40代になって初めて外車に乗った。愛称「Vくん」である。
それまで車には殆ど関心がなかったので、知人に紹介された車をずっと乗っていた。○ヨ○製の車だった。
だから一からの車の勉強になった。ネットである方と知り合いになりいろんなことを学ばせてもらった。
純正の車の内張がこの車両は貧弱で、それ故に防音・断熱効果が悪い状態であった。
ネットで知り合いになった方は、内張の改良製品を作りだした人だった。
早速その方から商品を送ってもらってVくんに装着してみた。
結果、効果は申し分ないものであった。リアの冷房効果は純正より数段アップしたといっていい☆
その後ボンネットの防音キットも取り付けたが、これもgoodであった♪
国産車では考えられないようなアクシデントにも何回か見舞われたが、外車はきちんと乗り、いつも忘れずにメンテしてあげなければならないとVくんを通して学べたようだ。
Vくんでは仕事のときに支障をきたすので、軽自動車も使用するようになった。それまで車は1台しか使っていなかったのだが、2台になった。愛称は、「アトレーくん」だった。
この2台の車を私はいつの間にか兄弟車のように思うようになっていた。両方ともがトラブルになることが決してなかったので、2台で助け合って私の車使用が滞ることのないようしてくれているんだろうなぁ、きっと、と思えたからである。
アトレーくんは故あってやがて関西の子会社のほうで使うことになってしまった。名残惜しかったがさよならをした。
その後、関西に出向いたときにアトレーくんに再開できて嬉しかった。私が乗っていたころよりこき使われているようだったが(笑)。
月日は流れアトレーくんは廃車せざるをえない状態になった。廃車の許可を求める関西からの連絡につらいが仕方ないと思い許可を出した。
一つの時代が終わったのかもしれないと思った。お疲れ様、アトレーくんであった。
そんな中、ここにいるVくんはというと、これまた殆ど使用していない状況であった。気付いてみると前回車検から1年以上もたっているのに僅か1,266kmしか走行していなかったのだ。
Vくんに申し訳なく思った。車は使ってあげること=一緒に走ることが何よりも大切なのだろうが、それをやれていない私にはVくんとこれから先つきあっていく資格がないと思ってしまった。
まだまだこのVくんは走ることができる。だからだれかこの自分のVくんに対する気持ちをわかってくれる人に引き継いでもらいたいとの思いにかられて、とあるオークションに出品したのである。
気持ちは通じたようである。Vくんは元気に関東のとある方に引き取られたのであった。
この広い世の中に自分と気持ちの通じる人がいたんだと思えたことは私の大いなる喜びであった。Vくんのおかげでその方と知り合うことができたのだから、Vくんに感謝である!!
そしてインターネットの普及がなかったらと思うと、改めてネットの重要性を認識するとともにこれからの将来を担う子供たちに、①ネットがさまざまなシーンで活用できること、②それを通じて心と心のふれあいを実感できる場合があること、を知ってもらえるよう努めていきたい(^_^)v
<対応年代:40代>
私には行きつけの散髪屋さんがある。子供時分からそこにお世話になっていて毎月欠かさずそこで髪を切ってもらってきた。(大学から福岡に戻るまでは行けなかったが。)
第6話で高校生のとき電気屋さんに就職したいと思っていたと書いたが、散髪屋さんもいいなぁと思っていたころがあった。中学生のころ丁度そんな気持ちになったことがあった。
いつも行くその散髪屋さんのご主人を見ていて、通勤時間ゼロで雨に濡れることもないし、人は誰でも髪は伸びるから、こんな手に技術をもってできる仕事につけたらいいなぁと思うようになっていた。
ご主人とは何となく馬が合って、いつもいろんな話をしてもらっていた。(子供時分の私はどちらかというと無口な方であった。)
そんな訳で中学3年生の面談のとき、私は散髪屋さんになりたいと担任に話した。が、担任は、「高校に行った方がいいから、そうしなさい。」の一言であっさり否定されてしまった。
手先は結構器用だったので、散髪屋さんはいいんじゃないかと思っていたのだが、担任の言うことを信じようと思った。中3のときの担任は私のことをよく分かってくれていた人であったから。
散髪屋さんには息子が2人いた。上の人が丁度私と同い年だった。(学区が違ったので、同じ学校になったことはなかった。)
