小さいときからチョコレートが好きだった。そのせいで虫歯になり10歳の夏(小4の夏休み)、私は歯医者にすっかりお世話になってしまった。
虫歯だらけの歯をみた歯医者さんは、「こりゃ痛いやろあちこち。よう我慢しとったね。」と言われた。
私はこれからの治療での痛い思いのことが頭からはなれず今の痛みはなんだかそっちのけになっていたので、「はぁ。」とだけ答えた。
治療は何をどうしていったかもう記憶にはないが、痛かったということはしっかり覚えている。注射をしていてもキィ~ンとくる痛みは涙が出てくる程のものだった。
子供ながらに、こりゃ治療が終わるまで大変だ。だけど辛抱するしかないし、とにかくがんばろうと思った。
夏中かけて私の虫歯治療は一応終わった。すんだときには心底ほっとした。
そして今後はちょっとでも変だな=痛いと思ったら歯医者にすぐ行ってみてもらおうと強く思った。
その後京都で歯医者に行くことになったが、行った所が悪かったのか、俗にいうヤブ医者=へたくその治療であった。
祖母の知人であったあの歯医者さんはうまかったんやなぁとつくづく感じた。(30年近く治療してもらったとこは大丈夫であった。)
歯の痛みには不思議なことがある。ここが痛いと思って歯医者に行くと実は別の歯だったりする。これは脳の錯覚(勘違い)なのだろうか。
歯の痛みの錯覚は歯医者さんに行けば一目瞭然に分かる。が、もしこれが人生=生きていくうえにおける錯覚(勘違い)だったらどうなるだろうか。
錯覚を錯覚だと分からせてくれる人が傍にいればよいのだが、そうそう自分に合った名医はいないのではないだろうか。
私はナショナルの創始者である故松下幸之助氏の書いた書物を通してその錯覚を錯覚だと分からせてもらったことが何度かある。
人をどうしたら幸せにできるか、その一点で物事を眺めれば、今己が何をなすべきか自ずと分かるものである。これは私が尊敬するその松下氏の多くの言葉から得た結論であった。
松下氏のように世界中の人々に対して幸せの発信はできないかもしれないが、せめて私を信じてついてきてくれている方々の幸せを常に念頭において生きていきたいと思うし、そのための日々の努力を決して怠ってはならない☆
少なくとも人から先生と呼ばれている私だから。
<対応年代:10代>
今の社会の中で車はなくてはならない存在だと思う。今回は私の車の免許取得に関わる話です。
教習所は毎週土曜日が開講日であった。入校日の初回の簡単なテストで、「信号の黄色は止まれという意味で、赤は止まっているという意味です。」と担当教官が言われた。
自分は、黄色が注意で赤が止まれと思っていたので違うんだと思った。物理をやっているとこれと同じようなことを時々体験していた(日常の常識と思えることが、物理=自然界の常識では間違っていることがあったりすること。)ので、免許取得もフラットな気持ちで受けいれていこうと考えた。
教習は1回50分の実習になっていた。モニタを見て希望の日時と教官を選ぶ仕組みだった。私はどの教官を選んでもたいした違いはないだだろうと思い適当にS教官を選んだ。
そのS教官との初回の実習で、教官と気が合わないことが分かった。私よりもむしろ教官の方が相性が合わないと強く思ったのではないだろうか。
いやなら教官を別の人にすればいいのだが、私は初志貫徹を決めていたので、この人でいやになりまくってみようと思った。
S教官からは実習中しばしば皮肉のようなことを言われた。「運転に向いてないんじゃないですか。」などは毎回言われたような気がする。
よく考えてみると私は自動車というものをよく知らなかった。祖父も祖母も免許を持っていなかったので、家にはもちろん車はなかった。
だから車のドアを開けて乗ることもそうそうしたことはなかったので、初心者そのものであったのだ。
S教官に「教官の言われる通り私は車を運転するのに向いてないかもしれません。ですが車は今の社会では必要不可欠のものになるでしょうから免許を取りたいと思いこの教習所に来ました。向いてないと思うからより慎重になれると思うのでこれからもビシビシ言って指導して下さい。」と言った。
私は今S教官にとことん言われていれば免許を取ったとききっと自分に役立つはずだからと信じていた。
