその子以外みんな外出してしまった。二人の間で夕食は美味しいお好み焼きを食べることで決まり!となった。
それから二時間位勉強をみていたとき、その子の家の電話が鳴った。用件は、私が帰省したのでその子も一緒にみんなで食べ放題の焼き肉を食べに行こう♪、というものであった。
私とその子はお好み焼きが大好物だったので、行きつけのお店で今日は何入りのものを注文するかワイワイ言いながら決めていたので、お互いに行きたくないねぇということになった。
断りの電話を私がかけたのだが、電話をかけてきた近所のおじさんは、「お好み焼きやったら明日食べればいいやん。とにかく○さんがこんと話にならんけ、はよおいで。」と言われた。
この近所のおじさんは、「第27話((最後の挑戦))でホームラン賞をくれたおじさん」である。
何か行きたくない気持ちが心の中に渦巻いていたが、あのおじさんから言われたら行くしかないか、と観念してその子にも納得してもらい本日の勉強を終了して二人で焼き肉屋に向かった。
焼き肉屋に行くとみんなが待っていた。全員そろったということで例のおじさんが、「さぁ、腹一杯食べようや!」と言ったのを皮切りにどどっと食べ始めた。
久しぶりに賑やかな雰囲気の中での楽しい食事となった。お腹の方も同様に久しぶりに一杯になった。
夕食会も無事終わり帰ることになった。みんなと一緒に話をしながらゆっくり歩いて帰っていた。
その帰り道の途中で例のおじさんが、「向こうに見えてるコンビニまで一番で行った人に好きなアイスをおごるぞ!」と言った。
それを聞いた途端、みんないっせいにそのコンビニめがけてかけだしていた☆私も負けてはなるものかと、コンビニめがけてひたすら走った。
そしてもうじきコンビニというところでついにトップになった。「やった!!」と心の中でさけんで一目さんに走りこもうとした時、ドサッという音と共に私は下に沈んだ。
なんと手前に大きな溝があってそこに落ちてしまったのだ★うまく着地したと思った瞬間、ズリッとすべってあごの上を石にぶつけてしまった。
溝から上がってきた私に「下唇が切れてる!?」と誰かが言うのが聞こえた。気が動転していたので分からなかったが、下唇が切れて上の前歯が1本内側に曲がっていた。
しびれていたのか意外と痛みは感じなかった。救急車を呼んでもらって病院に行き下唇の縫合をまずしてもらい、その後前歯をみてもらった。
前歯は、自分の指で少しずつ前に出していくように、との指示を受けた。自分でしないといけないのか、何かいやだなぁと思った。
帰ってから麻酔が切れてくると痛みが出てきてよく眠れなかった。翌日も痛みは続いた。それでも早く前歯を戻さないといけなかったので、ちょっとずつ指で前歯を内側から押していった。
一日がかりで何とか前歯を戻すことができた。やれやれと思った。その後、やっとゆっくり眠ることができた。
私にとってはとんだGW帰省となってしまった。寝床で考えたのだが、自分の勘=直感に従っていればこの怪我に見舞われることはなかった、と。
生まれてこの方、殆ど怪我をしたことのなかった私にとって今回の出来事は多いに反省すべきものであった。反省から得た結論は、今後は自分の勘=直感を大切にし、いやな気持ちが生じた時にはその行動を控えるようにする、というものであった。
以来、私はこの考えに従って生きてきた。勘を頼りに運も味方してくれたのか、結構うまく生きてこれたような気がしている。もちろん怪我はしていない。
残りの人生、「勘」がどこまではたらくか分からないが、日々の努力を忘れずに一人でも多くの人に私の「勘」が役立つようできたら本望である。これからの人生においては、人の役に立ってこその「勘」であると思うから。
最後にこのエピソードで当時不思議に思えたことを綴って今回は終わりとしたい。
下唇が切れて血だらけになっていた上着の左の胸ポケット辺りだけ何故かきれいなままだったのでちょっと不思議だった。胸ポケットには祖母が買ってもたせてくれた「お守り」が入っていたからそのおかげかな!?と思った。
<対応年代:10代>
学生時代50キロ代だった体重が京都から戻ってから平均年1キロのペースで増えていた。
暫くぶりに会う人から「○○さん、最近太りました!?」と必ず言われるようになり、こりゃいかん。どうにかしないと、と真剣に考えるようになった。
そんな中とある家電量販店で「ロ○オ○ー○」なるものに出くわした。以前から名前くらいは知っていたので、これがそうか!と思った。