京都から戻ってからは、散髪屋さんとの話の中によくその息子さんの話がでてくるようになった。就職、結婚、お孫さん誕生等、いろいろな出来事があったせいかもしれない。
私も今の自分の近況を行く度に結構詳しく話すようになっていた。もっとも殆どが仕事の話ばかりだったが。
やがて息子さんにも言えないお話=苦労されていることをお客さんの誰もいないときにされるようになった。
できるだけ話をじっくり聞いて今の私の知りうる範囲でベストと思えるお答えをするよう心がけていった。
散髪屋さんご夫婦にとって私は本音の言える一人なのであろうと思う。だとしたら月に1回、これからもずっとその本音を聞きに行こうと思う。
片道65km以上の距離にある散髪屋さんであるが、身内のいない私にとってはありがたい知人である。
いつも帰りに、「遠い所わざわざすみません。お気をつけてお帰り下さい。」と丁寧に見送ってくれるその姿に、「また来月にお会いしましょう。お元気で」と言ってお別れしているのである。
気の優しい○○さんがあることで経済的に困窮し、にっちもさっちもいかなくなったときに助けてくれた人がなんと亡き祖父であった。
祖父は私がえらく散髪屋さんを気に入っているのを知っていて、「その散髪屋さんがなくなるのは孫にとってよくないことだ。」と言って○○さん一家を救ってやったというのである。
私はまだまだ未熟者であるとそのことを○○さんから聞かされたとき思い知った。そして祖父が残してくれたものを決して己のために使うのではなく、祖父の意志にかなうもののために使おうと強く思った。
あと10年くらいかもしれないが、祖父が助けた○○さんの散髪屋さんにこれからも毎月「心のつながり」を届けたい☆
人と人とのつながりが希薄になりがちなこの21世紀だからこそ大切にしたい、こんな「心のつながり」を。
<対応年代:40代>
中学3年生になって私は生徒会の執行委員会のメンバーになっていた。1週間に一度、放課後に話し合いがあっていた。だからクラブ活動はその時は遅れていっていた。
話し合いのある教室の廊下から運動場がよく見えた。人気の花形クラブの男子テニス部のコートも見えた。
当時生徒会の会長と副会長は陸上部の男子部員だった。陸上部は人気がなく、3年生の男子部員はたったの3名だった。
だからこの生徒会の話し合いのあるときは、残り1名が最初練習をしていた。
その彼は運動場の周りを走っていた。いわゆる長距離走である。もくもくと走る彼の姿を話し合いのあるときにたまたま見かけて、以来毎回彼の姿を追うようになっていた。
彼はあまりパっとしない男だった。会長と副会長に隠れて目立たない存在であった。小学校も同じだったが、一緒に遊んだこともあまりなかった。
特に足が速いわけでもない彼であったが、ひたすらもくもくと走る彼の姿に、いつしか「○、がんばれ!!」と心の中でエールを送るようになっていた。
毎日毎日ただひたすら運動場の周りを走り続けることなど自分にはできそうにもない、それを彼はやっているのだから、すごいなぁとつくづく思ってしまった。
そんな彼が受験勉強に成果を出し始めた。実力テスト=対外模試でメキメキ成績がアップしていったのである。
生徒会長と副会長の2人は成績上位者であったが、○はそんなに成績のいい方ではなかった。それが、中3になってその2人に追いつこうとしていた。
最終的には○はその2人を抜き去り、学区トップの進学校に合格した。○は運動場をただ走っていたわけではなく、受験勉強というレースに備えてコツコツと地道に努力していたんだなぁ、偉いヤツだ、と思った。
高校生になってから○に会う機会があった。○に「中3のときいつも走る姿見とったよ。もくもくとよう走りよったけ感心しとったっちゃ。」と言った。
それを聞いた○は、「それを言うなら小6のとき昼休みを返上してマラソンの練習してた△△くんの姿を見た僕の方が先に感心してたよ。」と私に言った。
○から言われてそういえばそんなことをしたことがあったなぁと思い出した。クラスマッチ形式になっていたマラソン大会に向けて練習しようと思い、昼休みと放課後走ったことがあった。
最初は一人きりだったが、徐々に一緒に走るクラスメイトが増えて、最終的にはほぼクラス全員で練習できた。
○はそのときの私の姿を見て、「言葉では伝わらないことを△△くんは態度=行動でクラスのみんなに伝えたんだ、だからみんなが練習に参加したんだ、きっと。」と心の中で強く思ったそうである。
そして「自分も△△くんのようにがんばろう!!」と決意したというのであった。
