「神の名」と「イエスの名」については、一度、旧約聖書の翻訳の歴史を調べて、旧約聖書ヘブライ語原典の"YHWH"がなぜ『主』と訳されれるようになったのか、また、ヘブライ語の元々のイエス様のお名前には"YHWH"が含まれていたということを、昨年の9月にこちらの投稿で書きました。
◎昨年9月の投稿の要約
投稿の要約を以下に記します。
主イエス・キリストが生きておられた当時、モーセの時代から1000年以上経っていたので(その間イスラエルの民も様々に揺れ動いて生きてきたので)、ユダヤ教の先生や祭司たちは神の名である"YHWH"の正しい発音がわからなくなっていました。そうして、読むことができない"YHWH"の代わりに"Adonai"(あるじという意味)という言葉を当てて読んでいました。Adonaiは日本語では『主』(太文字の主)、英語では"LORD"です。その背景として、モーセの十戒によって、「主の御名をみだりに唱えてはならない」ときつく戒められていたことがあります(出エジプト20:7、申命記5:11)。
ユダヤ人にとって、神の本当の名は唱えることが禁じられ、その正確な発音方法すら失われていたところに、神のひとり子であるナザレのイエスが登場し、「私の名によって天の父に求めなさい」と教えられました(ヨハネ15章、16章)。
その主イエスの名は、大元のヘブライ語ではYehoshua(Yeshuaは短縮形)。
Yehoshuaには神である主の名"YHWH"が含まれており、その意味は「YHWHよ、お救い下さい!」(YHWH + a cry for help)です。すなわち、イエスの名によって祈ることにより、"YHWH"に助けを求めることになるのです。
主イエス・キリストを信じる信仰により、私たちは、"YHWH"の正しい発音を知らなくても、日本語で「イエス」と言えば、天地万物を創造なさった旧約の"YHWH"に呼びかけていることになるのです(主の御名を呼ぶものは皆救われる)。それが「イエスの名によって祈る」ということです。
ヨハネの福音書で、主イエスは、自分の名で祈ると父に求めていることになる、ということを何度かおっしゃっています。このことから、「YHWHよ、お救い下さい!」という意味があるYehoshuaが元々のヘブライ語名である主イエスの名によって祈ることは、1)"YHWH"に求めていることであり、2)天の父に求めていることである、ということになります。論理的に考えれば、旧約の"YHWH"(「主」)は新約の「天の父」であるということになります。
"YHWH"の神格も、新約における三位一体の「父」の神格も、神のことですから、人間の理解を超えたところに実体があります。主イエスが父について述べているみことばのみが実体を正確に表していると捉えればよいでしょう。
詳しい経緯は昨年9月の投稿をお読み下さい。
◎モーセに現れた神の名
以下では、神の名について、最近理解したことをメモ書き的に記します。
出エジプト記2章で、パロに殺されることを恐れたモーセはミデヤンの地に逃げます。その土地の祭司レウエル=イテロ(同一人物のようです)とともに住むことを決意し、娘チッポラと結婚します。その後、モーセは四十年間(使徒7:30)、イテロの羊を飼う暮らしをします。モーセは長い期間にわたって羊飼いだったのです。ダビデが若い頃羊飼いだったこと(第一サムエル17:15)。主イエス・キリストの生誕の際に羊飼いに御使いが現れて救い主の誕生を告げたこと(ルカ2:8)。ペテロが主イエスから「わたしの羊を飼いなさい」と言われたことなどが浮かびます。
そうしてモーセが羊を追って神の山ホレブに来た時に、萌える柴の中から呼びかける神の声を聞きます。
すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。
神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
(出エジプト3:2-6)
3:2にある「主の使い」は英語訳で"the angel of the LORD"、"LORD"はヘブライ語原典では"YHWH"です。
◎ 「わたしは、『わたしはある』という者である」という神の名
この"YHWH"であられる神、日本語の新改訳聖書では太文字で「主」と記されている神は、モーセに「わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ」と命令します。いきなり降って湧いたような神からの命令です。モーセは理解不十分ながらも請け合います。しかし、遣われたイスラエル人のところに行った時に、どう説明していいかわからないので、私に命令した神の名は何と言えばよろしいのでしょうか?と尋ねます。「神の名」を尋ねたのです。この時は創世記も成立していなかったでしょうから、"YHWH"という神の名もモーセは知らなかったものと思われます。
神である主はモーセに名前を聞かれて、次のように答えます。
モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました』と言えば、彼らは、『その名は何ですか』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」
神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。『わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた』と。」
(出エジプト3:13-14)
「わたしは、『わたしはある』という者である。」
これは、英語訳では、
"I AM THAT I AM" ないし "I AM WHO I AM"です。
「わたしはあるという方」の部分は、英語訳では、
"I AM" です。
