日曜投稿:「万軍の主」は「天の父」であり主イエスの名によって動かれる | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

Andrew Seaman

 

御子であるイエス・キリストを介して、天の父と交わることができるようになると、聖書に書かれているたくさんの事柄が、よく理解できるようになります。また、生ける神(マタイ16:16など)とはどんなものか、わかるようになります。多くの人が、そのための道を見つけて、そのような交わりに入れることを望んでいます。



主イエス・キリストを介して、天の父と交わることについては、ヨハネの手紙第一の最初の方に書かれています。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
(第一ヨハネ1:3)

この交わりは、霊における交わりであり、言葉に表しにくい内容があります。たとえて言えば、永遠におられる神であられる主(YHWH)が、御子イエスと共にいらっしゃって、そこで、神としての言葉を語り続けておられる、けれどもその言葉は人間の言語には翻訳しにくい…といった風です。



一般的に教会では、御子であり、主(Lord)であるイエス・キリストについては教えますが、天の父がどんな存在であるかを教えることは、あまりないように思います。残念なことです。

主イエス・キリストが、天の父について何とおっしゃっているか。パウロが、天の父について何と書いているか。少し調べてみればわかることです。

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
(ヨハネ17:3)

なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、
私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

(第一コリント8:5-6)

神であられる天の父を、イエス様は「唯一のまことの神」と呼び、パウロは「父なる唯一の神」と書いています。

一方で、御子イエスは、子であるイエス様が父なる神にいて、父なる神が子であるイエス様にいるということを、ヨハネ14章で述べておられます。これによって子であるイエス・キリストは、御父と一緒にいる神であるということが理解できます。父と子はともにおられます。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

(ヨハネ14:10-11)

そのようにして、子であるイエス様と、父である天の父とが一緒にいる状態に、信仰により、聖霊に助けられて交わるのが、第一ヨハネの冒頭にある「御父および御子イエス・キリストとの交わり」です。

この交わりに入ると、もうただひたすらに、これだけでありがたい、これこそが永遠であり、これこそが愛であられる神…。これこそが生ける神、これこそが万物の根源であり、全てをお造りなさった神…、その満ち満ちた様…。という感じになります。

そこに天の父がおられ、そこに主イエスがおられる。そして自分たちが主イエスにおり、主イエスを通じて天の父とも交わることができる。まさにヨハネ14:20でイエス様がおっしゃっている状態です。

その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。
(ヨハネ14:20)



ヨハネは、「私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」と書いていますから、それは「私たち」、すなわち信じる者たちと、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

これは、交わっている時に自分がたとえ一人であるとしても、「あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つ」(ガラテヤ3:28)と書かれている、一つの、普遍的な、目に見えない教会の信徒としての一人であるということ。「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり」(ローマ12:5)とある、一つのキリストの体を構成する信徒の群れの一人であるということです。たとえその時に一人で天の父および主イエスに向き合っているとしても、世界の基が置かれる前から父なる神が御子イエスにあって私たちを選んで下さった永遠の時間の中では(エペソ1章)、すべての信徒たちとともに、王の王である主イエス・キリストを賛美する礼拝の中の一コマです(黙示録7:9)。

この「交わり」をギリシャ語聖書で確かめてみると、"koinónia"(英音訳)という言葉が使われています。
koinóniaは通例"fellowship"(交わり)と訳されますが、"communion"(聖餐式)という意味も持っています。
主イエス・キリストと御父との交わりは、目には見えないけれども、ある種の聖餐式のような交わりと言うことができるかも知れません。



現代の聖書では、旧約のヘブライ語原典で「YHWH」と記されていた天地万物を造りたまいし「主」と、「主イエス・キリスト」に同じ「主」という言葉が当てられているため、旧約の「主」と新約の「主」との混同が起こりがちです。
父なる神と子なる神とを理解する際に、後者が「主」であるならば、前者も旧約の「主」。どちらの「主」がどうなっているのか?という混同です。これについては、ヘブライ語旧約聖書の翻訳の歴史まで遡って確認することで、ああそういうことだったのかと明快に理解できます。そこについては投稿「神の名。なぜ「イエスの名」によって祈るのか?」で整理したことがありますので、ご興味がおありの方はお読み下さい。

ペテロの時代、パウロの時代には、彼らは旧約聖書を読み込んでいたユダヤ人であるため、この混同とは無縁でした。パウロが「父なる唯一の神」(=旧約のYHWH)と「唯一の主なるイエス・キリスト」とを明確に書き分けているのは、彼にとってはこの区別は明白なものだったからです(第一コリント8:5-6)。また、イエス様が、天の父を「唯一のまことの神」と呼んでおられるのも、ユダヤ人として生を受け、旧約聖書をよく読み込んでおられたイエス様が、旧約聖書の「YHWH」、すなわち現在の新改訳聖書では太文字で「主」と記されている神を、子としてそのようにお呼びになったのだと理解できます。