私は○から当時彼が思ったことを聞かされてちょっとビックリした。まさか自分の影響で○がもくもくと走っていたなんて思いもしなかったからである。
○と会った後、私の何が彼の心を動かしたのか考えてみた。その答えは、私がなぜ○の走りに共感したかということの中に伺い知ることができた。それは、無欲の走りを○から感じられたことにあった。
人は誰でも欲がある。小6のあのとき最初私は自分がマラソンの練習をして速くなりたいという気持ちでいた。が、徐々にクラスのためにと思うようになったのである。
己の欲を捨てて無欲な気持ちになってみなのためにと真に思えるようになったときに人々は心を動かされ自発的に従うようになってくれるのではないだろうか☆
○の走りの中に私は忘れかけていた無欲というものを再び思い出させてもらっていたような気がする。
私を信じてついてきてくれる人たちのことを大切に思いながら○のように人生というトラックを無欲に走っていきたい♪
<対応年代:10代>
学生時代のぶらり一人旅の中から今回は綴ることにしたい。
とある年の秋になりかけのころだったと思う。もう行った先は覚えていないが、関西のどこかに出かけた。
山道のようなところを歩いていた。右手に川が流れていて、その川辺に降りることのできるところがあったので、休憩も兼ねて降りてみることにした。
川辺に降りると大きな岩が横たわっていた。その岩を見て、「あらっ。」と思った。岩に字が掘ってあったからだ。
なんと与謝野晶子の詩が刻まれていたのだ。見渡すとその周りにさらにいくつかの岩があって、同じように詩が刻まれていた。
私は文学には無縁であったので、その詩の内容を深く読み取ることはできなかったが、感動した♪
そんな気持ちで上の道に戻ってさらに奥に進んでいくと、なにやら古い家のようなところに出た。
そこのお爺さんが、「お兄さん、よかったらちょっと休憩していかんかね!?」と話しかけてきた。
私は、「はぁ、どうも。ではお言葉に甘えて、そうさせてもらいます。」と答えて、その家の中に入った。
家といっても玄関先が駄菓子屋のようになっている作りであった。そこにいろんなものがゴチャゴチャ置いてあった。
お茶を飲ませてもらって、一息ついたころ、そのお爺さんが私に、「これ何と思いますか!?」と尋ねてきた。
見ると[ロウソクたて]のように思えたので、「灯り用に利用していたものでしょうか。」と答えた。
するとそのお爺さんは、「そやな、これは自転車のライト用に使っていたもんでな、風が吹いてロウソクにあたっても消えんようになっとるんやで。」と言った。
それを聞いた私は、「へぇ、そうなんですか。すごいですね。」と言いながら、改めてそのものを眺めた。
お爺さんはさらに、「これはな、実は、かの有名な松下幸之助はんの作ったもんなんやで。」と言った。
二叉ソケットの開発の話は子供のときに聞いたことがあったが、こんなものを作っていたとは知らなかった。
ナショナルは私の好きなメーカーであった。その創始者である松下幸之助は偉大な人であると思っていた。
その「家」をあとに私は帰路についた。今回のぶらり旅は私に新たな思いを起こしてくれるものとなった。
それは、日常のなにげない小さなこと=不便さに目を向け創意工夫を施すことの中に大きな飛躍につながる何かがきっと潜んでいるに違いないということである。
だが、恵まれた今の環境の中でできる創意工夫とは一体何なのか!?私は、帰りの電車の中でずっと考えていた。頭の中でグルグルといろんなことを考えているうちにいつの間にか京都駅に電車は着いていた。
家に帰ってからも考えた。そしておぼろげながらある考えに布団の中で至った。自分が今関心のあることに対して常に意識を持ち続けることができればそこから何かを見いだせるのではないか。そしてその積み重ねがあった後に創意工夫というものがきっと生まれてくると。
後日、松下幸之助の著作を読んでその考えが間違いではなかったと思った。たとえ一流の人間にはなれなくても、一流の人間を目指すことは誰にでもできるのだと☆
<対応年代:20代>
京都にいたとき、Uちゃん(男)と知り合いになった。彼とはとある塾で出会った。
塾の仕事で一緒になったときは帰る方向が一緒ということもあって、帰る道々よく話をするようになった。
彼は当時医学部(国立大学)の学生であった。話を聞いて、医学部での勉強は大変だなぁと思った。
だんだん彼と親しくなった私は、時々食事をしたりしていた。
