ディズニーを超える!

そう豪語しているキングコング西野さんの作品と言う事で、    
今何かと話題の映画『えんとつ町のプペル』を見て来ましたのでネタバレですが批評を書きます。
少し辛口になっている部分もありますが、それは西野さんの今後への期待の裏返しと受け取っていただければ幸いです。

まず最初に褒めておきます。
この映画は二次元である絵本を元にした3DCGアニメーションなのだが、二次元と三次元が上手く融合している。
3Dであるにもかかわらずちゃんと絵本っぽい。
言うなれば本当に絵本の中で登場人物が動いているような感じだ。
その絵作りには新しさも感じたし素直に関心した。

特に最初にルビッチがプペルを見つけて追いかけるシーンは、平面のビルの中を上下左右縦横無尽に駆け回って前に進んでいて、
実際に二次元の中を三次元キャラが動いているかのように見えた。

そして素晴らしいと膝を打つシーンが1つだけあった。

プペルがルビッチの大切な物を探すためにゴミ捨て場の中を探すシーンだ。

大切な物を探していてようやく見つけたと思った光る物に近づくと、
その光る物は大切な物そのものではなくて自分の中にある光を映している鏡だった。

この演出だけは本当に見事だった。
ここの瞬間風速だけで言えばディズニーレベルでしたよ西野さん!



え、褒めてるばかりじゃん。もしかして傑作なの?
と思われた方。

安心してください。そんな事はございません。


問題はここからだ。

アニメーションとしての絵作りは素晴らしい。

だが、

ストーリーは本当にこれでいいのだろうか?     


まず、主人公ルビッチの性格が悪すぎて好きになれない。よって感情移入できない。

詳しく説明しよう。

この話はえんとつ掃除の仕事をしている子供、主人公であるルビッチが、何故かゴミの山から生まれて体がガラクタの集合体でできているゴミ人間プペルと一緒に星を見つける話である。

だがこのルビッチとプペルの出会いが、まあ最悪なのである。
最初こそ焼却所に向かうゴミ収集車の中に埋もれているプペルを見つけて、助けるためにルビッチが駆けだす所までは良い話なのだが、
助けた相手が人間ではなくガラクタが集まってできたゴミ人間と見るや「何だお前気持ち悪い」みたいな事を言って急にゴミを投げつけまくるのだ。

そうこうしている内に2人を乗せたゴミ収集車は焼却所に着く。
燃える炉の中に落とされた2人は目の前にぶら下がっているチューブに掴まって九死に一生を得る。
そしたらあろうことかルビッチがこんな言葉をプペルに浴びせるのだ。

「お前が掴まったら俺まで落ちるだろ!」

みなさんは芥川龍之介の名作『蜘蛛の糸』をご存じだろうか?
ルビッチが蜘蛛の糸の世界の登場人物なら、、、
この瞬間地獄行き確定だね。 
  
案の定というべきかチューブが切れて2人は落ちていくのだがなんやかんやあって助かる。
するとルビッチは再びこんな言葉を吐き出す。

「僕が今こんな目に遭ってるのは全部お前のせいだからな」

そして地下の深くにまで落ちてしまった2人は、地上への出口を探そうと炭鉱の一本道を歩いていく。
悪口パワハラ大魔王のルビッチはストレス発散のために相変わらずプペルをイジメている。

「なんでついてくるんだよお前」

「一本道だから仕方ないのでは…」思わず言い返すゴミ人間の方が100倍正論という。

すると突然何かを思い出した様に立ち止まるルビッチ。
急にプペルに頭を下げてこんな事を言う。

「そうだ。僕と友達になってください。お願いします!」


ええー??!!!


……サイコパス?

 
さんざん酷い事言っといていきなり何? 
確かにルビッチには1人も友達がいないらしいから友達が欲しいのはそりゃそうかもしれない。
でも今までの言動見てた感想としては、、、友達いないのは自業自得なのでは?