お店で試してみて帰ってからネットでいろいろ調べた結果、よし、買おう!!ということになった。
それからネットで調べに調べまくって一番安い購入先を見つけ注文した。
何日か後に商品が配送されてきた。直ぐに開封して設置、稼動させた。いい感じだった♪
1日わずか30分(1回15分)でいいとのことだったので、朝と夜にやることにしてとりあえず続けてみた。
3ヶ月くらい過ぎたあたりで成果が少しでてきたように思えた。でも何か同じことを1日の中で2回するのはどうかなぁと思い始めていた。
自分の中でこれともう一つ何かあればより成果がでるのではないか!?との思いでついに「W○i○i○」をやることに決めた。
購入にあたってそこそこの金額がかかったので、「元を取らねば」との思いも加わって真面目に毎日必ずやるんだとの決意で取り組むことにした。
まず①体測定をやり、次に②ロ○オ○ー○をやる。(W○iのニュースを見ながらやる。)そして③有酸素運動をやる。(Aパート・Bパート各15分程度に分けたものを1日ごとにやる。)このようにして1日30分の運動をするようにした。
とにかく毎日やった。しかし成果は思うようにでてはこなかった。「太りぎみです。」の状態のままだった。
やってもこのままなのかもな、と半ば諦めかけていたとある日(そうやり始めて半年近くたっていたと思うが)、ついに体重が「標準です。」になったのである。
嬉しかった(^_^)v、「ロ○オ○ー○」の購入から考えると実に1年近くの月日がかかっていた。
依頼順調に成果はでて「標準です。」の範囲の一番上から少しずつ真ん中付近に近づいているといった具合だ。
以前イギリスの学者が書いたものだったと思うが、「努力できること、それ自体が才能の一つである。」というようなことが書いてあったのを覚えている。
私にもし才能があるとしたら、この努力すること=こうと決めたらトコトンやり続けることなのかもしれない。
きらめくような才能がなくても「コツコツ努力」できる継続性があれば人はいつかきっと開花の時を迎えることができるに違いない☆
<対応年代:40代>
京都で学生時代、時はバブルの真っ最中であった。
当時学生であれば国民年金の支払いは免除されていた。そんな中私は、「全○済」のいわゆる私的年金に大学院生のときに加入したのである。
きっかけは「全○済」のこくみん共済に加入したことだった。今でこそ「全○済」も名が知られているが、当時は私の周りには殆ど知る人はいなかったようだ。
自分の将来を考えてみたとき、勤め人=サラリーマンにはとてもなれそうにないと実感していたので、先々困らないために今のうちから将来に備えておく必要があると感じた私は、サラリーマンが退職後もらう厚生年金にみあうものを自分で準備すべく私的年金の積み立てを決断したのである。
もちろん国民年金についてもこの年から支払いを始めた。当時の私には支払い金額は大きな負担だったが、頑張って何とかお金を工面していた。
7.5口=年間75万円支給が当時入れる加入口数の最高だった。これの逓増型(毎年5%ずつ支給がアップしていくもの)に入っていた。支給年齢開始は65歳からにした。
65歳までなら自分の働きで何とかなるだろうと思ったのと、55歳、60歳、65歳の支給開始の中で、一番遅い方が1年間の払い込み金額が一番安かったので、7.5口の65歳支給開始で納得していた。
それから福岡に戻り9口まで加入可能となったので+1.5口加算して9口=年間90万円支給(逓増型年5%アップ)にした。
そして30歳前ギリギリで終身生命保険に加入した。これも30歳になったら保険料が上がるからと思い切って加入したのである。
私はいつの間にか「全○済」のお得意様になっていた。(車や火災の保険も全てここで加入していたからだ。)
世の中が外資系がいいとかいう雰囲気になっても私は国内の共済がいいと考え「全○済」一本で個人的なもの(法人的なものはここでは加入できません。)は契約してきた。
今はそれで良かったと思っている。流行に押し流されることなく自分できちんと考えていくことの大切さを教えてくれた亡き祖父母に改めて感謝している。
あれから20年、今ではそれ程たいした支払い金額ではなくなった私的年金。もし今から9口加入するとしたら、おそらく9口加入しない=できないだろう。
2009年、これからの20年を見据えて終身の医療と介護保険に新たに加入した。(医療はこれまで定期だった。)
「備えあれば憂いなし。」この言葉の意味を次の世代にしっかりと伝えていきたい!!