月日は流れて、彼が5回生になろうとしていた春のことである。私は久しぶりに昼間家にいたのだが、そのUちゃんから電話がかかってきた。
「○○さん、今日お時間あります!?」と聞かれたので、「今日は暇やけど。」と答えた。
「そんなら会って相談したいことがあるんですけど、会ってもらえますやろか!?」と言ってきた。それで私は、「なんかあったんかね!?まぁ、会ってからゆっくり聞こか。」と言って、JR京都駅で待ち合わせることにした。
Uちゃんは、新大阪に住んでいた。私は伏見に住んでいたので、京都駅で待ち合わせするのが丁度よかったからだ。
駅でUちゃんを見つけて一緒に地下街に入った。食事をしようと思ってである。おそば屋さんに入ったと思う。注文をすませて、Uちゃんの話を聞き始めた。
話の内容は次の通りであった。
付き合ってる彼女との間に子供ができてしまって、これから先どうしたらいいのか迷ってしまった。それで家族や周りの者に相談したら、せっかくここまで医学部に通ったのだから、がんばってあと2年何とか大学にいくことを全員からすすめられた。というものであった。
いろいろ話を聞いているうちに、「実は○○さんやけ言うんですけど、5回生になると実習ばっかりになる中、血見るのが怖いんですよ。」とぽつりとつぶやいた。
私は、ははぁ~んと思った。こいつ大学辞めたいんちゃうやろかと思った。
「Uちゃん、大学辞めたらいいんちゃうの!?」と私は彼にストレートに言った。「彼女が妊娠してなくてもそうしたかったんやない!?」とその後に付け加えて言った。
それを聞いたUちゃんは、目をパッと見開いて、「うわっ、きっついこと言いはりますね。でもそれ本心ですわ。」と言った。
みんなから大学辞めたらいかんと言われる中、彼はきっと私からその反対のことを言ってもらいたかったに違いない。なぜなら、私がそんな性格の男だとUちゃんも分かっていたからだ。
私は、「他学部で考えたら、丁度大学卒業する年やけいいやん。就職先のことは俺が何とかしてやるけ。」とUちゃんを励まして言った。
「ありがとうございます。」とUちゃんは深々と頭を下げた。「さぁ、食べよや。」と私は言って注文していたそばを食べ始めた。
それからちょっとして私はトイレに行った。戻ってきたとき、ハッと思った。なんと、Uちゃんの後ろ頭の上の方に大きな10円はげが二つあったのだ。
「Uちゃんどうしたん!!その頭!?」と思わず大きな声を出してしまった。その声は店の中にいたお客さん全員の視線をあびる程のものであった。
Uちゃんは恥ずかしそうに、「この件のストレスでこないなってしまいました。朝起きて髪の毛といたら、ブラシに髪の毛がめっちゃついてたんです。」と答えた。
食事をすませると私はUちゃんを[ア○ラ○ス]に急遽連れて行った。彼の髪を一日でも早く取り戻したかったからだ。
家に戻ってからは、友人・知人に電話をして彼の就職のお願いをしまくった。Uちゃんにまかしときとは言ったもののあてはそう簡単にはあろうはずはなかったからだ。
某公務員のお偉さんの父親をもつUちゃんにとって大学を辞めて働くことを認めさせることは並大抵のことではなかったに違いない。
彼女の方も父親はN○Kのアナウンサーであったので、なおさら彼にとっては大変だったことだろう。
彼の頑張り=説得と私の援護射撃=就職先確定によりUちゃんは大学を辞めた。就職して何ヶ月後かに晴れて彼女と結婚した。
結婚式ではテレビで見たことのあるアナウンサーの方が式の司会をされていた。いい結婚式であった。
あれからもう10年以上の歳月が過ぎた。Uちゃんはバリバリ仕事をして大阪市内にマンションを購入して今は3人の子供たちに囲まれて暮らしている。
奥さんとなった彼女からは、「あのとき○○さんの一言があったから今の私たちがあるのだと思います。本当にありがとうございました。」と以前電話したときに言われたことがあった。
人の将来=幸せはどうあればいいかなどということは本当のところ誰にも分からないと思う。
その人のためを思うが故に間違った選択をさせてしまうことだってあるかもしれない。Uちゃんにとって私は、近すぎず遠すぎずの存在であったのではないだろうか。
程よい距離にいることで、客観的に彼のことを判断できたことがきっとよかったのだろう。
教育に携わる今の私には正にこの程よい距離を生徒との間に保っていくことで、生徒一人一人に明るい将来への「切符」を持たせてやることができるのではないかと思う☆