でも二つ返事で友達になる事を承諾するプペル。

しかもこの後プペルがジャイアン的いじめっ子から不当に暴行を受けるのだが、
それを聞いたルビッチは憤慨する。

「プペルが何をしたって言うんだよ!」

お前も初対面でゴミをプペルに投げつけまくってたけどな。それこそプペルは何もしてないのに。

とりあえず、めでたく(?)友達になった2人の前にロケットと名乗る1人の男が現れる。
2人がどうやって地下の炭鉱から地上へ抜け出すかなのだが、このロケットに手伝ってもらうのだ。
ロケットは自分が炭鉱を漁る泥棒であるとうっかり口を滑らすのだが、
性格の悪いルビッチは、彼が泥棒である事を黙っておく代わりの口止め料としてこの炭鉱から脱出するのを手伝わせるのだ。
自分の利益のためなら平気で犯罪者を見逃すルビッチ。公共の利益とかご興味無い?

ちなみにロケットが自分が泥棒だと名乗ったらルビッチが「この人良い人そう!」とか言うのだが。
泥棒って言ってるだろw
あとルビッチ。お前は良い人じゃないからな。

しかもこのシーンについて聞いて欲しいのがこれ。
ロケットがルビッチに絡まれた揚げ句、最後におどけた口調でこんな事を言う。


「なんて日だ!」


あのぉ、西野さん。
一過性のギャグを取り入れると映画の価値が死ぬほど下がるのでマジでやめた方が良いっスよ…


とまあ、そんなドタバタの中無事に地下から脱出して地上に戻ってくるルビッチとプペル。

2人はすっかり友達に!

って事に表向きはなってるが、この先ずっとプペルは一方的に敬語を使うがルビッチはタメ語で偉そうに接する。

と、この時点で性格が悪すぎるルビッチをこれ以上見ていたくないという最悪の精神状態にある中で物語が動き始めるのだ。

星を見つける感動の物語が!


星なんて空を見上げれば普通に見えるじゃんと疑問に思った方のために一応簡単に説明しますと、
この町はえんとつ町と言うのですが、えんとつの煙が常に空一面を覆っているので星は見えない。
逆に言えばこの煙を晴らせば空が見えるのだ。

で、もう結論から言ってしまうと2人は煙を晴らして夜空に輝く星々をみんなに見せる事に成功する。

じゃあどのような方法を用いるかというと、
何故か船にエンジンを付けて空に浮かせるのだ。
船と言っても飛行船とかではなく、普通に海に浮かべる方の船だ。

そして船に乗って上昇していき、ある程度上空が近づいてきたら火薬に風船を付けて飛ばしてその爆風で煙を晴らす!


(いや、最初から火薬にだけ風船付けて飛ばせばいいじゃんw
てのは言わないで黙っておきます)

そんな完璧な作戦を決行する2人。
もうすぐエンジンが動き出し、今にも大空に羽ばたこうとする。

すると船の周りにたくさんの人が集まってくる。
町の大人達、イジメっこの子供達、星を探す人達等を取り締まる政府的ボジションである異端審問会の人達(正直何やってる人達なのか全然分からない)

その異端審問会の兵士達がルビッチとプペルを捕まえるために船を包囲する。

ルビッチが星を見る夢もここまでか?

そこに1人の男が立ちはだかる。ロケットだ!
そう、彼が泥棒である事を黙っておく代わりの口止め料としてロケットに盾になって時間稼ぎをする様に頼んだのだ。

そう言えば、空の煙を晴らすための大量の火薬をどこで手に入れたのかって?

そう、彼が泥棒である事を黙っておく代わりの口止め料としてロケットからもらったのだ。

ルビッチさん、他人を平気で酷使しすぎ。

そんな良い人であるロケットの時間稼ぎもそろそろ限界が近づいてきた。
まだ船のエンジンは点火しない。もう少し時間があれば…。

すると町の人々が急にルビッチに向けて次々と暴言を浴びせます。
「星なんてある訳ねえだろ」「バカかお前ら」「夢なんか見てんじゃねえよ」

それを聞いたルビッチは群衆に向かって叫ぶ。


「誰か見たのかよ。あの煙の向こう側を誰か見たのかよ!」

 
すると突然、さっきまでプペルを殴りまくってたイジメっ子がルビッチ側につきます。
「実は、俺も小さい頃に星を見た事あるんだ」

他の町人達も、そうだそうだルビッチに加勢だー!
と兵士達に掴みかかります。

……んっと、なんで?