<対応年代:20代~40代>
中学3年生の3学期早々に受けた公開模試=実力テストは5教科200点満点中197点であった。高校受験の学区ではトップ(最高偏差値75)、自己最高得点でもあった。
しかし私は満点を取ることはできなかった。残る試験は期末テストしかなかった。
私はこの中学最後のテストでオール満点を取ることにチャレンジしてみようと思った。他のみんなは内申書に関係ないこのテストのことよりも高校受験の勉強に熱心であったのだが、私はそんなことにはお構いなしに期末テストの勉強をしていった。
主要5教科(英・数・国・理・社)は私にはたいしたことはなかったので副教科(音・美・技・体)の四つをじっくり丁寧に押さえていった。
さて試験の結果であるが、順調に満点の答案を返してもらっていった。そして残すところ音楽のみになった。
その当時音楽は近所の先生が教えていた。ある日、学校から帰宅して暫くしてその音楽の先生から電話がかかってきた。
先生は、「○○くん残念だけど99点だったから。」と言われた。
私はそれを聞いてやっぱりそうかと思った。曲目を書く問題で漢字をど忘れしてひらがなで書いていたからだ。
世の中そんなに甘い物ではないと痛感した。祖父母にそのことを話すと、祖父は私に「高校までオール満点は持ち越しになった訳だ。でもあと1点足りなかったとは△△らしいな(笑)。」と言った。
ということで高校生になってテストを受けていったがオール満点はもはや無理っぽい感じであった。
そんな私に祖父はチャンスを与えてくれた。高校3年生の秋、当時○文○の最終マーク模試が本番前の仕上げ模試として有名であった。普段は「模試はお金がかかるからなるべく受験するな。」と言っていた祖父が、「受けてみろ!?」と勧めてくれたのだ。
私はありがたく思いがんばって受験した。もしオール満点がとれれば今まで一度もなれなかった文系・理系合わせてのトップにもなれると思った☆
結果はオール満点の1,000点、全国1位になることができた。嬉しかった♪
祖父母もすごく喜んでくれた。近所のおじさんがホームラン賞といって2,000円をくれた(^_^)v
こうして私の挑戦は終わった。自分の目標を諦めることは簡単にできる。でもちょっと遠くに目標を置き換えて「地道な努力」をやり続けることができれば、自身の立てた目標をきっと突破できる日がくるはずだ。
そして自分を信じて支え応援してくれる人が必ずやそのチャンスを与えてくれるに違いない。
「努力する」ということは、きっと何にもまして素晴らしい才能ではないかと!!
<対応年代:10代>
いくつの時か正確には覚えていないが、幼少のある夏私は祖父に泳ぎを教わった。
水にやっと顔をつけれるようになったばかりの私をあろうことか大人用のプールに放り投げたのである。
びっくりするどころではなかった。足がつかないプールの中で私は必死に無我夢中に身体を動かした。もがく私に祖父は何か大きな声で話しかけながら私の身体を支えてくれた。
祖父は片手で私の腹のあたりを支えてくれたのであった。するとどうであろうか!?私は何となくではあるがプールの水に浮いたような感じがしてきた。
「力を抜いて手足を伸ばしたら自然と浮くから慌てるな!!」と祖父が耳元でささやいた。
私は祖父の言われた通りにした。祖父は手を離したがどうだろう、私は沈まなかった。浮けたのである。投げ飛ばされたときはどうなるかと思ったが、浮けた喜びがあっという間にそれを打ち消してしまっていた。
その夏を契機に祖父は段階を追って泳ぎを教えてくれた。が、祖父は丁寧に教えてはくれなかった。見本の泳ぎ方をしてくれて、「・・・・のようにな。」と言ったあとは自分で考えてやるしかなかった。
子供ながらにいろいろ考え工夫しながら泳ぎの練習をした。夏休みの午後はだいたいプールに行っていたような気がする。ちょっとした山間にプールはあったので、そこまで歩くのに汗をかいていたのでプールに入るのが気持ちよかった。
泳ぎを覚えたのと時期は異なるが、自転車に乗れるようになる練習もした。
家には自転車がなかったので、祖父が近所からボロの自転車を借りてきてくれた。その時も祖父は、「自分で考えてやってみろ。」と言っただけであとは何もしてくれなかった。
私はまた自分であれこれ考えながら練習していった。朝早起きして少しずつ乗れるように練習した。まず①真っすぐ進めるようになること、次に②カーブで曲がれるようになること、そして最後に③スムーズに乗れるようになること、の目標を決めて取り組んだ。
カーブが曲がれるようになったときのことは今でも覚えている。心の中で「やった~!!」と言っていた。
その後自転車で風をきって走るときの心地よさは何とも言えないものになった。買ってもらった自転車でいろんなところに出かけて行った。遠出したときは戻ってから自転車をメンテ・きれいにするのももう一つの楽しみになった。
