ハンターハンター紀行

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※この批評では文中に登場する作品のネタバレを含みます。

『ハンターハンター紀行』


大好きな漫画を読んでいてこんな事を思った事は無いだろうか?

焦らしに焦らされた凶悪な敵と主人公の直接対決がようやく実現!

なのにいざ戦いが決着すると……うーんなんか納得できない。
イマイチ思ってたのと違う…。

基本的にバトル物の話は、主人公が敵を倒した時に1番カタルシスが生まれるように倒すまでの過程や設定が作られている。

簡単な例を出すと、敵をメチャクチャ悪い奴にして、尚且つ主人公にその敵を倒す理由を与えれば倒した時に一定量のカタルシスが生まれる(例えばその敵が主人公の親を殺していたとか)。

しかし昨今はただそれだけでは読者は満足しなくなってきている。
これだけではカタルシスは生まれづらくなってきているのだ。

では現代のバトル物においては何が必要なのか。

それは、『なぜ勝てたのか』
そのためのロジックが必要なのである。

そしてこのこのロジックには実は2種類あるのだ。


『物理的ロジック』と『精神的ロジック』の2つだ。
 

カタルシスが生まれなかった。
つまり読んでいてなんか納得できなかった時は、
この2つのロジックの要素がどちらも無い場合が多い。

だがハンターハンターのグリードアイランド編には『珍しく』この2つのロジックが含まれているので、ゴンVSゲンスルーを軸に解説していこうと思う。


実はゴンはゲンスルーに物理的ロジックによる勝利と精神的ロジックによる勝利、2回勝っているのだ。

ではそもそもその物理的ロジックと精神的ロジックとはなんなのか

この批評の本題は精神的ロジックの方なので、まずは字面だけ見ればだいだいどんなものか予想できる物理的ロジックの方を
手短に説明しよう。

これは見ての通り、勝つことに物理的にロジックがあるかどうかである。

当たり前だが、通常悪役というのは主人公よりも強い設定で登場する。
悪役が登場時点で主人公よりも弱ければその時点で普通に倒して終わりになってしまう。
なので主人公が到底倒せないくらいの強さで悪役は登場させる必要があるのだ。

しかし悪役を強く設定しすぎると、今度はなぜ勝てたのか納得できないという状況がしばしば発生してしまう。

それを解消するために必要なのが、どうやって倒したかという物理的ロジックである。

一番分かりやすいのは、悪役はとてつもなく強いが1つだけ弱点があってそこを主人公が上手くついて倒す等である。

ならこの点、ゴンがゲンスルーを倒すためにどんな物理的ロジックがあったのか

まず、戦いが始まった時点でゲンスルーはオーラの総量や戦闘経験においてゴンよりも遥かに強い。

にもかかわらず何故ゴンが勝てたかと言えば、弱くても勝てるような作戦を準備をしていたからだ。

具体的に説明すると、総合的な戦闘力であれば力は劣るゴンだが必殺技のジャンケングーを当てさえすればゲンスルーに致命傷を当てられる

しかしジャンケングーの発生には時間がかかるのでゲンスルーに当てるのは現実的に厳しい。
そこで、ゲンスルーを落とし穴に落としてすぐさま大きな岩も穴に落とす。
そこでこちらで用意した唯一の逃げ場所である横穴にゲンスルーが間一髪避難してきた所を、ジャンケングーで仕留めるというものである。


そして最初に取り決めしていた通りに、ゲンスルーは『まいった』と発する事になる。


これがゲンスルーの1つ目の負けだ。
このように物理的なロジックがしっかり練られているので、
ゴンが弱いまま強いゲンスルーに勝てた事に納得できなかった読者はほとんどいないだろう。


そんな当たり前の事説明されなくても分かるよ…

そう思った方がほとんどではないだろうか?


