イェホシュアのイスラエルの信仰と証し -60ページ目

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Courtesy of J_D_L

 

 

私の過去はまったくひどいものであり、特に2010年のTwitter大炎上に先立つ半年間の行状は論外、あるまじきものであり、多数の方にご迷惑をおかけすることになりました。その後、落ち着いて、しっかりと反省して、前後関係がよくわかるようになり、自分がどれだけひどいことをしたかを正確に自覚できるようになるまで、2年ぐらいかかっています。

この当時、私は、あるインターネット系の著名企業から出資を受けて、ピーポーズという名称の新規事業に取り組んでおり、「宣伝してユーザーを増やして、早期に出資者の方々にリターンをお返ししなければ」という思いのあまり、ありとあらゆる手段を使って「露出する」ことを心がけていました。ピーポーズは、個人の時間を売り買いできる新しいサービスでした。現在のビザスクが非常に近い姿です。

複数の投資家の方々から出資を受けた資本金が、インドでのオフショア開発に資金を投じ続けた結果、だんだんと枯渇してきて、キャッシュショートが目前に見えてきた段階で、私が選択したのは、「宣伝コストがゼロであるTwitterで、なるべく目立つ行動をして、ユーザーベースを増やそう」というやり方でした。

ピーポーズに登録していただく「講師」を増やすために、優れた見識をお持ちの方々とお近づきになり、ワイン会をやり、一緒にビストロでご飯を食べ、Twitterイベントやって、その一部始終をTwitterで書いて、ピーポーズを宣伝していました。

この時、私もいい気になっていましたから、複数の異性の方々にご迷惑をおかけすることになってしまい、悪いことはいずれ明るみに出ますから、それがTwitterで公に取りざたされるようになり、あることも書かれましたし、ないことも書かれました。何れにしても、私の悪い言動が引き起こした事態であり、私の悪さゆえに起こった展開です。たくさんの方々にご迷惑をおかけすることになりましたことを、深くお詫び申し上げます。



ある朝、起きてみると、複数の匿名アカウントが私を非難するツイートを複数書いていて -- その一部は真実でしたし、残りは言いがかりでした-- かつ、そのツイートが、お世話になっている出資者の方にもメンションされていたので、もう放置できないと、猛反撃に出ました。(←これが、やってはならないことでした)

この時、私は、ネットで炎上するメカニズムがよくわかっていませんでした。ネットの喧嘩は、すべてが記録に残ります。匿名アカウントの非難に応じれば応じるほど、それは記録として残って行き、その記録はリアルタイムで肥大化して行き、さらに攻撃する人が増えて行きます。動けば動くほど、火は大きくなり、私が反撃すれば反撃するほど、騒ぎが大きくなって行きます。

その当時、私について書いていたアカウントは今でも残っています。
また、当時の私の恥でしかない反撃ツイートと、それに対する匿名アカウントの方々との応酬はTogetterで編集されて記録として残っており、私の名前で検索すると、すぐに出てくるページになっています。

このTwitter炎上は、2chにも飛び火して、私のページができ、私が知っている少数の方がに加えて、私が知らない方々が、色々に書き、噂し、論評し、議論し、私の行動を色々に報告して、さらにそこにコメントがついていく…という日々が、半年ほど続きました。まったく私の不徳の致すところであり、たくさんの方にご迷惑をおかけしました。改めて、深くお詫び申し上げます。



この当時、私は、ペンテコステ系のキリスト教会に通って10年目でした。しかしその実、クリスチャンとは名ばかりで、何も信仰がなく、なんちゃってクリスチャンであり、まさに「肉」ばかりで歩んでいました。複数の女性と不品行な行為を行い、ワイン会を開き、Twitterで目立つように自分の行動を書き、多くの方々の顰蹙を買う言動を繰り返していました。

当時の妻と息子とは、Twitterで繰り広げられるあまりにひどい私の言動が元で、離婚に至り、家庭裁判所から面会権をもらえない関係となり、妻も息子も私から絶縁して、一家離散状態となりました。

Twitterと2chで繰り広げられている炎上の様は、第三者の方が、私が当時契約関係にあった外資系IT企業の人事部に報告され、その会社との契約は切られてしまいました(それももっともなことでした。私の言動の悪さゆえです。当然の報いです)。

出資していた企業の中には、私の味方をして下さる方もいましたが、出資企業として当然看過できない状況となり、叱責を受け、出資引き上げということになってしまいました。それもまた、当然の企業行動でした。悪いのは私です。