そしてその「切符」は21世紀幸せの駅へと必ずや導いていってくれるに違いない♪
<対応年代:20代>
中学に入って初めての授業は国語だったと思う。ヘレンケラーの話が教科書に書いてあった。
自分は目も見えるし、耳も聞こえる。この当たり前のことがどんなにありがたいことかよく分かった。
ヘレンケラーに恥ずかしくないようにちゃんと勉強しようと思い、中間テスト=中学初のテストはがんばった☆
結果はよく覚えていないが、確か5教科のうち国語以外は100点だったと思う。やはりヘレンケラーの問題は全部できないよな、と当時妙に納得していた。
私は学校のテストを受ける際には、いつも出題する先生のことを思って勉強していた。そうすることで試験勉強におもしろみをもたせることができた。
あと数字を覚えるのが結構得意だったので、例えば音楽の♪でドを1、レを2のように置き換えて覚えたりしていた(笑)。
家では祖父があまり勉強するのを好ましく思ってはいないようだった。「1日2時間以上勉強するのは毒だ!」などと祖父からよく言われたのを覚えている。
だからと言って勉強しなくてもいいということではなかった。祖父は、「たとえ短時間の勉強でもそれを毎日やり続けることが大切だぞ。いかなるときでもやれるようになれれば本物の実力者になっているはずだ。」と私に言ったことがあった。
私はそれを小さいときから守ってきていた。そりゃ風邪をひいて熱が出たりしたときは勉強しなかったが。
季節はいつの間にか過ぎ去り、3学期になっていた。中1最後のテストは実力テスト=対外模試であった。
1日で5教科全てを受験するので結構疲れるだろうな、いやだなぁと思って、その日は学校に出かけた。前日に祖父は私の気持ちを察してか、「試験受けるのいやなら学校休んでもいいぞ!?」と言ってくれた。
試験が始まった。まずは、国語のテストであった。テスト問題の字が緑色なのには驚いた。ちょちょいといつもの具合に問題を解いてのんびり見直しをしたりしていた。
なんか実力テストの割には時間があまるなぁと思っていた。ひょいと隣のやつを見てみたとき「あれっ」と思った。なんと裏にも問題があることが分かったのである。
私はあわてた。それまでテスト用紙はいつも表にしか問題がなかったので、まさか裏に問題があるなどとは夢にも思っていなかったのだ。
しかし、現実、こうして裏に問題があったので、急いで解くしかなかった。試験時間はもう残り5分ちょっとだった。私は見事に実力テストにやられてしまった。
やられた、と思ったが、いやいや気をとり直してあと4教科点を取りにいくぞ~と心の中でつぶやいた。
もうひっかかりはしなかった。平常心を取り戻した私は残り4教科のテストはすんなりとすますことができた。
家に帰って夕食のときに祖父母に、「テストに見事にやられてしまった。やはり相手=テストの形式を知ることが大切だと思いしらされた。」と話した。
すると祖父に、「いい勉強になったみたいだな。学校休まんでよかったな(笑)。」と言われた。祖母はただほほえんでいた。
その後実力テストの結果=成績表をもらった。教室で担任の先生が生徒一人一人に前で渡していった。
前話(第14話)の演劇部の子とは中1のとき同じクラスだった。私とその子は同点1位になっていた。その子は成績表をもらうと私のとこにすかさず来て、「あんた何点やった!?」と私に聞いてきた。学内トップになれたことがよほど嬉しかったに違いない。
私は中学に入って初めてテストで人に並ばれた。学校=校内のテストしか受けたことのない私と、塾で実力=対外テストを受けたことのある彼女(中1のときからずっと進学塾に通っていた。)との差がうんだ結果だと思った。
残り全て満点で何とか切り抜けたつもりでいたが、やはりそう甘くはなかったようである。
あと1点とれていればと最初は思ったが、とれなかったことで彼女は初の校内1位を獲得できたのだから、メデタシメデタシと思い直した。
相手=テストの形式を知ることは、今の世の中では情報をいかにうまくキャッチできるか、ということを意味しているのではないだろうか。
そのコツであるが、私なりに分かったことは、
①毎日わずかでもいいが必ず継続して努力すること。
②ときには思わぬ失敗にみまわれてみること。
③そして何よりも大切なことは、その情報を一人締めすることなく仲間と分かち合うことのできる豊かな心を持ち合わせているか、ということ。
であった。
21世紀、高度情報化社会に向かっていく今を愛する人々と心豊かに生きていきたい♪