たった一言叫べばみんな心変わりして味方になってくれるような簡単な問題だったの?

だが、何故か味方になってくれた人々のおかげもあってルビッチとプペルはめでたく空に飛び立ち、火薬の爆風で煙を晴らす事に成功する。


星。

どこを見ても星。

辺り一面を覆いつくす燦然と輝く星々。

こうして星を信じた少年の物語はそっと幕を閉じるのであった。

めでたしめでたし。



さて、少年の物語はこれで終わりですが、
めでたくない事にこの批評はここからが本番です。


そう言えば、みなさんに説明していない事が1つあったので説明しよう。

そもそも町の人々が誰も信じていない星の存在を、何故ルビッチだけは信じていたのか。

それは、ルビッチの親父が信じていたからだ。

親父もまた星を信じ続け、気が付けば妻子を残して他界してしまった。

だが、問題はこの先である。

じゃあ何故親父は星の存在を信じていたのか。


いいですか?驚かないでくださいよ?


親父が星を信じた驚愕の理由。


それは…



『見ず知らずの他人がそう言ってたから』



(。・ω・。)


え。


自分の眼で見たからとか、研究してて論理的な結論にたどり着いた、とかじゃない。
赤の他人から聞いた事があるだけなのだ。

しかも、しかもですよ?

星の存在を教えてくれた人が誰で、聞いた場所はどこだったのか。



『泥棒のロケットから酒場で…』


ええええええ!?


星!星!!!
毎日狂ったように星って単語しか発しなかった親父が星を信じてた理由って…


それ?!


それで妻子残して死んだの?

そりゃあ観客はみんな知ってますよ。
私達が生きる『この』世界では夜空を見上げれば星がそこには見えるって。

でも、この物語の世界の中で星があったのって、
親父の話を信じて星を探し続けたルビッチが最後に星を見つけられたのって、

ただの偶然ですよね?

泥棒が酒の席で言ってた事がたまたま真実だっただけ。

どうしてルビッチが星を信じていたのか、どうしてルビッチがそこまでして星を見たかったのかは話の根幹として一番重要な部分だ。

そこがしっかりしていないって、

話としてずさんすぎる。

今回は脚本のクレジットが西野さん1人だけになっているが、
西野さんが映画の脚本を書くのはおそらく初めてだろう。

やはり素人が書いているので、脚本として最低限ができていない部分が多い。


ルビッチの母親に関してもそう。

まず、母親は車椅子生活をしているのにルビッチが優しく車椅子を押してあげるとか、着替えやトイレを手伝っているとか介護の描写がない。
そもそも親父は亡くなっていて障害を持つ母親とルビッチの2人暮らしなのに、経済的に苦労しているみたいな描写もない。

つまり母親を障がい者の『設定』にはしたものの、本気で障がい者を描く気なんてさらさら無いのだ。

え、じゃあ何で母親を障がい者にしたのか。

もしかして、
母親を障がい者にしておけば観客はみんな勝手に感情移入するだろう。
みたいなナメた考え方をしているなら、
西野さん。それは絶対にやめた方がいい。

そもそもこの母親に感情移入できない理由がある。

まったくルビッチの心配をしないのだ。

旦那は星を探し続けた揚げ句死んでしまった。
そしてまた、息子も星を探している。

にもかかわらず無条件で息子が星を探すのを応援している母親って、こいつ感情あるの?

星を探すのはもうやめて欲しい、ただ息子には健康でいて欲しい。生きてさえいてくれれば他に何もいらない。
だから実は息子に星を探すのをやめるよう説得しようか思い悩んでいるんだ。

みたいな葛藤とか全然ないの?