一家離散となり、年間1,000万円以上あった契約は切られ、出資企業からは出資引き上げとなり、私は、家族を失い、職を失い、新規事業はゼロとなり、負債を負い、一文無しになり、住んでいた六本木一丁目の賃貸マンションを出て、母が一人暮らしをしている千葉県のある都市の3DKの部屋に居候することになりました。



当時は、睡眠時間3時間で、Twitterをやりまくっていましたから、睡眠不足ゆえのハイな状態になっており、異様に喧嘩っ早く、常にハイテンションで、すなわち、悪霊が複数、暴れまくっているような状況でした。

一家離散となっても、何が起こったのか、正確に把握できず、冷静にすべてを見渡せるようになるまで2年ぐらいかかりました。

この間、職もなく、借金はあり、一文無しでしたから、食べるために、ありとあらゆることを試みて、最終的に、自分ができることである、インターネットを使った業務系のリサーチで食べていくこととして、インフラビジネスに特化したリサーチの看板を掲げて、数年間、色んなことをやりました。猛烈に勉強しました。

しかし、この間、あるいきさつがあって、やむにやまれぬ事情だと受け止め、ある方と不倫の関係になり、それが2年続きました。

その後、ジストニアという、原因不明の首が曲って、まっすぐに歩けなくなる病気にかかり、ひどく苦しみました。

悔い改めをし、更正する道を歩み始めたのは、2010年のTwitter炎上があってから、4年ぐらい経ったあたりからです。

この間、「発展途上クリスチャン」というクリスチャンブログをこのアメーバで書き継いでいて、特に、日本では情報が少なかった悪霊の追い出しについて、判明したことを逐一報告していました。(現在も、何本かの投稿が残っています)

千葉の自宅のそばにあったオーソドックスなプロテスタントの教会に通わせていただき5年。その後、進歩的な会派の教会に通って、今で言う、弟子訓練的なことに取り組んで3年弱。

偶然に、カナダから来日された悪霊の追い出しの大家であるJozef Jasinski牧師のアテンドを10日間することになり、悪霊の追い出しのイロハや霊的な戦いのABCを学ぶ形になったのが2017年の9月。

220619 Sunday Service Live | Pastor Jozef Jasinski

それに先立つ1〜2年、いわゆる「幕屋の祈り」を続けていて、至聖所で天の父と交わることを時々やらせていただいて、色々な預言を受けるようになり、以下の召命をいただいたのが、Jozef Jasinski牧師との出会いから間もなく。

==
2017/11/8
聖所にて
おまえを日本の預言者として立てる。大いなる預言者と呼ばれるであろう。エリヤ。
おまえにすべてのものを渡す。(御国の鍵など、王が受け取ることができるすべての器具、持ち物、武器など)(王国。主の名の王国)

至聖所にて
福音のすべてを解き放ちなさい。福音のすべてを渡すから。
イエスの栄光を解き放ちなさい。
==



それ以来、召命をいただいた者として歩むようになりました。しかし、これもまた、まっすぐな道ではなく、右に迷い、左に惑い。決してパウロが書く「御霊によって歩みなさい」ではなく、肉で歩み、自分の考えを当てにして、道を踏み外すということを、しばらく続けていました。

2018年2月からは、主イエス・キリストの神の国に、世界中の富を取り返すという壮大なビジョンの下に、国際的な仮想通貨の事業に取り組んだということもありました。ブエノスアイレス、シンガポール、ボストン、キシナウ、ブダペスト、ロンドンなど、様々な都市に滞在し、ありとあらゆる可能性を試して、もがいていました。

それがすべて失敗して、東京に戻ってきたのが2019年正月。

ここの教会の以前の名前である「ジーザスどこでも教会」として、毎週日曜日にメッセージ投稿を書くことは2019年の半ば頃から続けてきていて、教会の投稿をシェアする目的で始めたTwitterで、現在の妻である亜佐子さんと出会い、天の父から「この方を愛しなさい、いつまでも愛しなさい」と言われて、結婚をし、このあま市に移り住んで、1年半。

この間、悪霊の追い出しと、霊的な戦いとで、ありとあらゆることを行って、主イエス・キリストの名と権威によって戦いまくって、日本中の仏教の諸仏の大元にあるヒンズーの神々を「霊として」凄絶しまくり、日本を覆っていた霊的な圧迫を破壊しまくり、万軍の主の「万軍」である天使全軍の助けを借りて、主イエス・キリストの名と権威によって、日本中にはびこる諸霊を凄絶し尽くして、そうこうしているうちに、ここに、神の国が現れることを経験するようになって、初代教会が回復しました。