今思うに祖父の私に自分で考えて物事を推し進めていかせたことは、結果として私にはすごくよかったことであった。
なぜなら学生時分に物理をやっていたときでも福岡に戻ってから仕事をやっていく上でも有意義にこの思考が活用でき、こうして今人のために役立つことができているからである。
ふとまわりを見渡すとあまりにも何かをするにあたっての「How to」=マニュアルが横行してしまってるのではないだろうか!?、と思わざるを得ない。
これではこれから不測の自体が生じやすくなっている世の中を乗り切っていくことが難しい人々が増えていき、しいては社会全体に何らかの支障をきたすことになるに違いない。
だからせめて私は私につき従ってくれる方々並びに将来を担う子供達にこの「自ら考え工夫する。」ということの大切さを伝え、実践=((できた))ということを実感してもらいたいのである☆
今また一つ亡き祖父のありがたみ(偉大さ)を感じた♪
<対応年代:幼少~10代>
小学校の間、算数というものを習った。結構面白かった。今回はこの算数がらみの内容で。
小6になって暫くしてクラスの中で算数のテストがずっと100点満点なのが○○くんと私の二人であることが分かった。
○○くんはいわゆる秀才タイプで町の大きな塾にも通っていた。それに比べ私は運良くテストの点数を稼ぐラッキーマンだったように思える。
そんな対照的な二人だったが、仲はよくて一緒に遊ぶことも多かった。
彼の家に遊びに行くとお母さんがおいしいお菓子を食べさせてくれた。優しそうな彼のお母さんをみると、生きていたら自分にもこんなお母さんがいたのかなぁとか思ったりした。
さて、算数テストであるが、二人とも順調に満点をとり続けていた。
2学期も終わりそうになったころ私は風邪気味で熱っぽかった日があった。丁度その日、算数のテスト、確か場合の数(確率)に関するものを受けるはめになった。ちょっと頭がぼ~っとしていたせいもあっていつものようには解けなかった。
結果、私はついに満点を取ることができなかった。○○くんに負けてしまったのである。
私は潔く負けを認めて「○○くん、おめでと。」と彼に言った。○○くんは嬉しそうであった。「ありがと、残りもがんばるよ。」と彼はこたえた。
家に帰って夕食のときにこのことを祖父母に話した。すると祖父は「負けることもときには必要だぞ。そこから学ぶこともたくさんあるからな。」と言った。祖母は「またがんばればいいよ。」と言ってくれた。
その後最後のテストまで○○くんはがんばり通した。及ばずながら私もなんとか(^_^)v
○○くんとは別々の中学に行くことになって、会う機会がだんだんなくなっていった。クラブ活動が忙しかったせいもあるが。
月日が流れて私は中2になっていた。その年のとある日、○○くんは自らの命を絶ってしまったのである。
新聞にも記事が載っていた。記事には、成績が1番から下がっての自殺ではないだろうか、などと書かれていた。
なんで!?と私は思った。あいつがそんなことで死ぬなんて考えられなかったからである。
祖父も新聞の記事を読んでいたようだった。「○○くんはおまえと違ってどこか線が細いように思えていたが、不幸なことになってしまったな。」と私に祖父は言った。
その言葉を聞いたとき私は彼の何をみていたのだろうと思った。そして「○○くんごめん。」とつぶやいていた。
それからちょっとして小5・6年のときの担任の先生に会うことになった。先生は「○○くんは勉強を一生懸命って感じでやっていたような気がする。それに対してきみはなぜだかわからないけどゆったり構えてやっていたよね☆」と言われた。
「そうですかね。」と私がこたえると、先生は「内緒にしてたんだけど○○くんは鹿児島の□・□ー□を受けてダメだったんだよね。だから中学ではずっと1番でいたかったのかもしれないね。」と言われた。
私はだまっていた。するとさらに先生は「これも内緒だったけど実はおじいさんにきみなら受かるって話にいったことがあるんだよ!!」と言われた。
それを聞いて、そういえば祖父が冗談っぽく「鹿児島で病院をやってる兄の所に住んでみらんか!?」と言っていたことを思い出した。私は「なんでわざわざ灰が降るとこに住まないかんの!?」と言い返していた。
いろいろ先生と話をした最後に先生は「○○くんの分も一緒にがんばってくれよ。きみならそれができる。」と言われた。
私は先生の言葉をありがたく思った。そして○○くんがずっと守りたかった1番を守り抜く決意をした。
そして運よくその後もずっと1番でいられた。加えて算数から数学になった教科のテストも無事に満点を取り続けることができたのである。
祖父から言われた「負けから学ぶ」こととは、「心にゆとりを持てるようになる」ことだったのではないかと。そう、負けたら次は負けないようにがんばればいいだけだ!!