そういう人間らしい感情が全く描かれずにただ息子を無条件で応援する障がい者設定の母親って、
感情移入できないんですけど…。


ルビッチもそう。

最初から最後まで『星の存在を信じてる』の一辺倒なのである。

本当に星はあるのか?
親父が言っていた事は本当なのか?

とか疑ってしまったり、

星を探しに行くと母親に心配をかけるし、
自分が危険な目に遭うと最悪母親を独り残して死んでしまうかもしれない。

そういう事を天秤にかけて葛藤したり等は一切しないのだ。

ちなみにこの物語のクライマックスはどこかと言うと、
いざ火薬に風船を付けて空に放つと船の一部に引っかかってしまうので、
このままじゃ船ごと爆発する!
って時に、火薬をもう一度空に放つために高所恐怖症のルビッチが勇気を出して高い所に登るというシーンなのだ。

でも、高所恐怖症な割に星に近い所で働きたーいとか言ってえんとつ掃除の仕事を普通にしているし、
星を見るために船で空に飛び立つ時だって、一瞬怯えてためらうとかも一切無い。

つまりただの設定。

これを成立させたいなら、

例えば、
イジメっ子に意地悪されて親父の形見を高い所に置かれたのに、高い所が怖くて取りに行けず笑い者にされた。
みたいに高い所が本当に苦手だってシーンを入れておかないとダメだ。
じゃないと高所恐怖症のあのルビッチが、最後に勇気を振り絞って高い所に登ったっていうカタルシスが生まれ得ない。


そして極めつけとしてこの映画の何がダメって、

このえんとつ町のプペルの物語、、、

ゴミ人間であるプペルの存在、、、


まっっっっったく必要ないんです!


ルビッチ1人いれば成り立つ話。


確かにこういう少年と異形の者が一緒に冒険するみたいな話はたくさんありますよ。
ドラえもんだとかベイマックスだとか。

でもそれらが何故物語として成立して上手くいっているか。
それは、異形の者が主人公に成長をもたらす役割を担っているからだ。

にもかかわらずプペルはルビッチの成長になんの寄与もしない。

というかそもそもこの映画では誰かが成長するという要素が一切無い。

もしプペルに存在意義をもたせたいなら、やはりルビッチの成長のきっかけになるように描いた方がいいのではないだろうか。
そしてプペルのおかげで成長したらからこそ、ルビッチは星を見る事ができた。
そういう風に脚本を書くことをオススメします。

例えば、
ルビッチはかつて星の存在を信じていたが、周りに嘲笑される内に信じる心を失ってしまっていた。
そこに生まれたばかりで純粋に信じる心を持っているプペルに出会い、もう一度星を信じる心を取り戻す。

とか、

あるいは、ルビッチは元から星はずっと信じていたが、星を見るという目標を達成するためなら他人を傷つけるような酷い人間になりつつあった。
そこへプペルと出会い、他人への優しさを学び。
優しさを覚えた事で周りの人も助けてくれるようになって、そのおかげでみんなで力を合わせて
星を見る事ができた。

とか、そんな感じで何かしらルビッチに変化をもたらす存在にしないと意味が無い。

これじゃルビッチはプペルと一緒に星を見に行った。ただそれだけの話。

プペルもプペルで、ずっとルビッチに酷い事されるのにも関わらずルビッチさん!ルビッチさん!て言って、何故か終始ルビッチについて行くし。
依存体質なの?