私が、証しできるのは、これほどのひどい人間であっても、主イエス・キリストが憐れんで下さり、罪の赦しを執り成して下さって、天の父に愛される息子として、ひどい部分を剪定し、良い部分の芽が出るようにして、色々に整えて下さって、聖書がわかるように仕向けて下さり、聖霊の助けをわからせて下さって、召命をいただいたそのままに、しっかりとした、キリストの弟子として、再出発させて下さる…。これほどのひどい人間に、召命を下して、ありとあらゆることを経験させながらも、何がイエス・キリストの道なのか。何が良いことで、何が悪いことなのか。悔い改めとは何のか。主イエスの新しい戒め「互いに愛し合いなさい」とはどういうことなのかをわからせて下さる。

 

これほどひどい人間なのに、主イエス・キリストは執り成して下さり、愛する兄弟姉妹を与えて下さって、初代教会を回復して下さり、聖書に書かれていることがすべて成就することを、目の前で見させて下さり、経験させて下さって、ひたすらに、天の父は愛の神であられるということをわからせて下さる。経験させて下さる。これほどの罪人であっても、主イエス・キリストが執り成して下さるから赦される。しかも、その血で洗って、聖書に書かれているがままに、聖なる者として下さる。いかにネットで過去の汚点が残っているとしても、何も苦にならない、主イエス・キリストにある本当の自由というものをわからせて下さり、喜びがあふれてくる。

 

本当の神とは、そういう方です。御子であるイエスが執り成して、天地万物を創造したまいし天の父が、愛して下さるのです。

そうすると、その人は、根本から変えられるのです。

 

ハレルヤ!

 

 

 

 

 

 

 



 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

ヨハネの福音書17章では、主イエス・キリストが弟子たちに「あなたのお名前を明らかにしました」とおっしゃっている箇所があります。この「あなた」とはもちろん天の父のことです。

「天の父の名」を明らかにしたとおっしゃっているにもかかわらず、この前後にも、福音書のどこにも、「これこれが天の父の名」ですと、明示的に御子であるイエスが天の父の名を指し示している箇所はどこにもありません。これが、なかなか、謎です。

今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。

ヨハネ17:5-8



旧約聖書では、モーセに現れた「神である主」、すなわち、
ヘブライ語原典ではアルファベット表記で"YHWH"と書き表されているお名前、すなわち、
英語訳聖書のほとんどでは"LORD"と書き表されているお名前、すなわち、
一部の英語訳聖書では"Yahweh"、すなわち、
また一部の英語訳聖書では"Jehova"、すなわち、
日本語の文語訳聖書では「エホバ」と書き表されているお名前…という具合に、
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神のお名前は、色々な書き方がなされています。

ここはヘブライ語原典に遡って、アルファベット表記で"YHWH"が、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の固有名詞であると受け止めましょう。

"YHWH"は、モーセの十戒で「神の名をみだりに口にしてはならない」ときつく戒められていることから、母音がない子音4文字で、いわゆるテトラグラマトンで記されており、これは誰も発音できないお名前として記されています。

ユダヤ人にとって「神の名をみだりに口にしてはならない」という戒めは絶対であり、"YHWH"とヘブライ文字で書くことすら恐れ多いということで、ある時期にはモーセ五書など現在見る旧約聖書のヘブライ語原典では、"YHWH"にあたる部分を、・・・・と、4つのドットで書き表していた時代もあるとのことです。そうした歴史的な事情は、英語のWikipediaで細かく解説されています。

Wikipedia: Tetragrammaton
https://en.wikipedia.org/wiki/Tetragrammaton#YHWH_and_Hebrew_script

この項については、色々と調べて確認する必要がある事柄がたくさんあるので、少しずつ書いていきます。

なお、神の名前については、以下の投稿で、一通り資料を確認した上で、整理させていただいております。

日曜投稿:神の名。なぜ「イエスの名」によって祈るのか?
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12530734598.html

日曜投稿:なぜ「イエスの名」によって祈るのか?(続)
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12627630486.html

日曜投稿:「万軍の主」は「天の父」であり主イエスの名によって動かれる
https://ameblo.jp/sasuke-memo2/entry-12622984615.html

 

 

Courtesy of Terry Goodyer

 

 

本日の礼拝は以下で行います。いつものようにGoogle Meetで行います。

礼拝メッセージのテーマは
イエスが教える「いのち」と私たちが理解している「生命」の違い
です。

礼拝
6月 19日 (日曜日) · 午前10:00~11:00
Google Meet の参加に必要な情報
https://meet.google.com/fps-sywf-bub

交わり
6月 19日 (日曜日) · 午前11:00~午後12:00
Google Meet の参加に必要な情報
https://meet.google.com/vep-vvru-dtt