勝ち続ける人生よりも負けることもある人生の方が私は好きである♪その方がより多くの人のために役立つ人生を送れるにちがいないから☆
<対応年代:10代>
高1の秋だったと思う。ル-ビックキューブなるものが流行った。
丁度高校の数学の内容を終えた私は、ひとまずほっとした気持ちになっていた。そんなある日、高校になってから知り合いになった隣のクラスの男子生徒がルービックキューブをもってきた。
その日からみんな彼からちょっと借りてはやっていた。が、そんなことではとうていできっこないと私は思っていた。
私は、今これをやるのが自分の新たな目標(高校数学を一通りやるというのがこれまでの目標であった。)だと思い、ルービックキューブを1日でいいから貸して欲しいと○○くんに何度も頼んでやっと貸してもらった。
家に帰って祖父母に「今日から明日にかけてはこれをしないといけないので、精神統一も兼ねて玄関でやるから。」と言って、ルービックキューブを見せた。
祖父は「サイコロみたいなものに負けんようにな!!」と言ってくれた。祖母からは「玄関で風邪引かないようにしいや。」と言われた。
ご飯を食べてお風呂に入ってから、「さぁやるぞ!!」と心の中でつぶやいて気合いを入れてやり始めた。
が、これがなかなかうまくいかないのであった。いいところまでいってもダメ~という具合になってそのたびに気分転換をしていたのでとうとう徹夜するはめになった。
明け方近くになってピピ~ンとひらめいた☆「はは~ん、こうすればいいのか。」などとひとりごとをいいながらシャカシャカやっていった。
そして六面全てがそろったときには完全に夜は明けていた。祖父母に「さっきついにできた。今日これ返しに行くまで寝るけ。」と言って熟睡してしまった。
はっと目が覚めたらお昼をとうに過ぎていた。バタバタ準備をして学校に行った、ルービックキューブだけを持って。
急いで行ったつもりだったが、着いたときには終礼間近だった。
私は「できた、ルービックキューブ♪」と言いながら教室に入った。
するとみんなの視線を浴びるより早く担任が「廊下に出ろ。」と言った。
やばいと思ったが、なるようにしかならんとあきらめて担任の前に立った、ルービックキューブを後ろに隠しながら。
「今日は何をしていた、学校休んで!?」と担任から尋ねられたので、私は「ルービックキューブを徹夜でしていたので寝ていました。目が覚めて急いで来たのですが今になってしまいました。」と答えた。
そして後ろに隠していたルービックキューブを担任に見せた。すると担任は「すごい。」と言って、私の手を引っ張って校長室に連れて行った。
校長先生に担任は「うちの生徒の△△が徹夜でルービックキューブを仕上げてきました。」と嬉しそうに言った。
すると校長先生は「おめでとう△△くん、日本で2,000人以内ですよ、今は。」と言われた。
なんか嬉しかった♪高校数学をやりあげた以上の満足感であった。
さて、学校はといえば、次の日から誰もが私のやり方で簡単にルービックキューブをやっていた。
今思えば私は周りの人たちに恵まれていたのだろう。祖父母に先生方にといった具合に私のやることになんのおとがめもなくすましてくれていたのだから。
小さなチャレンジ、それをみつけ実行できるように今度は私が見守る番である。でてこい☆かつての私のようなやんちゃくんよ!(^^)!