要は登場人物が生きてないんだよ。

ルビッチもプペルも母親も他の登場人物もみんなそう。
現実に生きる俺達とは違って、悩んだり葛藤したりとかしないの。

ルビッチだけ星を見たいって目的だけがある主人公で、他の人達はモブキャラなんだよきっと。


他にも脚本の粗はたくさんある。

異端審問会がゴミ人間のプペルを追ってる理由って結局何なの?とか、

時間と共に腐る貨幣を流通させれば世の中は平和なんだ!みたいなイマイチ納得できない設定とか、

そのくせに腐る貨幣を用いているこの町の人々は全員、何かあるとすぐに殴って解決するから全然平和に見えないとか、

平和なこの町を外界から隔離するために煙で覆ってたなら、晴らしちゃダメだろ。とか、

もう挙げるとキリが無い。

ディズニーを超える。
西野さんのその心意気は素晴らしいです。
でも、本当に超える気ならもっとしっかり勉強してください。

この脚本は酷いです。


言いたい事はまだまだあるが、実は一番の問題は今までつらつらと挙げてきた事のどれでもない。

ディズニーの映画だってもちろん物語の齟齬は多少ある。
それでもディズニーの映画が傑作たりえて、プペルが駄作である事を分かつ分水嶺。


それはやはり、、、


ルビッチに『他人への優しさ』が無い事だ。

これは映画を作る際の鉄則なのだが、

絶対に『人間』を描く事を主軸にしなければならない。


何かを成し遂げた。その結果だけ見せられても人は感動しないからだ。

主人公達が何を思い、何のために、誰のために、どんな目的を持つのか。
何に悩み、何に悲しみ、何に喜び、最終的にどんな選択をするのか。

その人間としての感情部分がしっかり描かれていて初めて、結果に対しても観客は共に喜ぶ事ができる。

だから歴史物の映画だって何を成し遂げたか、その事実の羅列ではなくしっかりと人間の想いを主軸に描く。

しかし、これが意外とできていない映画が多い。
そしてプペルもその例に漏れない。


別に誰かのためでもなく、星を見る。
ただその目標を達成するのが無条件で至高とされ、
そのためなら手段を選ばずとにかく星を見れば勝ちなんだ。それを見た観客は感動するんだ。

そこありきで脚本ができてしまっている。

どこで感動させようとするかは、もろに作り手のモラルが浮き彫りになってしまう部分だ。

西野さんは目的を達成するためなら過程や方法なぞどうでもよいと思っているのだろう。

その思想を暗に象徴している台詞が劇中出てくる。

プペルは幼い頃におそるおそるハシゴを登りながら親父にこんな事を言われる。

「上をごらん。下を見るから怖いんだ」

そしてこの映画の最後のシーンもルビッチが親父に言われた事をそのまま、ハシゴを登ろうとしている他の子供に言う所で終わる。

西野さんはこういうパッと見なんとなく感動する言葉を言うのが本当に上手い。
よくよく考えると中身がスカスカの名言で誰かを感動させる事に関しては、忖度抜きに天才だ。

なので僕は空気を読まずによくよく考えてみようと思う。

本当にそうですか?
上だけ見ていればそれでいいんでしょうか。

それこそ上に昇るという『結果』しか重視せずに、その他の事には目を向けなくて良いんだって聞こえます。

そもそも下を見るのってそんなに悪い事なんですか?


実は、西野さんが超えると豪語したディズニーが何故ここまでの会社になり、
何故ここまでの作品を作れるようになったのか。

それは何を隠そうディズニーが『下』を見るようになったからなのだ。


みなさんはご存じだろうか。

実は天下のディズニーが落ちる所まで落ちていた時代があった事を。

主に2000年から2010年の10年間。
全くヒットを飛ばせなかった。
この間にディズニーが作った作品を全部列挙してみよう。
『ラマになった王様』『アトランティス失われた帝国』『リロ・アンド・スティッチ』『トレジャープラネット』『ブラザー・ベア』『ホーム・オン・ザ・レンジにぎやか農場を救え!』『チキン・リトル』『ルイスと未来泥棒』『ボルト』

この中で唯一ヒットとギリ言えるのはスティッチくらいだ。
でもそのスティッチですら、知ってはいるけど実は観た事無いって人が多いのではないだろうか?

この時期は映画とは別に家庭用のビデオ版としてリトルマーメイドやシンデレラ、ライオンキングの続編も粗製乱造していた。

クオリティなんてどうでもいいからとにかくいっぱい作って売れ。
それが当時のディズニーのトップのやり方だった。
ルビッチじゃないけど、正に過程なんかどうでもいいからとにかく結果を出せば勝ち主義だ。


ディズニーに入社して、今度は私達が子供達に夢を与えられるような作品を作るんだ!