同じ投稿で、ヘブライ語のイエスという名にヘブライ語の父なる神の名が含まれているという事柄についても説明しています。これもまた、父と子の関係を理解するのに大変に役立ちます。

子の名で祈れば、父を呼んでいることになるのですね。

なお、天の父と御子イエスと交わる時、また、子の名で祈る時、聖霊が常に霊的な受け皿になっています。聖霊は子として下さる御霊(ローマ8:15)ですから、天の父の子どもの立場で交わります。また、祈ります。



イエス様がいらっしゃった時代の福音、ペテロやパウロが活躍していた頃の福音とは、どのようなものだったか?彼らにとっての聖書、旧約聖書で記されていた、その名を口にしてはならない神、人間が発音できないように子音だけで記されていた神「YHWH」(新改訳聖書では太文字で「主」)。その恐れ多い神が、「子」としてご自分を表されたイエスを信じることによって、「父」になるということ。「子」の名で祈れば「父」が現れて下さって、そこに「神の国」が現れるということ。「子」であるイエスが十字架に架けられ、三日目によみがえられたと信じれば、すべての罪が赦されること。そうしたことではなかったかと思います。

ガチガチの律法で縛られた、その名を口にすることがモーセの十戒で厳しく戒められていた「神である主」。「YHWH」と記されていて、誰も正しい発音を知らない状況になっていた神が、御子イエスによって「父」という近しい関係になった。子を信じれば、父が愛して下さる。それが当時のユダヤ人にとっては、衝撃的な重みを持った福音だったと思います。ユダヤ人の日常がひっくり返るような出来事だったと思います。

この時、主イエスによって「父」であると教えられた神は、彼らにとって、よく知られた神でした。彼らはアブラハムに連なる民でしたから、出エジプトで奴隷状態にあったイスラエル人を、十の災害と海を割る奇跡によって脱出させて下さった神である主をよく知っていました。神が、そのような人間の理解をはるかに超えた御業をなさる方だということを、よく知っていました。



現代において、主イエス・キリストの福音がうまく伝わらないのは、神のことをよく知らないからではないか、と思うことが、時々あります。

その人が、神がどのような存在であるかをよく知っており、神をあがめる気持ちがあるなら、神の子が主イエスであると知ったとたんに、「おお、そうなのか!それはすばらしい!」となります。神を知っている人には、主イエスが御子であり、御子イエスを信じれば、父なる神の子どもになれるということは、まさに福音なのです。
しかし、神を知らない人にとっては、「神のひとり子である主イエス」と聞いても、「神」そのものがよくわからないので、その「ひとり子」と言われても、ピンときません。

周囲を見渡すと、主イエス・キリストを受け入れていない人たちは、神を知らない人たちでもある、ということなのではないかと思えてきます。



旧約の神「YHWH」(太文字の「主」)が、新約の「天の父」であるということを、ハッキリと言う人があまりいないので、私の理解は大丈夫なのか?と思うことが時々ありました。

以前は、天地創造の際に、御子の言葉によって万物が創造されたと書かれているので(ヨハネ1章、コロサイ1章)、旧約の「YHWH」は御子イエスがともにおられる状態で存在していると考えていました。それはそれで正しいと思います。神のあり方は、人間の論理的な理解をはるかに超えた形であるので。

先日、メシアニックジュー(ユダヤ教を厳格に信じるユダヤ人として生まれ、後に主イエス・キリストを受け入れたクリスチャン)の団体であるONE FOR ISRAELのサイトで、たまたま「万軍の主」の意味を解説している記事を見つけたので、ざっと読んでみました。「万軍」とはどういう意味なのか、興味がありました。というのも、霊的な戦いの祈りを行なって「敵」(敵の霊)と戦う際に、「万軍の主」の「万軍」の手助けが必要なことがあるからです。

What Does “Lord Of Hosts” Mean?

ここで、英語で整理をしておくと、次のようになります。
「主」=Lord(特に"LORD"と大文字で記す時は、ヘブライ語原典の"YHWH"を英語に置き換えた場合)
「万軍」=Hosts("host"とは古英語で軍隊という意味。複数形であるので「無数の軍隊」=万軍)
「万軍の主」=Lord of Hosts

Lordは、ヘブライ語聖書では"Adonai"。
過去に調べたところでは、元々のヘブライ語聖書で"YHWH"と書かれていて発音方法も伝えられていなかったところ(十戒→みだりに神の名を唱えてはならない)、時代を下るにつれて"YHWH"が". . . ."(4つの点)で書かれた時期もあり、聖書を朗読する時に困るので". . . ."を"Adonai"(ヘブライ語で主、あるじ)と置き換えて読むようになった。そういう経緯がある"Adonai"です。読むことができなかった神の名を、読むための仮の名前で置き換えたことから来た"Adonai”=主(あるじ)という言葉なのです。