<対応年代:10代>
今回は、高校1年生のときにお父さんの転勤で転校してきたKくんとのことを綴ることにしたい。
彼の方から最初話しかけてきた。神戸から引っ越してきた彼は、「この高校に入って勉強の進度が前いた高校よりも遅れているからかなわんわ。」と言った。
私は学校の進度など気にしたことはなかったので、「そうですか。」とだけ答えた。祖父から勉強は自分でするものと常々言われていたので、私にとって学校は自分で勉強したことの復習=チェックをする場所になっていたのだ。
彼は高校生とは思えない程物事に対して冷めた考え方をしていた。今考えるにそんな彼だったが故に銀行マンという職業をやれているのだろうと思う。
そんな彼がどこでどう知り合ったか分からないが、第8話で書いた中学時代の私の友達が逮捕されたことをいち早く教えてくれたのである。
私はそのことをきっかけにして彼と仲良くなっていった。
高1の夏休み直前に全国模試=○研模試を受けた。私はひそかに彼のいう、この学校より進度が進んでいるという高校生よりもいい成績をとろうと思っていた。テストはクーラーのない高校の教室でじめじめして暑かったが、がんばった☆
結果は全国で六十何番かだった。彼の言っていた高校の1番の生徒より成績は断然よかった。
彼は、「おまえすごいねぇ、九州にもこんなやつがおったんやね!!」と言い、ちょっと驚いていたようだった。
私は、とりあえずひそかな目標は突破できたのでまずまずと思ったが、「全国にはまだまだ成績のいいやつがいるからがんばらないと。」と彼に言った。
月日は流れて2年生になったころ彼は私に「おまえが人に優しくするのは、相手が自分より劣っていると心のどこかに余裕があるからなんじゃないかと俺は思う。」と言った。
何のことだかよく分からなかったので、「よく言ってる意味が分からんのやけど!?」と彼に言い返した。すると彼は、「数学の先生によく別解を聞かれて放課後教えてやりよるやろ。俺が思うにあれは先生のためになっとらんと思う。そのことたい。」と言った。
それを聞いた私は少しが~んとした。そっか、先生によかれと思ってしていたつもりだったが、裏を返せばそれは先生が別解を考えられないという気持ちが心のどこかにあったからではなかったかと。
私は数学の問題を解くときに教科書等に書いてある解き方ではない、いわゆる別解を考えるのが好きだった。本当に書いてある解き方がベストなものであるか必ず考えていたのである。大学を出たばかりのその数学の先生は時々生徒から質問でやり込められたりしていたので、私は先生をそっと助けてあげられたらと思ってやっていた。
優しさというものについて考えさせられてしまった。本当の優しさとは真に相手のためになるものでなくてはならないと思った。そしてその真の優しさをもつには、自分自身がもっと成長して物事を厳しい目でとらえられるようにならなければもてないものなのだろうと思った。
Kくんはその後○稲○大学に現役合格したが、1年で中退、別の大学を再受験して合格、大学卒業後某銀行に就職、現在は本店にてがんばっている。
物理学に邁進していた大学院生のとき彼に久しぶりにあった。彼は、「おまえ、物理とかやらんで商売した方がいいと思うよ。」といつもの冷めた言い方で私に言ってきた。
何をまたいいよるかね、と思ったが、「学者には向いてないかね、自分は!?」と彼に言った。すると彼は、「いや、そういうことではなくて、商売やる方がよりいい、学者以上に向いてると思うんやけど。」とこたえた。
当時、まさか本当に商売(ビジネス)をやることになろうなどとは夢にも思っていなかったので、「あっ、そうね(笑)。あんたが言うならそうかもね。」と軽く受け流していた。
Kくんは人、というより物事の本質を見抜く力を持ち合わせている人間なのだろう。その眼力で私のこともきっと見抜いたに違いない。
彼のいう通り私は今の仕事に確かに向いていた。ビジネスでは通り一辺倒のやり方=誰でもが考えることではうまく切り抜けられないことがある。そんな場合、別のやり方があるのではないかと考えなければならない。このことは、私がかつて数学の別解を考えていた思考によく似ているのである。
つまり、彼はそんな私の思考回路をみているうちに、こいつは商売をしたらうまくいくに違いないと思うようになったのではないだろうか。