そう信じて作品を作ってきたクリエイター達のプライドはボロボロだった。

私達が良い作品を作れないからディズニーのブランドに傷をつけてしまっている…。

そんな状況を変えて、ディズニーが傑作のつるべ打ちをするようになるまで導いたのは、
ピクサーの創設者でもあるスティーブジョブズだった。

ディズニーとピクサーを合併させる事でディズニーを再び復活させようとしたのだ。

そもそも今の話を聞いて疑問に思った方はいないだろうか?

10年もディズニーに低迷期なんてあったっけ?
全然気が付かなかった。

その答えは、ピクサーが台頭してきていたためにディズニーの低迷にみんな気づかなかったからだ。

ピクサーとディズニーの違いをちゃんと説明すると少々骨が折れるのだが、
分かりやすく言えばピクサーはトイストーリーとかモンスターズインクを作った会社である。

簡単にピクサーの起源を説明すると、
スターウォーズを制作しているルーカスフィルムが所有していたCGアニメーション部門が、
CGのアニメーションなんて未来は無いとルーカスに見限られて売りに出された。
それを買ったのが、自分の作った会社アップルに解雇されたばかりのジョブズだった。
ジョブズは当初CG制作用のコンピューターを作って売りたいためにこの部門を買ったのだが、
そこへ後に世界初の長編3DCGアニメーションとして誕生するトイストーリーの監督になるラセターがやってきた。
ラセターは小さい頃から憧れていたディズニーに必死に努力して入社したのは良いものの、
当事は誰も想像できなかった3DCGアニメーションで映画を作りたいという夢を持っていたために
ディズニーを解雇されたのだ。

スターウォーズの監督であるルーカスに『捨てられた』部門が、
アップルに『捨てられた』ジョブズによって買い取られ、
ディズニーから『捨てられた』ラセターがもう一度夢を叶えるためのチャンスが与えられた場所。

つまり、ゴミのように捨てられたガラクタな人間達が集まって生まれたのがピクサーなのだ。
それこそ本当にプペルの様な存在だ。

ジョブズ達はピクサーを作る時にお互いに肩を組んでこう誓った。
「ピクサーは僕達を捨てた会社のようであってはならない。本当に社員を大事にする会社にしよう」

そしてその精神はピクサーだけではなく、合併相手のディズニーの社員にも向けられた。

ジョブズはかつて失敗した事があった。
アップルでは『Mac』とは別のPC『Lisa』を作っているチームがあった。そのチームに向けて、
Macを作っているチームに比べてお前らは劣っていると苛烈に批判してしまい、敗北感を与えられたチームはモチベーションを奪われガタガタになってしまった。

だからジョブズは決めた。
「今回の合併ではディズニーのクリエイターが敗北したと感じさせない合併にしよう」

それでもディズニーのクリエイター達はみんな知っている。
自分達が良い作品を作れないからピクサーと合併するのだと。

しかし、本当の原因はクリエイター側ではなくてディズニー社そのもにあった。

当事のディズニーの職場環境は劣悪を極めていた。

端的に言うと、社員があまり上司から大事にされていなかったのである。


クリエイター達は会社の下の方の階で仕事をしていた。
天井が低く、自然光も十分に入らないような部屋で。

そして『監視グループ』なるものに常に監視され、
上司に何か言いたければ最上階にあるいかめしい門で仕切られた役員室に行かなければいけなかった。

そこでピクサーの面々が合併直後にした仕事はこの環境を改善する事だった。

ピクサーのトップと並行してディズニーのトップにも就いたラセターは、最上階ではなくてみんなと同じく下の階の一角に自分の部屋を作った。
いつでも誰でも何でも気軽に話して来れるように。

上でふんぞり返っていればいいトップの人間が、わざわざ下まで降りてくる選択をしたのだ。

そして自信をすっかり失ったクリエイター達を励まし続けた。
「今まで良い作品を作れなかったのは君達のせいではない。君達は敗北者なんかでは決してないんだ。君達は良い作品を作る力がある。これから一緒に頑張っていこう」