そんな中いつものように教習所に行き、S教官を車の側で待っていた。
すると私の前に別の教官が現れて、「今日は私が同乗しますから。」と言われた。あれっと私は思ったが、教習はしないといけないので車に乗り実習をした。
代わりの教官はS教官とは全然違い、優しい対応だった。「ちゃんとできてますね。」と終わりがけにその教官は私に言われた。私は、「そうですか、ありがとうございました。」と答えた。
その日の帰り道に思った。S教官がいかに厳しくやっているのか。そしてそれが自分のためになっているので最後まであの人に習うぞ!と。
その後仮免→本免(実技)までさらにずっとS教官の指導のもと私は無事に教習所での内容を終えることができた。
期間を通していつも注意ばかりされていたが、①仮免のペーパーテストで満点だったことと、外に出ての実習の時、②電信柱と電信柱の間隔がどれ位か知っていたことと、③テキストにはのっていなかった車道外側線のことを答えられたことの3点はほめてもらえた。
自動車の免許がとれたその日にS教官にお礼を言いに行った。S教官は、「よかったですね、運転には気をつけて下さい。」と初めて笑顔を見せてくれた。そしてあの1回の別の教官との実習はS教官がわざとしたことであることも聞いた。あれで別の教官から指導受けるのもいいかと思ったそうだ。かわらなかった私のことをシツコイやつだなぁと思っていたそうである。
私は、「そうだったんですか(笑)。でもそのおかげで今日免許を無事にとることができたと思います。本当にありがとうございました。」とS教官に言った。
あれからもう何年たったことだろう。今でも車を運転するとき、S教官から言われたことを思い出す。私の身体の中にS教官の教えがいきている、そんな感じである。
私は多少なりとも人にものを教えることに携わっている。だからS教官のように今は分からなくても将来必ず役にたつことを相手に伝えていきたいと思うのである。そこに真の教育があると信じているから☆
<対応年代:20代>
高1のとき新聞配達をしたことがあった。友人から頼まれて夏休み前から2ヶ月程度やった。
早起きするのはそれなりに気持ちのいいものだった。夏だからそう感じていたのかもしれない。
高校に入ってから運動らしきものをしていなかったのでいい運動になると思いがんばった。が、運動だけではなく+αのことを学ばせてもらった。
それは、迅速に・正確に・丁寧にの三つの「に」が新聞配達には欠かせない大切な要素だということであった。
雨の日には1部ずつ薄いビニール袋に新聞を入れて配った。新聞のくるのを待っている方がいることも知った。
私は新聞を殆ど読んだことがなかった。中3の時、受験勉強に役立つからと朝日新聞の天声人語の要約をする課題が国語の先生からだされた。冬休みの宿題だったと思う。
その課題、私は一つもできなかった。天声人語の部分を切り取ってノートに貼って何も書かずに提出した。国語の時間にものすごい剣幕で先生に注意された。
どういうつもりでこんなことをしたのか?というようなことを聞かれたので、私は、「天声人語はそれで既に完結された文章のように思えてとても要約などできませんでした。しかも天声人語を書いている方たちはそれなりの人でしょうからますます書けんなぁと思ってしまいました。」と答えた。
先生は真っ赤な顔をして、「ふざけるのもいい加減にしなさい。」と言われた。私はその授業中ずっと立たされてしまった。
先生には申し訳ないと思ったが、できないものはできなかったので仕方ないと思った。ただ天声人語はその期間の分全部読んでいた。そのことは分かって欲しかった。
そんなこともあったので、朝日新聞を配りながらちょっと不思議な感じがしておかしかった。
祖父から「新聞配達はどうか!?」と尋ねられたので、「いい勉強になっとる。やれてよかったよ。」と答えた。
どんな小さな仕事でもそこから学ぶことは必ずあるはずだ。しかし、学ぼうとする姿勢がなければそこから学ぶことは難しいのではないだろうか。
新聞配達をしてもらったアルバイト代で私は眼鏡のレンズを替えることができた。初めて自分で稼いだお金で買ったものであった。