ただ実際には物理的ロジックが備わっている作品というのはそこまで多くはないのだ。

新しい技を繰り出したから勝てた。
戦闘中に何らかの変身やパワーアップをしたから勝てた。
仲間が加勢してくれたから勝てた。

これらの理由で勝つ事が圧倒的に多い。


しかしハンターハンターでは誰かと誰かが戦う時にはたいてい物理的ロジックがある。
特にヒソカ、モラウ、キルア、クラピカ等が戦う時は顕著だ。


と、長々と説明に付き合ってもらった上で酷い事を言わせてもらうが、

ぶっちゃけ物理的ロジックは『そこまで重要ではない』。
あまり重要ではないからこそ、変身して勝つパターンが多かったりするような漫画でも名作が多かったりするのだ。

では重要なのはなんなのか。、
それが今回の批評の本題である精神的ロジックである。

精神的ロジックがどういうものか簡単に説明すると、
一言で言えば、
『なぜ主人公は勝利に値する人間であり、
なぜ敵は負けるべき人間だったのか』
それを理由付けするロジックだ。

そしてちょっと複雑なのだが、ここで言う『勝ち』とは物理的な戦闘に直接は関係無い所の勝ち負けの話だ。

だから物理的ではなくて、精神的なのである。

例えば、
仲間や部下を平気で犠牲にする事で勝ち続けて来た悪役に対して、主人公も仲間を平気で犠牲にする事によりその悪役を倒せたとしよう。納得できるだろうか?

自分がどれだけ不利になろうとも、仲間を大事にする事を捨てないで生きてきた主人公が仲間をむげに扱う悪役を倒すから、カタルシスが生まれるのだ。

この、仲間を大事にしない敵に対して主人公は仲間を大事にしてきたという部分が精神的ロジックである。


ではグリードアイランド編ではどのような精神的ロジックがあったのか見てみよう。

まずゴンとゲンスルーの戦いとその決着を真に理解するためには次の2つの事を知っておく必要がある。

1つ目は、
冒頭で少し触れた通りにゴンとゲンスルーの戦いにおいては先にまいったと言った方が相手にカードを渡すという風に、勝ち負けのルールが2人の間で定められているという事。

2つ目は、
ゲンスルーが駆け引きをする際に大事にしている秘訣だ。


本当の駆け引きをするには相手にいかにイカれているかを分からせる。そうすれば勝てる。

これがゲンスルーのマイルールなのだ。

そしてこのすぐ後にゲンスルーはゴンに対して逆に思わされる事になる。『イカれてる』と…。


前述した通り、ゴンは弱いなりにそれでもゲンスルーに勝てる作戦を用意してあった。

しかしゴンは途中で自分のワガママにより片腕を犠牲にゲンスルーを倒すという思いつきの作戦を実行するが、失敗に終わってしまう。

ゴンの作戦が失敗したと見たゲンスルーは、ようやくこれでゴンが諦めて『まいった』をしてくれると思った。

だが諦めると思ったゴンの顔を見たゲンスルーは戦慄する。



イカれてやがる。遂にこの言葉をゲンスルー自身が思わされてしまったのだ。

そしてゲンスルーはゴンにジャンケングーを当てられ、倒される。

気絶していたゲンスルーが目を覚ますと、仲間の2人も倒されていた。

するとゴン達から驚きの事実を聞かされる。

ゲンスルーは強いだけじゃなくて、頭がとてもキレる男だ。

カードを巡る頭脳戦でも誰にも引けを取らなかった。
ツェズゲラがカードのコンプリートまであと残り7種類とブラフをかけた時も、「けっ、あと5枚だろうが」とあっさり看破していた。