Kくんを見習って、私と関わりのある若き後輩たちに適切なアドバイスをしてあげられるよう、「真の優しさ」をもって接していきたい(^_^)v
<対応年代:10代~20代>
今や携帯電話は誰もが持ち、生活必需品のようになった感がある。今回は、携帯電話のPHSに関するものである。
PHSが販売されるようになったとき、9月のサービス前の7月から予約を入れて申し込みをした。予約者の特典として下4ケタの番号を好きに選べた。
当時、携帯電話を持つには毎月かかる料金が高いと考えていたので、ポケベルを利用していた。PHSは公衆電話を持ち歩くようなものだと理解したので、それならこのPHSを公衆電話と思って利用しようと考えた。
PHSの販促は、○T○が大々的にやっていた。私がお世話になっていたお店でもそうであった。
ふとしたきっかけでそのお店が販売代理店を募集していることを知った。私は、自分がPHSを利用してみて、便利であることを実感していたので、宣伝して売ってみたいと思ったのである。
しかし、代理店には法人でなければなれないと担当者から言われた。
私は考えた。それまでに携帯電話で何人かあのお店を紹介して契約させているからダメもとで直接店長にお願いしてみようと思い、即実行した。
店長に深々と頭をさげ、殆ど土下座に近い状態でお願いした。
「条件は、販売代金からの手数料はゼロ=全くもらわない、期間終了までにノルマとされる台数(400台)を全て契約・販売した場合のみ○T○からインセンティブ(報奨金)をもらう、というもっとも不利なものでいいですから、どうかお願いします。」と店長に嘆願した。
店長は、「そこまでの覚悟があるなら代理店の許可がおりるようにしましょう。しっかりがんばって下さいね☆」とO.Kの返事をくれた。
私は店長に感謝すると同時に、よ~しがんばるぞ!!という気持ちで一杯になっていた。
それからというもの期限が3ヶ月ちょっとしかないこともあって必死に販促に努めた。
私の作戦はこうであった。九州地区直属の販売店ではPHSは予約販売のみである。が、私の契約先は関東地区直属であったので(某有名商事会社)、即PHSを納品できる有利さがあった。
だからこの点をクローズアップしてPHSを利用したい方に直ぐに利用できることをきちんと説明していった。
すると結構反応が出てきて順調に契約台数を増やすことができた。友人・知人の助けは大きな味方であった。
がむしゃらにがんばったおかげで12月のクリスマス前までに残りいよいよあと1台になった。28日が締め切り日であった。
しかし、もう私にはあてはなかった。どうしたらいいものか思い悩んでいるうちにとうとう28日の最終日になってしまった。
夕方になって1本の電話が私のPHSに入った。かつての教え子で携帯電話のお世話をした○○くんからだった。
「先生、俺の友達が携帯にするかPHSにするか悩んでたんだけど、PHSの欲しい機種がすぐ手にはいるんならPHSの契約してもいいってことになったんですけど。」と○○くんの声が受話器から聞こえた。
「あっ、ほんと!?大丈夫、すぐPHS用意できるから。」と私はすかさず彼に返事をした。
その後彼が友達を私の所に連れてきてくれて無事に契約書を書いてくれた。その契約書をFAXして全契約を無事に終えたのである。
○○くんとその友達に、「年末なのに本当にありがとうでした。助かりました。」と感謝の気持ちを込めてお礼を言って玄関先まで見送った。
その後のことはあまり覚えていないが、ほっとしたなんともいえない安堵感につつまれていたことだけは覚えている。
こうして私の挑戦は終わった。京都から戻っての初の大きな仕事であった。そしてこれを契機に個人から法人への道のりを歩んでいくことになったのである☆
私一人の力ではおそらく半分も台数の契約をとれなかっただろう。しかし、多くの方々の力添えがあったので私は無事にノルマを達成することができたのだ。
日々出会う人たちへの感謝=ありがとうの気持ちを忘れずにいれば、必ず自身によりよい道を歩ましてくれることになるのではないだろうか。
人と人とのつながりをこれからも大切にして生きていきたい、この21世紀も!(^^)!
<対応年代:30代>