イエス・キリストの言行ではよく「いのち」について触れています。
この「いのち」は、私たちが現代社会で考えたり、感じたり、理解したりする「生命」とは全く別物です。いくつかの聖句がそれをよく示しています。

いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
マタイ7:14

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。
マタイ10:39

いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
マルコ8:35

この「いのち」はキリスト教会一般で教えられているように、「死んでから行く永遠の神の国におけるいのち」だけではなく、「生きている現在、この地上で受け取ることのできるいのち」をも含んでいます。言い換えれば、「この地上で生きている間に、この『いのち』を受けることができる」のです。

この「いのち」とは、詰まる所何のか?
それを解き明かします。

カギは、創世記でアダムが造られた前後関係にあります。
 

Courtesy of Pedro Szekely

 

 

三位一体の教会群にない信仰は、「主イエスを証しするためなら殉教しても良い」と思う信仰です。

 

初代教会の活動が残っていた1世紀〜2世紀当時、「主=ギリシャ語・キュリオス」という称号は、皇帝にのみ冠せることができる称号でした。

従って、ナザレ出身のイエス(ヘブライ語イェホシュア。意味は YHWH + a cry for help)が「主=ギリシャ語・キュリオス」であると人前で言い表すことは、太平洋戦争中の日本である町の出身者が仮に山田一郎であるとすれば、「山田一郎は天皇です」と言うに等しいことでした。これを官憲が聞きつけたならば即刻牢屋に入れられて、天皇を侮辱する重罪に定めらます。

 

1世紀〜2世紀、人前で、ナザレのイエスが「主=ギリシャ語・キュリオス」であると言い表すことには、そうした、現代の日本にいると想像もつかないようなリスクがありました。シーザー/カエサルにのみ冠せられる「主=ギリシャ語・キュリオス」という称号を、ナザレ出身のイエスに対して冠せて言う訳ですから、これをローマ軍の兵士が聞きつけたなら、すぐにしょっぴかれて牢屋入りです。場合によっては皇帝を侮辱した罪で処刑されるでしょう。

 

それだけ、人前で、イエスが「主=ギリシャ語・キュリオス」であると告白することには、命を失う可能性があるほど、重みがあったのです。

キリスト教会で、受洗に先立って、キリスト教会の会堂の中で、信徒が見守る中で「イエスは私の主です」と言い表し、そこに自分の命が失われるようなリスクが一切ない状況で、言い表すのとは、全く異なる、極めて、腹を括って言い表さなければならない、場合によっては「自分は殺されてもよい」と言う覚悟があって言う、「イエスは私のキュリオスです」だったのです。

 

この信仰は、現代のキリスト教会からは欠落しています。(もっともヒンズー教が支配的であるインドやイスラム教が支配的である国々では、それと同等の命のリスクがあることは承知しています)

 

従って、以下のようにパウロが書いているのは、そうした、自分が殺されるかも知れない社会的政治的な状況がある中で、称号「キュリオス/主」を、ローマ皇帝ではないナザレのイエスに対して付けて呼ぶ。それも限られた人数がいる隠れた空間で言うのではなく、殉教したステパノのように、正々堂々と皆が取り囲んでいる場で言う。そうした、命を決した信仰告白は、聖霊によるのでなければできない、ということを書いているのです。

 

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

第一コリント12:3

 

 

現代のほとんどのキリスト教会は、三位一体の教義を掲げており、「父と子と聖霊とが三つにして一つ」という3〜4世紀の人間が作った人工的な神を信じていますから、真理の御霊である聖霊は下っていません。本当の聖霊が下ると、人間がどのように劇的に変化するのかを、見たことがありません。まさに使徒の働きに書かれていることが眼前で展開します。

 

従って、聖霊が「何かを言わせる」ということを経験したことがありません。

自分の命の危険性がある状況で、あえて、聖霊が言わせる事柄を言う、ということを経験することがありません。

聖霊に、「そのことを言う」ように仕向けられて、急き立てるように「言う」ということが、わかりません。

聖霊は「言わせる霊」です。何を言わせるのか?「イエス・キリストの救いは、それほどまでに劇的に人間を変える。それはすなわち、天地創造の神であり、全く何もないところから天や地や生き物や人間をお造りになった神が、天の父として、御子イエスを信じる信仰のゆえに、その人を、根本から劇的に変えて下さるのである。それほどまでに、御子イエスを信じる信仰によって働く、全能の神であられる天の父の御業は凄まじい」ということを言わせるのです。

 

