常に人をジャッジし、
自分から見て低いと勝手にみなした他者や状況を、
常に変えてやろうとし続ける。
それがどんなに傲慢なことかに無自覚なまま、
自分はいいことをしていると思い込む。
それが、世界中にみちみちている暴力的な状況を
ひきおこしている理由のひとつだと私は思っている。
『スロー・イズ・ビューティフル』の著書である辻伸一さんは、
この本を執筆する前、
第三世界というか、貧しいと言われている国々に行って援助する活動をしていたそうだ。
で、ある時、そういう国に行って、朝から晩まで測量したり、援助したりいろんなことを休む余裕もなくやっていたら、
その国の人が、すごくのんびりしたまま「たいへんですねー」と声をかけてきたそうだ。
その時、辻伸一はふと我に返って、「もしかしたら貧しいのは自分達のほうじゃないか」と思ったという。
それから、彼は、活動の形を変えた。
『スロー・イズ・ビューティフル』という本には、このように書かれている。
「世界危機を救う方法として、ひとつ、我ら熱狂的な運動家や活動家がいまだに提案したことのなかったものがあるんです。
それは、スローイング・ダウン、つまり減速すること。」
「エドワード・アビーがこう言ったことがあります。
「大地を守るために闘うだけでは十分とは言えない。それよりもっと大事なことがある。それは大地を楽しむこと」
いい忠告でしょ。でも残念、今は忙しくてそれどころじゃない。「私には救わなきゃいけない世界があるんだから」、なんてね」
「それらの問題をたててその対策に取り組むことが、いつのまにか、「生きる」ということのかわりをするようになってはいないか。
問題を追いかけることに忙しく、肝心の「生きる」ことがおろそかになってはいないか。」
「社会運動家や環境活動家も、「未来の子どもたちのために」といった美辞麗句ですませておくわけにはいかないはずだ。
(中略)
問題を「答え」と取り違えてはいないか。「答えを生きる」かわりに問題を生きてはいないか。「今」は未来の手段に成り下がってはいないか。ぼくたちの「今」は空しく、宙に浮いていはしないか。」
「我々の時代は、人々が必死に生きがいを求め、存在理由を探し、役割を模索して、それが思うようにいかない時には生きる気力を失ってしまうという時代だ。では、以前はどこが違っていたのか。「生きる」のに理由など要らなかった。「生きる」ということに過不足はなかったのだ。そう感じられたのはなぜだろう。多分、いのちというものが、自分にはおさまりきらない、自分を超えた、自分以上の存在だと感じていたからではないか。そこでは現代の我々が思うようにいのちは自分の所有物ではない。それは神秘であり、奇蹟。それは聖なるものと感受されていたのではないか。「今」はいのちの表現であり、「答え」。その「今」を、その「答え」を人間はひたすら生きてきた。」
私たちは、何かを貧しいと断定して、それを勝手に豊かにすることがいいことだと考える。
しかし、そもそも、それは本当に貧しいのか。
その枠組みを疑うところから始めないと、何かを大きく間違えてしまうのではないか。
私たちは、そうやって、自分の狭い尺度から、何か大切なものを破壊し続けてきたのではないか。
貧しいとか、未開とか、成長できてないとか、そういう自分目線の勝手なレッテルを貼り付けて。
そうやって、第三世界の聖地や大地は奪われてきたのではないか。
効率だとか経済だとか、その時流行の考え方の名の下に。
辻伸一もしばしば「そんなことで世の中が変わるのか」と、叩かれたそうだ。
だけど辻伸一はこう答える。
「ぼくたちの社会は、時代は、自己否定や自己憎悪という呪詛に満ちている。スロー・イズ・ビューティフルは、その呪縛に対抗し、そこから自らを解き放つための、自前のまじないであり、処方箋であり、心構えであり、祈りでもあります」
精神科医の斎藤学氏と共著。
『ヘンでいい。』(大月書店)
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