京都の難読地名 | 【はらどけい】 by SB

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日頃の「喜・怒・哀・楽」を思いつくまま,気の向くまま(写真は1月の京都:比叡山 我が家の近くから)

 

フェイスブックに時たま難読地名なんかが出てる。
たいていありえない読み方で地元の者しか分からない。

かといって,地元でも京都市ぐらいの広さになると
地元の者でも分からない。
それぞれにい由緒のあるいわれがあるのだろうが困ったもんだ。

調べて見たほんの一部の一部を紹介する。

京都市上京区
正親町
「せいしんちょう」ではなく「おうぎちょう」
第106代正親(おうぎまち)天皇にゆかりがあるのだろう。

同じ上京区に「正親小学校」がある。

京都では歴史のある番組小学校のひとつ
学制が発布されたのが明治5年
それに先んじて明治2年には京都で各番組(地域のこと)で学校が創立された。その数64。誇るべき先進性であったと思う。

この学校は「せいしん」小学校と読む。
住所は上京区浄福寺通中立売下る菱丸町
ここでよかった。
もし,この学校が正親町にあったらややこしいことになる。
正親町の正親小学校は
「おうぎ」町の「せいしん」小学校となる。
子どもたちに説明しにくくなる。
本当に菱丸町でよかった。

櫛笥町
同じく上京には「くしげ」町というのがある。
これは平安時代の藤原氏の四家のひとつ藤原北家(ほっけ)に関係している
北家は正親家の流れのひとつで,その中に「櫛笥家」があった。
そこから「くしげ」町と言う名前になったと思う。
つくづく「正親家」は難読町名に関係してくる。

そして,お馴染みの突抜町(つきぬけ)町
この「突抜町」は結構ある。
上京区では
突抜町(今出川通/下立売通)
社突抜町、大原口突抜町、木下突抜町

中京区には
突抜町(衣棚通/釜座通)
越後突抜町
仁王門突抜町


下京区にも
突抜町(正面通) 等々

一説には「つらぬけ」だ,という話もある。
これは地元のお年寄りに聞いてみないと分からないが,
これだけの町を訪ね歩いて聞き回る気力も体力も根性もない。
(お金をもらえるのなら考えようかな・・)

どっちが正解なのか分からないが,
世間一般には「つきぬけ」で知られているようなので
このまま「つきぬけ」と「つらぬけ」ばいいと思うのだが・・・    

この地名は傲慢爺の「豊臣秀吉」が関係している。
(以下http://www.syasin.biz/page/tensitukinuke/  より引用)
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天下統一を成し遂げた彼は都市改造計画を打ち出し,
上京と下京を御土居と呼ばれる土塁で囲んでしまった。
当時、上京は屋敷の立ち並ぶ富裕の者が集まる地
下京は商業街区であり民衆の町。
伏見を政治の中心としたかった秀吉は下京側に活気を持ってくる為、また人口の少ない地区に新しく区画を設ける為に上京から下京へ何本かの大きな通りを通した。
そうして作られた上京ー下京間の新たな通りを「突抜」、そこに成立した町を「突抜町」と呼んでいた。ということだ。

しかも,その通りの一つを作る時に、途中にあった由緒ある神社「五条天神宮」。義経と弁慶が出会った場所として知られているこの五条天神は天使様とよばれ当時の人々に親しまれていたのだが,道を境内に無理やり通してしまった為「天使様を突き抜けてまで道を作るのか!」と怒り、皮肉の意味を込めて天使突抜と名付けた。

 秀吉は現在の愛知県の生まれ。当時京都と何のかかわりもない外界の人間が、死ぬまで京都を大規模にかえってしまった為、非常に京都の人々には嫌われていた。その為、秀吉の邸宅は京都人の恨みによる破壊で現在は跡形も残っていないということだ。
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何が何でも「責任は私にあります」と言って
嘘ばっかりで,ひとつも責任とらない政治家(せいじ”や”)がいるが
傲慢爺の秀吉と共通しているかも知れない。
死期が迫ってから「内府殿,何卒,何卒秀頼のことをよしなに・・・・」
なんてことを彼も言いそう
「何とぞ何とぞ妻**を証人喚問することは・・」なんてね

京都の難読地名のことを書こうと思って始めたが,二つ書くだけでこれだけかかってしまった。これでは,先が思いやられる。
できればシリーズ化は避けたい。
難読ならぬ難ブログになる。