そんなゲンスルーが唯一読めなかった事が1つだけある。


唯一読めなかった事。
それはゴン達の持つクローンの意味だ。

ゴン達は戦いで傷ついたゲンスルー達をも大天使の息吹で治すために、クローンを6枚用意していたのだ。

ここ、グリードアイランドの中で数えきれない程の人の命がゲンスルー達によって奪われた。

そしてゴン達も今頃そうなっていても全くおかしくなかった。

そんなゲンスルー達を、

極悪非道なゲンスルー達を、治すために、助けるために、

ゴン達はクローンを用意していた。

それを知ったゲンスルーの頭の中はもしかしたら混乱していたかもしれない。


ゴンが格上の俺に勝てる保証なんて無かったはず。
どれだけの作戦を用意していたとしても上手くいくとは限らない。

そもそも、俺達はたくさんの人を殺した。
ゴン達と一時手を組んだ仲間達だって全員殺した。

そんな俺達を、助ける意味が分からない。

そんな事のためにクローンを用意する意味が分からない。
そんな事、読める訳が無い。

コイツら、、、


イカれてやがる…


複雑な思考が脳内を巡る中、諸々の言葉を飲み込み、ゲンスルーは最後にこの言葉を発する。

グリードアイランド内において、自らの負けを認め、『まいった』の意味を表すこの3文字を。


物理的にどうやってゴンがゲンスルーを倒せたか、と同じくらいゲンスルーがブックを言うまでの精神面でのロジックが緻密に練られている。

勝てると慢心していた格上のゲンスルー。
格下だが勝てた時にゲンスルーを助ける事まで考えていたゴン。

戦う前から既に勝負はついていたのだ。


何をもってして主人公に勝つ価値があり、何をもってして敵は負けるべくして負けるのか。
この精神的ロジック、その倫理観こそが作者の作家性を何よりも体現する。

これはもちろんハンターハンターだけに当てはまる訳ではない。
最近の売れている作品にはこの精神的ロジックが含まれている事が多い。

一流の作家は皆、一流の倫理観が備わっている。

その証拠に他の作品での精神的ロジックの例も少し見てみようと思う。


例えば、一番売れていて読んでいる人が最も多いワンピース。

その1巻に登場した、もう既に忘れてしまった人も多いであろうモーガン大佐。

彼も実は戦う前から既にゾロに負けている。

モーガンは初登場時にこんな台詞を言う。


もうお気づきの方もいるだろうが、そう。
ゾロとモーガンはまるっきり正反対の考え方をする人間なのだ。

ゾロはリカという少女からおにぎりを貰う。
しかし、それは塩の代わりに砂糖を入れて作った物でとても食べられる代物ではなかった。
しかもその上何度も踏みつけられて、もはや泥のかたまりになっていた。

それでもゾロはそのおにぎりを口に頬張り、こう言う。


大事なのは気持ちなんかじゃない。
どんな物をどれだけの量くれたか、それが大事なんだ。
というモーガンに対して、

大事なのは物そのものじゃない、くれた人の気持ちなんだ。

そう考える。それがゾロという男なのだ。

この時点でゾロという男が、モーガンという男に人間として既に勝っているのが窺える。

ルフィがゾロを仲間にする選択も、このゾロの人間性を見た事で決める。
まだゾロの剣技なんて見ていないのにだ。

そしてヘルメッポは口約束をあっさり破りゾロを処刑しようとするが、ゾロはルフィと交わした1つの口約束を守るために決めるのだ。海賊王の一味になると。


この様にモーガンをどうやって倒したかなんかよりも、
どうしてゾロは勝つに値する人間だったかに重点を置いてロジックが組まれている。

これはゾロだけに限った話じゃない。
ウソップやサンジ、ナミのエピソード等も同じだ。

1人1人に物理的なバトルとはまた別の戦いがある。



『試合に負けて勝負に勝つ』という言葉があるが、それぞれの戦いの中で勝負では既に勝っているのに、試合では負けそうになっている人物。

その人物を負けさせないために、試合部分だけ代行する。
それがルフィなのだ。


ちなみにワンピースにおける物理的ロジックはどうなってるかと言うと、かなりシンプルだ。
『敵の所に無事にたどり着けさえすれば勝ち』というパターンが一番多い。

バギーの元に行きたいのに、檻の中から出られない。
クロの元に行きたいのに、迷って辿り着けない。
クリークの元に行きたいのに、間に海があって行けない。
アーロンの元に行きたいのに、体が海に沈められていて動けない。