<対応年代:10代>
中学1年生の2学期が始まって間もなくの頃、国語の授業で朗読をさせられた。
その日の昼休みに校内放送で職員室までくるようにとの担任からの呼び出しがあった。私は、また何かしたかな!?と思いながら職員室に行った。
担任を訪ねると、国語の先生と一緒だった。担任の先生から、「さっきの授業ですごく本読みがうまかったそうじゃない。それで頼みがあるんだけど、演劇部に入ってくれんかね。」と言われた。
それを聞いて、「はぁ?」と私はとっさに答えた。何でまた自分が演劇をしないといけないのかさっぱり分からなかったからである。だいいち私は卓球部に既に所属していた。
「実は演劇部には今男子が一人もいなくて困っているのよ。今年やる劇も男子役を女子に変えて練習しているのよね。」と担任の先生は言われた。
そんな中、演劇部担当の先生が話に加わってきた。その先生に、「どうかお願いします。部を助けてやって下さい。」と言われた。
困っているのを見捨てるのはしのびなかったので、「じゃ、やってみます。でも卓球部もあるのでその点考慮して下さい。」と私は言った。
翌日から卓球部の練習後、演劇部にいくことになった。2時間近く運動をした後の演劇であった。発声練習は腹筋運動にもなるからまぁいいか、などと気楽に考えてやっていこうと思った。
家に帰るのは当然遅くなる訳だが、祖父には演劇をやり始めたなどとは言えなかった。なぜなら明治生まれの祖父は、質実剛健=硬派そのものだったからである。
祖母には頼まれてしぶしぶ演劇をすることになったと話をした。祖母は「大変やねぇ。」と笑いながら私に言った。
それから2年が経ち私は3年生になっていた。部員数も増えていた。男子部員も何人も入部していた。
運動部員にとっては夏の大会が最後だが、演劇部は2学期までその活動があった。発表会に向けての練習は秋から冬にかけてがメインであった。
中3のメンバーは受験があるので、私以外はみんな塾に通っていた。私は卓球の練習もなくなっていたので、演劇の活動に時間をかけることができた。
その頃には祖父にも何とか演劇をやっていることを理解してもらっていたので、心おきなく活動に専念できていた。
発表会も間近にせまってきていたある日、部員のみんなが一生懸命各自の分担のことをやっている最中、「私塾があるから帰らないと。」と言って、一人の中3女子部員が帰ろうとした。
その日は前々からみんなで残って仕上げをしましょう!!ということになっていた日であった。
私は、「なんで帰りよる。ちゃんと最後までおりや。」と強い口調でその子に言った。彼女は前々から結構わがままを部の中で通してきていた。親が教師で演劇部担当の先生と知り合いだったから、多めにみてもらっていたのだろうが。
今日この人を帰したらこの人のためにならんし、全体のまとまりも失われてしまうから絶対に帰したらいかんと思いつい強い口調になってしまった。
その部員の子は、少し半べそになって残っていた。それを見た私は、後日、先生(担任)にまた何か(演劇部担当の先生から担任の先生に回ってのこと。)言われるだろうなと思った。
しかし意外や、担任の先生からは何も言われなかった。私の担任はどちらかというと演劇部担当の先生とは馬が合っていなかったようで、それが幸いして私はおとがめ無しってことになったのだろうか(笑)。
月日が流れ高校生になって暫くたって町でたまたまその子に会った。彼女は予定通り進学校に合格してその高校に通っていた。私も一応進学校にいっていた。(祖父・父と通っていた同じ学校。)
「久しぶりやね、元気!?」と私は話かけた。それに対して彼女は、「まぁ、なんとかね。」と答えた。
「ふ~ん。」と私は小さくうなずいた。すると彼女は、「あの中3のときは、なんてひどいヤツと思ってたけど、今は私が悪かったと思ってるから。じゃ、元気で!!」と言って行ってしまった。
後で知ったのだが彼女は高校に入ってから成績はそれほどよくなく、部員で一緒に同じ高校にいった子に「世の中、勉強だけじゃないよね。」と言うようになっていたそうである。
本当に相手のことを思って発した言葉であれば言われた当初は憤慨するようなこと=納得できないことでも時間がたてば相手が言っていたことを十分理解できるようになれるのではないだろうか☆
そしてその言葉を誰かが言わなければならないのなら、私はこれからもあえて「悪役」になろうと思うのである♪その人の未来(あした)への幸せのために!!