使徒の働きにあるペテロ、ステパノ、パウロの信仰告白は、ユダヤ人に向けられて、御子イエスがメシアであると証しをしている信仰告白です。ユダヤ人は、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神をよく知っています。その神がユダヤ人/イスラエル人をエジプトから脱出させて下さった神だということを、代々旧約聖書をよく読んで子々孫々に伝えてきている民です。

 

そのアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の子供として、メシアとして、ナザレのイエスが現れた。子供であるイエスから見れば、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神は「天の父」である。この、歴史的には全く新しい認識が受け入れられるか、受け入れられないか。そうしたギリギリのところで、「ナザレのイエスはメシアである。ナザレのイエスはキュリオスである」と証ししています。

 

これはユダヤ人/イスラエル人に対する信仰告白です。

 

ここ日本ではどうか?現代のキリスト教界においてはどうか?何が、命を脅かす危険性がある信仰告白か?

 

この「主イエスと食事をする教会」のブログでは、そうした信仰告白を毎日のように行なっています。

 

私は、2017年に召命を受けた時、「殺されることになるんだな」という理解を得て、喜びの涙があふれてきて止まりませんでした。

 

初代教会の信仰が仮に回復しているとすれば、それは、聖書に100%合致する信仰であって、それを人前で信仰告白した際に、殉教する可能性がある事柄に関する信仰だと考えます。

 

このサイトで繰り返し書いてきているように、三位一体は、異教であるグノーシスを信奉する司教達、神秘主義である新プラトン主義の薫陶を受けた司教達によって、聖霊が下っていませんから、そのよくわからない聖霊を現在の新約聖書の各書から類推し、議論して、「聖霊は神である」と理解し、とって付けたように、父と子と聖霊とは三つにして一つと、まさに偶像に他ならない呪縛がある神理解を作り上げ、それによって、三位一体を否定すれば即異端という、恐怖政治的な恐怖によるキリスト教会支配のシステムを作り上げ、それ以来、千六百年にわたってキリスト教会群を支配してきています。

 

それは、少しの英語力があり、少しの調査能力があれば、このインターネットにあふれている無数の文書群に照らして、すぐに、誰でも、理解できる事柄です。

 

そうして、天の父に教えられ、主イエス・キリストに教えられて、聖書に100%準拠した神理解を理解せていただいて、信仰告白する。聖霊は神ではない。聖霊は天の父から御子イエスの名によって遣わされた霊。神の霊。アダムに吹き込まれた命の息。

 

それが、イエス・キリストを本当に信じる人に下ると、その人は全く新しい人間として生まれ変わる。見た目はパウロが書くように、ほとんど変化がないかも知れないけれども、その人の内からは、イエス・キリストが福音書でデモンストレーションされた「神の人」としての輝きが照り渡り、主イエスがおっしゃるままに「生ける水の川が心の奥底から湧き出てくる」。その生ける水の川は尽きることがない。それが、主イエス・キリストの死にあずかるバプテスマ(ローマ6章)によっていただくことのできる「いのち」。この「いのち」は、誰も奪うことができない。この「いのち」は、永遠のいのちと直結している。その人は、すでに神の国に入っている。主イエス・キリストも、天の父も、親しく、その人のそばに来て、一緒に住んでくださる。ヨハネ14章〜17章の主イエス最終説教で説明された事柄がそのまま成就している。こうした「いのち」が、聖書で書かれているままに、自分において、与えられた以上、何を恐れる必要があろうか?たとえ、誰かから殺されることがあったとしても、何も恐れることはない。

 

そうした信仰。ステパノが信仰告白していた信仰。イエスこそが主であり、このイエスを通して全能の神、イスラエルの神であられる天の父と直結する。そうして神の霊である聖霊をいただく。そこに本当の「いのち」がある。「生ける水の川」がこんこんとあふれてくる。そうした「いのち」があり、この「いのち」はもう失われることがありませんから、死んでも生きるのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イエス・キリストにあって救われた人は、十字架でご自身を捧げられたイエス・キリストに経緯を表し、イエス・キリストが自分にどんなに良いことをして下さったかを、証しする責務があります。 

 

特に、仏教や神道の諸仏、諸神の霊的な圧迫が強いこの日本では、人前で、イエス・キリストを証しすることには、霊的な圧迫があるがゆえに、困難があります。 その困難をあえて押して、人前で、イエス・キリストを証ししてくことはものすごく大切です。

 

新約聖書ギリシャ語の「証人」には「殉教者」という意味があります。

イエスの証しをすることが、殉教につながっていったという、1世紀〜2世紀の状況があります。

それについて、関連資料を引用しながら、説明しています。

 

 

Taken by me