この様にあらゆる障害により敵の元にたどり着く事が妨害されるが、いざルフィが辿り着いて敵と対峙すればもう勝ちなのだ(一応砂を血で固めて殴るとか、雷はゴムに効かない、みたいにしっかりしたロジックもちゃんとある)。


ではそこまで物理的ロジック重視ではないワンピースがなぜここまで人気作になってるかというと、先程言った通り、精神的ロジックに比べたら物理的ロジックなんてさほど重要ではないからである。

なんなら、精神的ロジックさえしっかりしていれば、もはや勝つ事に物理的ロジックが無くても良いどころか、物理的な『勝利』自体必要無い。

何を言っているかというと、つまり物理的な戦いには『負けても』全然構わないのだ。


みなさんは日本の歴史上一番売れた映画をご存じだろうか?

興行収入400億を超えて、社会現象になったこの映画を。


『鬼滅の刃 無限列車編』


終盤、煉獄さんは倒されてしまう。
だがこの勝負、本当に煉獄さんの負けだったのだろうか?

そもそも最後の煉獄さんの勝負においては何が勝ち負けの基準なのか。

もし仮に煉獄さんの戦う理由が『敵を倒す事』だったのなら彼の負けだろう。

でも本当に倒す事が目的だったのなら、この場では一旦引いて体力を回復させてから万全の状態で再び戦いを挑めば良かったはず。
彼は列車の5両を1人で守った。その戦いの疲れが既に溜まっていたのだから。

だが彼は引かずに戦った。何故か。

それは彼の戦う理由が『ここにいる者は誰も死なせない』だったからだ。

作中で煉獄さんはこんな事を言う。


たしかに物理的には倒されてしまった。
でも煉獄さんは見事、自身の責務を全うした。

それが彼の戦いであり、そこが彼の強さだからだ。


不死身な人間が戦ったからといってどう感動しろと言うのだ。

傷つくかもしれない。死ぬかもしれない。それでも誰かのために戦うからこそ人の胸を打つ。


不死身だが人を傷つけ殺して喰らわないと生きていけない。
そんな鬼とは正反対に、

煉獄さんは人を守るため、傷つきながら、血を流しながら、自らの命を賭して戦った。

だから彼はカッコいいんだ。

彼は負けてなんかいない。

彼は誰も死なせなかった。


この勝負、煉獄のアニキの勝ちだ。


売れている作品は戦闘でのアクションの華やかさだけではなく、戦う理由等1つ1つのロジックをこそしっかりと大事に描いているのが分かる。

ハンターハンターも同じだ。

意外と言うべきか、実はハンターハンターでも誰かが誰かに戦って勝つ事をゴールとしたエピソードは非常に少ない。

むしろゴンはほとんど負けてばかりなのだ。

試験官ごっこしているヒソカにはあっさり負けてしまうし、
ネテロからは結局ボールを奪えない。
ゲレタには毒の吹き矢を使われプレートを奪われてしまうし、ハンゾーには手も足も出ない。
天空闘技場でもヒソカにはまたボロ負けしてしまうし、
旅団にもあっさり捕まってしまう。
ネフェルピトーの前では逃げる事しかできずに、カイトを見殺しにしてしまう。

なので幼い頃の俺はハンターハンターってイマイチ盛り上がりきらない作品だなーって思っていた。

それともう1つ、幼い頃の俺がそう思った理由がある。

ハンターハンターはあまり白黒つけないのだ。

ゾルディック家に潜入した時は、シルバもイルミも全員倒してキルアを取り戻すのかと思いきや、
そもそも他の家族にはろくに会わないまま終わる。
天空闘技場でもフロアマスターにもならず、ヒソカも倒さない内に終わる。
ヨークシンでの旅団との闘いも、旅団を壊滅させないで終わる。
クロロとの戦闘は描かれないし、そもそも旅団の中で倒したのはウボォーギン1人だけだ。