<対応年代:10代>
学生時代にはよく一人旅をしていた。何気なくぷら~っと出かけて、何かしらの刺激を受けて、それをバネにまた物理にいそしんでいた。今回はその旅の中から一つ綴ることにしたい。
私は関東地方に行くことはめったになかった。東京の人の多いイメージが勝手に頭の中にできあがっていたからだ(笑)。
そんな関東地方になぜか行きたくなって、「ぷらっと一人旅」に出かけた。行き先は小田原方面であった。
京都からJRで適当に乗り継いで行った。旅はその目的地に着くまでの途中も十分楽しめる。電車に乗ってくる乗客の様子を見聞き(=その地方の言葉を聞いたり)するのは面白かった。
また、電車の窓から見える景色を眺めながら物理のことをボ~ッと考えるのもいい感じであった。
小田原の散策を一通り終えた私は、とあるデパートに入った。別に何かを買おうと思って入ったわけではなかった。
電器製品の好きな私は自然と電器製品の階に足を運んでいた。あちらこちらの製品をキョロキョロ見ていたが、あるショウウィンドウの中に展示してあった物に目がとまった。
それは、電気炊飯器だった。メーカーはナショナルであった。
学生生活を送るようになって一人暮らしを始めた当初、祖母が1合炊きの電気炊飯器を持たせてくれた。ご飯の好きな私はこの炊飯器では、お茶碗2杯分にしかならないので、もうちょっとご飯が食べたいと思ったら、再度ご飯を炊かなければならなかった。
だから、もっと大きい炊飯器があればいいのになぁと思っていたのである。
5合炊きのその炊飯器を見たとき、「買って~!!」とまるで炊飯器が私にしゃべっているような感じを受けた。ピ~ンときた思いがした。
「よし、これを買うぞ~!!」と心の中でつぶやいて、直ぐに公衆電話から祖母に電話をして郵便局の自分の口座に21,000円入れて欲しいと頼んだ。
当時1ヶ月6万5千円で生活していたことを考えると、この炊飯器の値段はそこそこ高かったようだ。
祖母は私の頼みを聞いてくれなかったことはなかった。祖母いわく、私が考えた末での頼みであろうから、間違いはないはず、とのことで聞き入れてくれていたのだ。
お金をキャッシュカードでおろしてその炊飯器を買った足で京都に戻って行った。旅行はもうおしまいであった。私は、この炊飯器ではやくご飯を炊いて食べたかったからである。
以来、その炊飯器は私の下で20年以上もご飯を炊き続けてくれた。ナショナルは私の好きなメーカーである。いいものは少々高くてもずっと使用できる長持ちくんである。
今の時代、携帯電話機をはじめ、多くの商品が短期的消費を目的に作られているのではないかと思えてならない。
気にいったものは長くもつことでその味をだし、持ち主にさらなる心地よさを提供してくれるのではないだろうか!?
ものを大切にする心が、しいては人を大切に思う気持ちを持たせ、勝ち組・負け組ではなく、「共生」の道を開いていくことにつながっていくのではないだろうか♪
自身と相手を大切にした「共生」の道を歩めるよう私もさらなる努力をしていきたい☆
<対応年代:20代>
梅雨の時期になるとふと思い出すことがある。
会社を設立してまだ半年も経たない頃、とある地方議員さんとその奥さんのお友達にPCのお世話とサポートをして欲しいとの依頼がきた。
当時、会社の運営が軌道にのるまでの間ということで、関西から友人が応援にきてくれていた。その彼がとってきた仕事であった。
私はデスクトップパソコンをハンドメイドにより提供していた。メーカーのPCではなくオリジナル的なものを好むお客さんにとってはこの手作りパソコンはうけがよかった。
が、そういうお客さんはある程度パソコンのことを知っている人たちであった。
だからこの話を聞いた時、「普通のお店で売ってるPCでいいんじゃないかな!?」と友人の彼に言ったが、彼は、「それではうちのアピールにならないし、もう話を進めてしまったから。」と言い返した。
私は、彼がせっかくとってきた仕事なんだし、とこの件を承諾した。
商品を無事納品してその後のサポートもやっていた最中、議員さんの奥さんがうちのPCにケチをつけてきた。奥さんは、PCは全く使用していなかった。
私のところのPCが高かった、というのがクレームの全てであった。そこを通してあと2台納品していたが、3台とも返品の上、支払い代金を全額返金して下さい、という連絡が入ってきた。これには驚いた。