神である主は、"I AM"であり、 "I AM WHO I AM"であると自らの名を告げておられます。
なお、これに続く部分で、神である主は、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であり、「主」("YHWH")であるとも告げておられます。
神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。(出エジプト3:15)
◎
先日、イスラエルに拠点を置いて、メシアニックジュー(ユダヤ教の家庭に生まれて、後からクリスチャンになった人たち)のために教育コンテンツを配信しているONE FOR ISRAELの「神の名」に関する記事を見つけて、読んでみました。
ONE FOR ISRAEL: The Name Of God
このサイトでは、旧約聖書を数千年にわたって読み継いで来たユダヤ教的な旧約聖書理解の上に立って、新約の主イエス・キリストの福音を深く理解する記事が掲げられています。日本で聖書を読んでいる私たちには気づかない視点や理解が得られます。
また、筆者の名前が記されていないのが惜しまれますが、先日こちらの投稿で紹介した記事
日曜投稿:「万軍の主」は「天の父」であり主イエスの名によって動かれる
にもあった"ONE FOR ISRAEL Staff"という執筆者が、今日の記事と同じ方であることはほぼ確実です。
この方は、旧約聖書でわからない部分を、ユダヤ教の数千年の伝統を受け継ぐ「ラビ」(先生)に尋ねることができる立場にいて、ラビから教えてもらった知識を現代の聖書理解に適用できるように解説してくれます。また、現代イスラエル人として日常的にヘブライ語を使いながら、聖書の時代のヘブライ語の意味を解き明かすことができる立場にいます。大変に稀有なサイトだと思います。
「神の名」を解説したこの記事には、次のことが書かれていました。
◎ヘブライ語の聖書の預言は未来形が過去形として読める
現代のイスラエルでは、神の名をみだりに口にしないというユダヤの伝統が生きていて、神の名を書くことさえ避けます。書かれた神の名が消されると、それが冒涜になると考えるからです。そのため、"God"と書くことさえ憚って、"G-d"と書くことがあるそうです。
また、"God"と呼ぶべきところを"The Name" (御名)と呼び、「神が祝福されますように」と言うべきところで、「御名が祝福されますように」と言うことがあるそうです。それほどまでにモーセの十戒「主の御名をみだりに唱えてはならない」から来る「神」の取り扱いに慎重な姿勢が浸透しており、今に至るまで息づいています。
執筆者によると、ヘブライ語では、聖書の中の預言が過去形のようにも捉えられるのだそうです。しかし、その内容は預言なので、未来に起こることです。また、過去のことを言う動詞が未来を示すように受け取れることがあるそうです。そのようにヘブライ語では、過去を示す言葉と未来を示す言葉とが両方の意味を持っており、預言が時間を超えたものになっているのだそうです。預言とは神の言葉ということです。
◎“I AM"は神のために取って置かれている
興味深いことに「存在する」という意味の動詞の現在形、英語で言う"I am"の"am"、"He is"の"is"は、ヘブライ語では使わないそうです。Be動詞の現在形を使う習慣がないそうで、これはおそらく、Be動詞の現在形は、神のために取って置かれているのではないかと説明しています。
神の山ホレブでモーセに神であられる"YHWH"が現れたとき、神はご自身の名を“I AM WHO I AM"であられると告げられました(上記参照)。
この"I AM"であられる神に敬意を表して、イスラエル人はBe動詞の現在形を使わないという解釈です。これは「神」という言葉の取り扱いに非常に慎重になることと通じます。上述のように"God"と書くことさえはばかって"G-d"と書く習慣がある人たちです。
また、上で、ヘブライ語では過去を示す言葉と未来を示す言葉とが両方の意味を持っていると書きましたが、現代のイスラエル人がヘブライ語の”I AM WHO I AM"の部分を読むと、"I WILL BE WHO I WILL BE"という未来形としても、"I WAS WHO I WAS"という過去形としても読み取れるのだそうです。つまり、神が過去にも未来にも同じように存在し続けていらっしゃるということの反映でしょう。
◎"I AM"をお使いになった主イエス・キリスト
そのように特別な意味を持つ現在系のBe動詞”I AM”を用いた例外的存在が、新約聖書に登場する主イエス・キリストです。
ヨハネ4章でサマリアの女に現れたところで、
イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」(ヨハネ 4:26)とおっしゃっているその言葉が”I AM”。
ヨハネ8章でユダヤ人たちと論争していた時に、
そこで、ユダヤ人たちはイエスに向かって言った。「あなたはまだ五十歳になっていないのにアブラハムを見たのですか。」(ヨハネ8:57)
と言われた時、お答えになった言葉、
イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)
の「私はいるのです」と訳されている部分が”I AM”です。
モーセに現れた神"YHWH"が用いられた”I AM”を、ここでナザレ人イエスが用いることで、ご自身が天地創造の前から、天の父と共におられた御子であることを証しておられるのです。
三位一体の神の理解は、日常私たちが使っている論理で考えると、なかなか整合させることが難しいです。しかし、ヨハネの福音書14章から17章にかけてのイエス様ご自身のお言葉を何度も何度も繰り返し読むと、ああそういうことなのかとわかってきます。