<対応年代:10代>
夏休みの終わった中3の2学期ともなると殆どの人が塾に行っていて、塾に行っていないのは自分と友達の二人になっていた。
その友達は勉強はさっぱりだった。が、気持ちのほんとに優しいやつだった。
祖父から「塾に行かせるお金はうちにはないからな。」と私は言われていた。塾に行きたいと私は思ったことはなかったので、むしろほっとしていた。心の中で、「じいちゃん、あんがと。」とつぶやいた気がする。
学校が終わってからその友達とよく遊ぶようになった。特にこれといったことをしていたのではなく、お菓子を食べてただ喋っていたような感じがする。
私は勉強は何故か分からないが、よくできていた。というより、点を取るのがうまかっただけかもしれない(笑)。担任の先生から、「(その友達に)遊びがてら宿題教えてあげてね。」とか言われたりした。
しかし、その友達は大の勉強嫌いであったので、宿題をさせるのには苦労させられた。すぐやるのを止めようとして別のことに話題をかえるので、本当に少しずつしか勉強は進まなかった。
が、このことが今の仕事に役立っている。そう思うと、人生無駄なことなど一つもないに違いない。
やがて冬になり私は入試を間近に控えるようになっていたが、その友達は高校進学をしないことになっていたので、私は相変わらず彼と一緒に過ごしていた。
彼は何故か私の入試勉強に付き合ってくれるようになっていた。勉強は彼が私に質問し、それに私が答えていくというものであった。
このやり方は私にとっては入試のまとめのようになってありがたいものであった。彼の?に答えることは入試問題を解くよりも難しいことのように思えることも多かったのだが。
勉強の合間によく肉マンを一緒に食べた。その友達は、「おまえホントによく勉強できるもんね、なんでやろ!?」と肉マンを食べながら私によく言っていた。私は、「運がいいけ点がとれよるんやない。」と笑いながら返事をしていたのを覚えている。
今思えば、学年どんビリとトップの面白いツーショットであった。私は彼のことを気にいっていた。
私につきあってくれている彼のためにも頑張ろうと思っていた。目標として、入試前最終回の実力テスト(対外模試)で自己ベストをだすこととした。
結果は、学区1位の自己ベストで締めくくることができた。その友達は我がことのようにその結果を喜んでくれた。
彼は今どうしているのだろうか?私が高1の時彼はある傷害事件を起こしてしまって家族もろともいずこかに行ってしまった。
「100円貸して欲しい。」と言って、私の登校途中に会いに来たのが彼を見た最後であった。その後、彼は事件を起こしたのだ。
あの時彼の変化に気付き、学校をさぼってでも彼の話を聞いてやっていたら事件なんか起こさなかったんじゃないか、と何度も考えた。
この空の下、どこかの地で彼に今も優しい気持ちを忘れずに元気に過ごしていてもらいたい。
<対応年代:10代>
京都から戻って暫く仕事もなく過ごしていたある日のことである。小・中学生の登校している姿を何気なく見ていた時、ふと思った。子どもの勉強なら教えられる、これをやってみよう!と。
京都にいた時、塾の手伝いをしていたことがそういう気持ちにさせたのであった。今自分にできることをやってみようとの思いで、私はパソコンでドリルのようなものを作っていった。
当時、「不登校の生徒に何かやらせるいいものはないかねぇ?」と知人の教育委員会の恩師に言われたことがあったからだ。
不登校の生徒にPCを貸し出してそのドリルを課題として与え、1週間に一度家庭訪問をするかたちで学習指導をしていくことを考え、実行していった。
1日2~3人を目安に頑張って指導してまわった。生徒は、知り合いルートを通じて紹介してもらっていた。そんなに多くはみれないので自分としては丁度いい人数だった。
生徒の中には人間不信となっていた子もいて部屋に入れてもらうのに3ヶ月もかかったこともあった。
生徒とちゃんと向き合うことでやがて信頼関係が生まれ、勉強をするようになって、しいては学校へ行ってくれるようになった時は、ああこの子をここまでみれて本当によかったと思った。