この記事では、ヘブライ語"Adonai Tzva’ot"(万軍の主と訳されている言葉)について、どういう意味があるのかを説明していました。

読んでいくうちに、この記事を書いた人(署名ONE FOR ISRAEL Staff)は、原典ヘブライ語で旧約聖書を読んでいる人であるということ。また、ユダヤ教の家に生まれ育ちユダヤ教をよく知っているということ、つまりユダヤ的な神の理解によく通じているということ。そして、現代的なクリスチャンとして新約聖書をよく理解しているということが、わかってきました。

彼の解説によると、第一に「万軍」は、一般的に捉えられているように「天の軍勢」=おびただしい数の天使という意味もあるとのこと。
そして、一般的なクリスチャンが得られない理解として、次のようなことも説明しています。

"Host"が最初に表れるのは、創世記2章1節。

こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
(創世記2:1)
Thus the heavens and the earth were finished, and all the host of them.
(King James Version Genesis 2:1)

日本語で「そのすべての万象」と訳されている部分は"the host of them"です。意味を細かく噛み砕くと、複数形の天(heavens)と単数形の地に含まれている、神の御心によって動くすべての物(軍隊という意味)ということになります。

この筆者の近くにはユダヤ教のラビ(教師)がいて、ここの"Host"の意味について質問する機会があったようです。おそらく長いことヘブライ語原典を読み続けてきた、洞察力の深いラビなのでしょう。

彼は書いています。
I learned from a rabbi that this could mean that all of the atoms, all of the molecules, the vast array of them, were working together… all assembled and acting towards a purpose. Like an army. Not like a machine, but like an army. That was an amazing thought to me.

私はあるラビから次のようなことを教わった。"Host"とは、すべての原子、すべての分子から成る膨大な配列が、有機的に組み合わせられて、1つの目的に向かって、ともに働く様を表している。それはあたかも1つの軍隊のように。けれども、それは機械的に動くのではない、意思を持った軍隊として動く。この理解は私にとって大変な驚きだった。

そうして、サムエル記第一のハンナの祈りから来る知識を付け加えています。
「万軍の主」という言葉を聖書で最初に使ったのは、ハンナだそうです。

そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」
(第一サムエル1:11)

この時、ハンナが祈ったのは、「軍隊」を束ねる神というよりも、天地万物を創造なさった際に、すべての原子、すべての分子をも、神のご意思に合わせてともに働くようにお造りなさった神。また、人間の細胞や、細胞を形作る原子をも無からお造りなさった神に対してです。すべての細胞も、そのご意思によってあたかも軍隊のように動かすことができる神に対して、「男の子を授けてください」と祈ったのです。そういう解説をしています。

つまり、万軍の主、Lord of Hostsとは、神がお造りになった天地万物および人間を含むすべての被造物の最小部分を形作っている原子や分子ですら、あたかも神の軍隊のようにご意思に沿って動く、そうした創造物の唯一の神ということです。

これがそうだとすれば、主イエスが行なった数々の奇跡がよく理解できます。万軍の主である天の父が、子であるイエスの求めに応じて、万軍(Hosts)を動かしたのです。水がワインになり、盲人の目が開き、死人がよみがえりました。その根底には愛があったことを忘れてはなりません。

この記事では、最後の部分で、私たちが天の父を「万軍の主」と呼ぶことができる、ということを明確に書いています。

When we call our Heavenly Father the “Lord of Hosts”, there is so much in that name.
私たちが天の父を「万軍の主」と呼ぶ時、そこにはその名が指し示す以上の意味があります。


そうして、愛の神であられる天の父は、すべてのものを形作る細部をオーケストラのように指揮なさって、神の御心を実現して行かれる、ということを書いています。

次の詩篇は、人間の命を形作る細部(Host)に、神のご意思が働いていることを、よく示しています。

私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。
私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。
あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。
神よ。あなたの御思いを知るのはなんとむずかしいことでしょう。その総計は、なんと多いことでしょう。

(詩篇139:14-17)



ヨハネの福音書14章から17章で主イエスが説明なさっているように、主イエスを信じる人は主イエスと同じわざを行ないます。また、もっと大きなわざを行ないます。これは、万軍の主である天の父が動かれるからです。

主イエスの名によって、天の父に求めることができます。これは、主イエスの名によって、万軍の主に求めることができるということです。創造物の最小単位をも自らの軍隊として動かすことができる万軍の主が、御子イエスを愛する愛のゆえに、イエスを信じる人の求めを聞いて下さって、答えて下さるということです。

御子イエスを信じ、その名で求めることにより、万軍の主が動いて下さる。これが福音の一つの側面です。