既に納品して1ヶ月以上経過していたので、めちゃくちゃ言いよるな、と少し憤慨した気持ちになった。
私は、議員さんにはお世話になっていたが、奥さんとは殆ど面識がなかった。家の中のことは奥さんが仕切っていたらしく、議員さんはこの件に関して何も言ってはこなかった。
友人の彼に、「議員さんの立場を考えて、この件は奥さんの言う通りにしとこう。段取りの方宜しく頼みます。」と言った。
それに対して彼は、「お金返さんでもええんちゃうの!!」と聞いてきたので、「今は損をしよや。」とだけ答えた。
梅雨のある雨の夜、私は議員さん宅にPCを引き取りに行った。奥さんにお金を渡してPCを車に詰め込んでさっさと戻ろうとしたとき、議員さんが玄関から出てきた。
車に乗ろうとしていた私に議員さんは、「○○くんすまんね、許して欲しい。」と言って深々と頭を下げられた。
私は、「気になさらないで下さい、私は大丈夫ですから。」と言い、笑顔で別れた。
帰りの車の中で、「この仕事はすべきではなかった。しかし、承諾したのは私なのだから、責任をとらねばならないのは当然である。」と思った。そして、「今後このような失敗をしないよう心がけていこう☆」と決意した。
この件は、私のその後の仕事のあり方を決定するものであった。
それは、私の直接知りうる範囲のお客さんとの関係において我が社はうまくやっていくことができるのだ!!ということであった。
このやり方では会社を大きくしていくことは無理に違いない。だけど、小さくても堅実な会社にはしていけるはずである。
みえないお客さんではなくて、傍にいるお客さんへのサポート=心と心がふれあえる、そんな仕事にこれからもずっと携わっていきたい♪
<対応年代:30代>
大学(学部生)のとき、会社案内か何かで某電気メーカーを訪ねたことがあった。
いろいろ説明を聞いて最後に副社長のお話ということになった。その会社は兄弟で経営をされていてその当時、お兄さんが社長で弟さんが副社長であった。
副社長さんは、「うちの会社に入って、是非みなさんの力を思う存分発揮してもらいたいですね。」と言われた。私自身はその会社に入りたいなどと思ってはいなかったが、そんなふうに言ってもらえることは光栄なことだと思った。
その後話が続いて、「うちの息子も今ちょうど皆さんと同じ学生生活をおくっています。私は息子にすすめてさせているアルバイトがありますが、なんだかわかりますか!?」と私たちに尋ねられた。
なんだうかな?って考えている間に副社長さんが話し出した。「それはですね、コカコーラの運搬の仕事です。その仕事は結構きついですよ、夏は汗ダクになりますし。でも私は、息子にその仕事を通して、下の者の立場や気持ちを理解してもらいたいと思っているのです。いずれ経営者となって人を導いていかなくてはならなくなったときにその経験は、きっと大いに役立つに違いないからです。」と。
私はその言葉にずっしりしたものを感じた。おそらくその場にいた他の人も同様であったろう。
我が子の将来を真に思いコカコーラのアルバイトをさせている副社長さんの愛情の深さを感じたのと同時に、人の上に立つことの厳しさを実感させられた。
帰り道に「自分も副社長の息子さんのように地道にコツコツやらねばならないぞ!!」と心の中で何度もつぶやいていた。
今(当時)の自分にできることは、物理の基本にもう一度立ち戻って自分なりの思考の構築を形成していくことで将来の糧としていくことである、と考え勉学にいそしんでいった。
幸い自分には向いていたのか物理の力をつけることができ、学問=物理学としての領域にやがて到達していくことができた。
やがて教育の仕事に携わるようになった私は時々この副社長さんの話をする。生徒たちに、
①将来人の上に立っていことうと思うのであれば、まず人から使われてみること。
②それを通していやな思いをしたならば、自分ならこうしたり言ったりするのにな、と考えていくこと。
③逆にいいな、と感じたことは大いに参考にして自身に身につけていくこと。
の3点を含めておもしろおかしく話す。
これからの日本の将来を担うリーダーとなっていく若者たちには是非、人のいたみのわかる人間として生きていって欲しいと思うから。
<対応年代:20代>