そして、自分も人のために役立つことが少しはやれているんだと思い、さらなる努力をしようと考え始めていた。そう、これがフリースクールの出発点だった。
夜、ひとしきり降る雨の中を歩きながらある決意をした。それは、人のためになることをコツコツやっていけば必ず道は開ける、無職に近い今の状態から3年以内には形のあるものにきっとしてみせるぞ!、というものだった。
翌年から朝・昼は非常勤講師をし、夜はフリースクールの生徒をみていった。少々しんどかったが、毎日が充実していた。気持ちはいつも頑張るぞ~とはりきっていた。
やがて3年、32歳の秋、私は有限会社を設立した。
<対応年代:20代~30代>
子供の頃から電器製品をいじる(ばらして元に戻す)のが好きだった。かめのおもちゃを元に戻せなかった時のことである。祖父から「元に戻せないのなら分解するな!」と言われた。
ばらしている間に元に戻す時のことを考えずにやってしまったために元に戻せなくなってしまっていたのだが、その時はそのことに気づかなかった。
祖父に言われたこともあったが、それからは慎重に分解することにした。数学に証明というものがある。結論が分かっていてその結論までのプロセスを導くものである。それと分解は同じようなものであると気づいていった。
小学校高学年にもなると結構手先も器用になって分解して戻すのが面白くなっていた。
やがて高校生となった私はとある電器屋さんによく通うようになっていた。そこの店長さんがすごく電器製品に詳しい方でその上電気のことにも精通していたので私はいろんなことをその店長から教えてもらえた。
私はやがてこの電器屋さんで働けたらなぁと思うようになっていた。高2の頃にはかなりのレベルまでいっていたようで、店長さんも冗談っぽく「ここで働けるね、もう。」とか言われるようになった。
ここで働くぞ!という気持ちが強まっていった。店長さんに「本気でここで働きたいと思います。」とやがて打ち明けた。それに対して店長さんは、「それは嬉しいねぇ、でもきみは大学にいくべきじゃないかな!?大学を出てからでもうちには就職できるからさ。」と言われた。
後に知ったのだが、店長さんは大学にはいってはいなかった。だから大学にいける者はいく方がいいと思われていたのだろう。
「電気のことにもっと詳しくなるためにも大学にいった方がいいと思うよ。」という店長さんのさらなる言葉にそうした方がいいんだろうなと思った。
高2の春休みに進学を決めた私は大学に進学し大学院にさらに進学した。大学院3年目(博士課程後期1年)の冬、当時人気のファンヒーターが欲しくなった。帰省した私はその電気屋さんに買いに行った。
ホワイト系の色の方がどうしても欲しかったのだが、超人気で品切れとのことだった。コンピューター検索にて全店舗の在庫を調べてもらったが、やはりなかった。
がっくりした私は翌日かつて店長だった方=おいちゃんが今いる店舗に出かけて行った。
おいちゃんは本店の店長になっていた。気楽に「こんにちは。ご無沙汰しています、おいちゃん。」とか言ってしまった。おいちゃんは出世してその時常務取締役になっていた。
気さくなおいちゃんは私の申し出に対して、「分かった、すぐその色の分送るように手配しといてあげるから。」と言ってくれた。
「でも全店舗でないってことでしたが、大丈夫ですか?」と私は聞き返した。すると、「大丈夫やけ。」と笑顔で答えてくれた。
京都に戻った翌日に確かにその色の製品が届いた。嬉しかった、と同時に、おいちゃんやるな!と思った。
今思えば一部上場した大企業の常務になっていた方においちゃんはなかったが、以前から知っていたことがそれを許してくれたのだろう。
人と人との出会いは不思議なものである。あの時のおいちゃんがまさか常務になるとは思ってもみなかったからだ。
おいちゃんのように電器屋さんに勤めることにはならなかったが、今もあの頃の店長さんのアドバイスは私の中で生き続けている。
<対応年代:幼少~20代>
京都での一人暮らしにもだんだん慣れたきた頃のことだった。とある集まりで私は一人の先輩と出会った。この出会いこそ私の大学生活に最も大きな影響を与えるものとなるのだが、当初は単なる先輩・後輩のものと思っていた。