それは無限列車編の話と同じく、誰かを倒して勝つ事を主軸に話が作られていないからである。

ここまで精神的ロジックの説明をしてきたが、
ではなぜ昨今では物理的に勝つ事それ自体よりも精神的ロジックの方が重要視されるのか。

バトル物の作品には永遠のテーマが1つある。

強い方が勝つ。それでもいいのか?という事だ。

たしかに人類の長い歴史を見ても勝者が時代を作ってきた。
勝てば官軍のことわざの通りだ。

だがもしそれが本当に正しいとすれば、
それこそ悪役が言うようにどんな手を使っても勝てばいいし、何を犠牲にしても強くなりさえすれば良いという結論になってしまう。

しかも歴史と違って漫画は作者が自由に勝者を決める事ができるので、誰かが勝ったという事実だけ描いてもどこか空虚になってしまうのだ。

だからこそ近年では勝つという結果そのものよりも、その勝ちに至る過程とその質が求められるようになってきた。

そして、ハンターハンターでは誰かを倒すというエピソードが少ない分、他の点での勝利が描かれている。


船の上でレオリオとクラピカの決闘を止め、船長に認められたのは何故か。

キリコのお眼鏡にかなって案内してもらえたのは何故か。

ネテロからボールを奪えなかったにもかかわらずゴンが「勝ったァー!!」と叫んだのは何故か。

トリックタワーで本来なら3人しか通れない所を5人通れたのは何故か。

毒にやられたレオリオを助け、蛇に囲まれた洞窟から全員抜け出せたのは何故か。

ハンゾーの方が力は圧倒的に上だったのに彼がまいったをしたのは何故か。

試しの門をよじ登ると言って聞かなかったゴンが守衛さんに気に入られたのは何故か。

ゼパイルが目利きの素人であるゴン達と組もうと思ったのは何故か


全て、ゴンは力で誰かを倒す事とは関係の無い所で物事を解決したり誰かに認められたりしているのだ。


だが作者である冨樫も昔はこういう物語の組み方はしていなかった

冨樫が精神的ロジックを重視するようになったのは、幽遊白書からだ。
それもその中で一番評判が悪いとされている魔界編から。

それまでの冨樫はかなり王道パターンで物語を作っている。
一言で言えば『主人公が敵を倒す』事を話の主軸に物語が構成されていたのだ。

乱童は幽助が倒す。
朱雀は幽助が倒す。
初登場時の飛影も幽助が倒す。
戸愚呂(弟)は幽助が倒す。
仙水は幽助が倒す。

要はその章ごとの一番の敵を主人公が倒す事を最終目標として逆算し物語が構成されている。

そんなの当たり前だ。

フリーザは悟空が倒すし、ラオウはケンシロウが倒す。

主人公が一番の敵を倒す。そんなのごくごく当たり前の話だ。

そしてその当たり前の如く、幽遊白書では幽助が敵を倒していく。オーソドックスな作りだ。

だが魔界編で冨樫の物語の作り方がガラリと変わる。


幽助は最後黄泉を倒せずに終わる。

だからこそ魔界編の終わり方にもやもやした方も多いのだろう。どこか打ち切りのような気がして。

しかし、黄泉を倒せなかった。
それは決してバッドエンドに終わったという事ではない。

今まで通りだったら黄泉を幽助が倒す事をゴールにおいて話が作られていただろう。
だが冨樫はそうしなかった。

ならばその代わりに何を主軸に置いたのか。
それは、『長年に渡る魔界の抗争を、幽助が止める』というゴールを達成できるかどうかだ。

そして幽助は見事にその目的を遂げる。

ここで一番大事なのは、魔界の抗争を止められたのは幽助が物理的に強かったからじゃないという事である。

もし幽助が単に力ずくで魔界を統一しようと考えていたのなら、あっさり誰かに殺られて終わっていただろう。
現にトーナメントの中で幽助は強さでは上位に入れていない。

私利私欲や打算ではなく、
「ただのケンカしようぜ。国なんかぬきでよ」という、