するとどうだろう。

クリエイターの顔ぶれはほとんど変わっていないにもかかわらず、傑作を連発する現在のディズニーが再誕したのだ。

会社同士の合併という大きな問題に直面した時に見たのは、上ではなくて下だった。
下で頑張っている人達に目を向けたのだ。
下を見たから今のディズニーがある。

もっと制作資金を増やそう。もっと良い人材を増やそう!
ではなくて、今いる社員を大事にしよう。
そうやって足元から会社を作り変えていった時に、身近にいる人達を大切にした時に、ディズニーは輝きを取り戻した。
再び一番星として輝く事ができたのだ。

そして、こういう人達が作品を作っているからこそ、これらの経験がきちんと作品内に反映されいてる。

欲しいものよりも大切なものは身近にある。
そしてもし、遥か上空にある本当に素晴らしいものを手に入れられるとしたら、それは身近な事柄を大切にしたその先にあるのだと。

例えば、
シュガーラッシュでラルフは星のように輝くメダルを求め続けて来た。
でも最後に大切な人を守るために自分が一番欲しかったメダルを諦める。
しかし、その欲しかったメダルを自ら手放した瞬間に大切な人を救う道を見つける事ができる。


ラプンツェルなんてそれこそ夜空に輝く光を探す話だ。
だが、ラプンツェルが「やっと光を見つけた♪」
そう歌う時に彼女は空なんか見上げていない。
ただ、目の前にいる大切な人を見つめている。
そしてその大切な人を守るために、全てを捨てて一番選びたくない道を自ら選択する。

だからこそラルフやラプンツェルが最終的に幸せを手に入れた時に、俺は感動した。


じゃあプペルはどうですか。
ルビッチが別に誰かのために頑張るでもなく、泥棒の弱みを握ってこき使い、都合良くみんなが味方になってくれたから星を見つけられた。

だからなんなんですか?
この話のどこで感動すればいいんですか?

だってぶっちゃけこの映画ってゴミ人間のプペルよりも、泥棒のロケットの方が断然役に立ってますよね?
仲間を大切にするとかいらねーから、夢を叶えるためには利用できる奴を使い捨てろってメッセージを伝えたいのかな?

もちろん。現実の世界で、西野さんが周りの人達を使い捨てでも何かを成し遂げればそれで良いと思っている人間て事では絶対にないと信じていますが。

ただ、少なくともこの映画を見た人がそう思っても仕方のない出来になっているのは事実です。

今の西野さんの実力でディズニーを超えると豪語するのは、それこそ井の中の蛙が空の星に手を伸ばすようなものだ。


ただ、最後にこれだけは言わせてください。
散々遠慮なく批判的な事を言ってきましたけども、
西野さんは凄い所もたくさんあるのは紛れもない事実だと思っています。

サンドウィッチマンが優勝した年のM1の決勝戦。
そのまま優勝してもおかしくないくらいキングコングの漫才は面白かった。

笑いを交えながら説得力のある語りができる事に関しては右に出る者はそうそういないだろう。

プペルの原作も、複数人で描くという斬新な発想で絵本にしては異例の65万部を突破したのは間違いなく快挙だ。

それだけに、今回のプペルは残念でした。


でもね、その『凄い』西野さんが下を見れるようになる時がもしこの先訪れるというのなら、
いつの日か本当にディズニーを超える事ができるかもしれない。



今、

西野さんには2つの選択肢がある。

僕はどちらでもいいです、僕は。

西野さんの人生なので好きなようにしてください。

だけど一つ言っておく。

西野さんには2つの選択肢がある。

批判的な意見は臭い物であるかのようにフタをして、一生このままのレベルの作品を作り続けるのか。

それとも、

耳に入れたくないような意見にも真摯に向き合って、いつの日か本当にディズニーを超えるのか。

どっちか。どっちだっていいです。

でも、

僕は信じています。

最後まで星を信じた少年ルビッチのように、信じています。

もし次にまた西野さんの作品を映画館の大スクリーンで観れる日が来た時は、
僕がこの台詞を言える事を。





やればできんじゃん!