高校まで数学は得意中の得意だった。中3の夏に高1の内容まで勉強して冬休みにはテレビのNHK高校通信講座(微・積)をみたりしていた。その後高1の半ばで高校の数学の内容は一通りやり終えた。
しかし、私にはどうも数学というものがみえていなかった気がする。ひろがりを感じることができなかったからだ。
集まりの後、偶然その先輩に会った。その時どいういきさつであったかは覚えていないが、先輩の下宿先に行くことになった。
先輩のところでいろんな話を聞いた。大半が学問的なことだったが、自分にはとても新鮮で興味深く思えた。
いくつか質問をされた。自分の分かる範囲で素直な気持ちで正直に答えていった。学部生の私にとって既に院生の先輩はレベル的に段違いに思えていたからだ。
先輩は私に言われた。「きみ物理やってみらんね。向いてるちゃうん!?」と。
私は、「そうですかね。」と答えた。
先輩は、「俺より多分できるようになると思うわ。だから明日から一緒にやろや、物理☆」とさらに言われた。
これがきっかけで、私は物理をやるようになっていったのである。最初は、高校の教科書の精読からであった。①どの部分があいまいであるのかを指摘すること。②そしてその部分を的確に示すこと。
この二つを徹底的にやらされた。厳しかったが実に熱心に指導してくれた。明け方まで先輩のところで過ごすこともしばしばであった。
そんなありがたい先輩ではあったが、唯一困ったのは先輩がヘビースモーカーだったことである。煙草を吸わない私にとっては、先輩の所から戻った時頭のてっぺんからつま先まで煙草のにおいだらけになってることは悩みのたねであった。
先輩は光学(応用物理学)が専門であった。「自分は企業に入るしかないが、きみは基礎をしっかりやりや。」とよく先輩は私に言われていた。*基礎とは理論物理学のことである。
先輩はその言葉通り、修士を終え、とある企業の研究室にいかれた。私は先輩の言葉を信じて物理をやり続けていた。物理はいつの間にか物理学になっていた。
物理学をやるには数学がどうしても必要である。今思えば何故に先輩が私の方が物理をやるのに向いていると言ったのかが分かるような気がする。それは私の方が数学ができると先輩は思ったからなのだろう。
数学をやっていたことは無駄にはならなかった。一見無駄に思えることがその後役に立つことも多々あるのではないだろか。
学問することの素晴らしさを身をもって示し、とことん指導してくれた先輩に今も感謝しています。
先輩はその後主任研究員となり世界で初となるものの開発に成功されました。
<対応年代:10代~20代>
子供の頃学校に行くのがあまり好きではなかった。不登校児になっていたわけではないが風邪を引いたら多めに休んでいた。1週間位休んだこともあった(笑)。
そんな私を認めてくれた小学校3・4年の時の担任の先生との思い出を今回は綴ることにしたい。
算数が結構好きでおもしろおかしくその当時勉強していた。乗数で面積が2乗、体積が3乗となることを知った。その次の4乗って何かなぁと思って算数の授業の時先生に質問した。
同級生の友達は、「そんなんないに決まってるやん。」みたいなことを言った。確かにそうなのだが、だったら何故ないのかも含めて私は知りたかったのだ。
先生の答えてくれた言葉は今はもう覚えてはいない。しかし、私の納得できる内容であったことは確かであった。先生の眼は優しく私を見てくれていた。私は先生は私のことを認めてくれているんだと思った。
物理を多少なりにもやった今思えばこの質問はナンセンスなものではなかったのだと分かる。
勉強のレベルでは無視されてしまうことが学問のレベルでは大切なこともある。だから子供の何気ない質問の中に実は真に迫る重要なことが含まれているかもしれない。大人はそれを見極めてあげられなければならないがなかなかそこまでの人はそうそういないのも事実である。
私は運よくその人に巡り合うことができた。物事をじっくり考えていくことの大切さと、裏と表の両面から物事をとらえることの必要性を先生は私に教えてくれたのである。
小学校を卒業して何年かたった頃、先生が私に会いたいとの連絡があった。私は先生に会いに行った。先生はそのとき末期ガンで自宅療養中であったのだ。