幽助の純粋な思いがもたらした結果として魔界の抗争に終止符が打たれた。

強さだけで何かを解決しないという話の展開は、ハンターハンターだけではなく、幽々白書の魔界編から既に試みられていたのだ。

しかしその試みは初めから奏功していた訳ではない。

結果として幽遊白書は魔界編を最後に連載が終わってしまうからだ

冨樫は『連載を終えて』というタイトルで、幽遊白書を自らの意思で終わらした理由を自作の同人誌に載せている。

その中でこんな事を語っている。
読者が飽きるまで同じことを繰り返すかしか残っていませんでした。同じことを繰り返すに耐え得る体力も気力ももうありません。』
『読者の反響を~全く考えないで自己満足だけのためにマンガ描きたくなってしまいました。その結果できる作品がジャンプ読者のメガネにかなうとはどうしても考えられませんので挑戦を放棄します』


王道を繰り返すのには疲れた。
でも、王道を崩して自分が描きたいものを描いたとしても、
読者を満足させられる出来にできる自信は無い。
だから幽遊白書の連載を終わらせた。

そのような苦悩が窺える。


そして幽遊白書が終わってから約4年後に再び週刊連載が始まる(レベルEは月1での連載だった)。

王道を崩して読者を満足させる出来にはできないと冨樫は弱音を吐いていたにもかかわらず、
新連載ハンターハンターからは少年漫画の王道パターンが限りなく排除されていた。


・主人公がその章の敵を倒す事ありきで話が作られていない。

・ジャンプなのにヒロインがいない。

・戦闘力的なものの数字だけで勝敗が決まらない。

・キルア、クラピカ、レオリオ等の主要キャラを常に全員帯同していない。

・なんなら主人公が長らく登場しなくても物語が進む(王位継承編ではクラピカが主人公的立ち位置)。


もっと細かい所を言えば、


・才能だけで勝ったりしない。
 普通の才能系主人公は才能だけで格上に勝ってしまったり数年かかる修行を数日で達成してしまったりする。
だが、1000万人に1人の才能を持つゴンですら、
「多分俺プロハンターで1番弱いんじゃないかなー」と弱音を漏らすくらい周りと実力差があるし、ゲンスルーと戦うに当たっての放出系修行レベル5の習得は結局間に合わない。

・下手に伏線を回収するような展開にはしない。
 並の作者だと、ドキドキ二択クイズが出題された後に大事な人どちらかしか助けられないという展開を入れたくなる所だが、そんな下手な事はしない。
 蟻編でゴンが「仲間をゴミって言うような奴らに同情なんかしない!」と言った時に、カイトは「それが危険なんだ。仲間想いの奴がいたらどうするんだ…?」と危惧する。
だがその後に仲間想いの敵が現れてゴンがピンチになるみたいな展開は無い。

・引き延ばせる所で無駄に引き延ばさない。
 漫画ではトーナメントでの戦いを出せばいくらでも物語を引き延ばせるのだが、ハンター試験の最終試験のトーナメントはゴンとハンゾー以外の戦いは全部カットされる。
 天空闘技場での100階のカベを超えられるかで1つの展開にできる所を、そんな無駄な事はしない。

・主人公が常に正しいとされていない。
 普通は主人公が正義感にかられて直情的な行動をしても結果的に是とされてしまう事が多いのだが、ゴンが試しの門をよじ登ろうとした事も、負傷したキルアの事を顧みずにゲンスルーに「相手になってやる!!」と息巻いた事も悪手だったとして片づけられる。

・ジンが出て来る。
 基本的にその漫画の最強キャラというのは継続的に登場する事は無い(例えばシャンクスとか)。
神格化されたキャラをボロを出さずに描き続けるのは非常に難しいのだ。にもかかわらず冨樫がジンを出し続けても、ジンの凄さは衰えて見えるどころか魅力が増すばかりだ。


もちろん王道パターンを外せばいいってものではない。
というか、むしろ王道に沿って物語を作るべきである。
それが原則だ。

その方が面白い作品になるし、王道を外せばつまらない作品になる事の方が圧倒的に多い。

でも冨樫は王道を外して、尚且つ面白い作品を成立させたのだ。

僭越ながら俺もそこそこ物語の作り方は勉強してきた人間なので、傑作とされている漫画や映画を観ればある程度その物語の構造を理解できる。

どうしてこういう性質の人物を配置したのか。
どうしてこの台詞が必要だったのか。
どうしてこの展開を入れたのか。
どうしてこういう結末にしたのか。


だけど、、、ハンターハンターだけはマジで全く理解ができない…


どの時点でどこまで考えていれば一体こんな物語の展開が生まれるのか。

だって蟻編ではゴンはメルエムに会ってすらいないんだぞ!?

最強にして最凶の敵が主人公の顔すら知らずに死んでいくって何?

それでずば抜けて面白い漫画として成立してるって何?

そりゃあ休載しまくるよ。

だって本来ならハリウッド映画のように、数人から数十人がかりで数年かけてようやく作れるレベルの話を、
作者が1人の漫画で描いてるんだもん。

それほど先人達が築き上げてきた王道を外すのというのは難易度が高いのだ。


でもね。
実は王道を外してる中で一番驚いたのは今挙げたもののどれでも無い。

ハンターハンターが王道を外している中で俺が一番好きなのは、


『悪役が仲間を大事にする所』だ。


どの漫画でもやっている悪役を悪役たらしめる王道な演出が1つある。

悪役が自らの部下を手にかける演出だ。

売れている漫画はだいたいやっている。

それは単純にその方が読者が悪役に嫌悪感を抱き、その結果その悪役を倒した時に得られるカタルシスが倍増するからだ。


だがハンターハンターに登場する悪役は部下を、仲間を本当に大切にするのだ。




一見、ハンターハンターは平気で人間が死んでいく残酷な漫画だ。




でも、

最終的に、いつも結末を左右するのは強さではなく、優しさなのだ。



ハンターハンターがどんな漫画かと尋ねられたら俺は迷わずにこう答える。


「ハンターハンターは誰よりも優しい漫画だ」


それに比べれば、ここまで散々いかにハンターハンターが素晴らしい漫画かを物語の構造から語ってきたのなんて取るに足らない事だ。


冨樫は自分が描きたい漫画ではもう読者を満足させられないと幽遊白書の連載を辞めてしまったけど、
その数年後にもう一度新連載としてハンターハンターを始めてくれた。


幽白の連載をするのが苦しくなり自ら産んだ愛する漫画に終止符を打つ覚悟を決めてから、再びハンターハンターで週刊連載に戻って来るまで、冨樫にどれほどの苦悩があったかは俺ごときに理解るはずもない。

でもきっと色んな遠回りをしたんだと思う。
一度は挑戦を放棄したけど、悩んで、立ち止まって、時には来た道を戻って、そうやって苦しんだ先に、
また挑戦しに戻って来たんだと思う。


冨樫がまた漫画を描いてくれて本当に良かった。

そのおかげ俺は読めるんだから。

俺が世界で一番好きな漫画、ハンターハンターを。


冨樫、ありがとう。


俺は幼い頃、ハンターハンターは怖いからと親から観るのを禁止されていたので隠れて読んでいた。

でも俺は、子供達にこそ、この作品を読んで欲しいと思っている。

強さよりも優しさが勝つこの素晴らしい漫画を。

そして、もし子供達がその先の人生において挫折した時は思い出して欲しい。
思い描いていた目標への最短ルートから外れてしまった。
もうダメだ。そう思った時は思い出して欲しい。


幽遊白書が終わるという行き止まりにしか見えない悲しさの先にこそ、ハンターハンターという新たな道があった事を。


最後に、紆余曲折を経た末に冨樫が辿り着いたこの言葉をもってこの拙文を締め括りたいと思う。


俺の大好きな言葉。


親であるジンが、自分の子供であるゴンに送ったこの言葉。