何をその時話したのか、これも記憶にないが、やはり先生の優しい眼が私をみつめていたことは覚えている。
先生は別れぎわに握手をして、「きみの思うように生きていって下さいね。」と言われた。私は一言、「はい。」とだけ答えた。
それから幾日かたって先生から手紙が届いた。将来なりたい者ということで、私はみんなに喜んでもらえるそんな人になりたいと作文に書いたことがあった。
他の生徒はなりたい職業とかを書いたのに私だけがそんなことを書いていたので先生は驚いたという内容が手紙に書いてあった。
そして、「今のその気持ちを忘れずに持ち続けて下さいね。先生遠くから応援してるから。」と書いてあった。
遠くからという言葉に涙が出てくると同時にそんな先生の温かな気持ちに感謝の念で心が一杯になった。
「先生、私のことを認めてくれた先生のようになれるよう頑張っていきます。だから遠くからあの優しい眼で見守っていて下さい。」、と心の中でつぶやいた。
<対応年代:幼少~10代>
大学を退き京都から福岡の地に戻ったのはとある年の春だった。戻った当初、気楽に先のことを考えていた。まぁなんとかなるだろうくらいに。
が、そうはいかなかった。仕事もみつからないまま季節は夏になっていた。雇ってもらえるところがなくて困ってしまっていた。変に長いこと大学にいっていたことが災いしていたようだ。
周囲の人たちからは、何のために大学院までいったのか気がしれないね、みたいな感じで言われたりもした。
つらくなって墓参りに行ったのを覚えている。墓の前で手を合わせて目をつむって亡き祖父に今の自分の現状を話してみた。何も返事はかえってこなかった。亡き祖父は無言であった。
墓から戻った私に祖母は、「英さん、京都から戻ってきてくれてありがとうね。」と言った。その言葉をきいた時、あっと思った。
人生は自分のためだけにあるのではない、自分を必要としてくれる人と共にあるのだと。今仕事がみつからないのは、祖母の傍にできるだけいてあげなさい、ということなんだろうと。
そう、祖父を亡くしてまだ悲しみから立ち直れていない祖母と一緒に過ごすことが今は重要なんだと思った。亡き祖父が無言だったのは自分のことしか私が考えていなかったからにちがいないと思った。
人はともすれば本当に大切なことを見失いがちだ。だからそれを見失わないために人生ときには立ち止まることも必要なのでないだろうか。
今思えば京都から戻って無職の時代があったからこそ、その後の私があったのだと思う。周りからどのように思われても自分を信じて日々の努力を忘れさえしなければいつかきっと花は咲くということを身をもって体験できた。
祖母はその後安らかに永眠した。
<対応年代:20代~30代>
私は学生時代を京都で過ごした。その街はかつて祖父と父・母が同様に学生時代を過ごした街でもあった。
もともと高校を卒業したら働くつもりでいた。とある電気屋さんでである。しかし結果は大学にいってしまった。
祖父は私が進路を大学進学に変更したいという希望に対して京都にいくのならいいんじゃないかと言ってくれた。
理由は祖父自身が京都での学生生活を送ったことからきているのだろうとそのときは思っていた。しかしそれだけではなかったことを高校を卒業した時に知った。
それは父・母が共に青春時代を過ごした場所でもあったからである。
今思えば私が勉強ができたのは多分に父・母のおかげである。ただあえて自分を評価できるとしたら父・母は文系で私は理系だったから理系科目については自分のがんばりでできていたんじゃないかということだ(笑)。
祖父母に育てられた私は父・母の面影を京都の町並みや大学のキャンパスの中にみていたような気がする。かつて父・母が訪れたのでないかと思う場所に大学をさぼってよくでかけたものだ。
そんなことも重なってか私にとっては古都京都は第2のふるさとになったようだ。
大半の時間を物理に費やしたが、実に多くのことを学問以外にも学べた気がする。心の中に亡き父・母がいつも傍にいてくれて見守られているような気持ちだった。
感謝しています、私をこの世に残してくれた父・母に。
<対応年代:10代~20代>