「終わりの日」の心得を聖書から学ぶ | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

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主イエスが来られる時、それはノアの洪水のように、ほとんどの人にとっては、突然の出来事として起こります。

この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。
洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。
そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

(マタイ24:35-39)

人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。
また、ロトの時代にあったことと同様です。人々は食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていたが、
ロトがソドムから出て行くと、その日に、火と硫黄が天から降って、すべての人を滅ぼしてしまいました。
人の子の現われる日にも、全くそのとおりです。

(ルカ17:26-30)

今が終わりの日(終わりの日々)に入っているのかどうか、携挙論者の人たちが言う患難期に入っているのかどうか、わかりません。
けれども、気象、米国を含む色々な国々で起こっている、理解が難しい出来事(一例、米国のポートランドの暴力の状況)などを見ると、主イエスが言われた終わりの日の状況に合致しているように思えます。

だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。
だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、
星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。

(マルコ13:23-25)

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。

(マタイ24:29-30)

不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。
(マタイ24:12)

マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章で主イエスが預言なさっている終わりの日、ないし、世の終わりの状況。それらをよく読むと、前兆の出来事がいくつかあるものの、真の主イエス・キリストの再臨は、まったく予想もしていなかったタイミングで起こります。

人の子の来るのは、いなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。
(マタイ24:27)

あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。

(ルカ21:34-35)

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。
しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

(マタイ24:42-44)

予想もしていなかった時に、「え?いま来られたの?」、「いまイエス様が来られたら困る、準備ができていない」、「なぜ、こういうタイミングで来られるの?」という驚きを与える形で来られる、ということが、イエス様のお言葉でよくわかります。

従って、私たちは、主イエス・キリストは、思いがけない時に来られるのだと、よく理解しておいて、いつでも、主イエス・キリストの御前に立てるようにしておくべきだと考えます。

主イエス・キリストの御前に立つためには、主イエスは聖であられる方ですから、私たちも主イエス・キリストの十字架と血によって、聖なる者になっていなければなりません。

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。

(第一ペテロ1:15-16)

主イエス・キリストの十字架と血によって、聖なる者になるとは、主イエスの福音を本当に知り、本当に受け入れ、本当に信じ、主イエスにすべてを明け渡すということです。それは聖書の勉強と、信仰を培うことによります。



聖書で書かれていることが、そのまま起こる、ということを、よく受け止めなければなりません。神は、言葉によって、天地を創造されました。神は、その言葉を、聖書として、人に与えて、備えができるようにされました。神は、ご自身の言葉を否定することができません。すなわち、聖書に書かれてあるように、すべての物事は起こります。

ヒューマニズムで神を理解していると、それは想像を絶する世界です。実はきわめて恐ろしいことが起こります。それは聖書で預言されている通りです。
神を、人間の理解の枠内で理解しようとしてはいけません。神は、人間の理解をはるかに超えた方ですから、聖書の色々な記述が、人間の理解を超えている部分があるように(例えば黙示録の記述や、マタイ24章、マルコ13章、ルカ21章の記述)、神の御業は人間の理解を超えた形で起こります。

人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
(ルカ21:26)

ルカ21:26で書かれている通り、それは「恐ろしさのあまり気を失う」ような展開です。旧約聖書に、神である主がなさった数々の恐ろしい出来事が記されています。例えば、出エジプトの際にエジプトに起こされた10の災いです。また、申命記28章には、神の言葉を守らない民に臨む呪いが延々と記されており、想像を絶する内容となっています。私の解釈では、終わりの日に、神を神とも思わない人々に臨むきわめて大変な状況は、この申命記28章の後ろ2/3の現れです。

神は愛です。確かに、神は愛です。
愛であられるからこそ、そうした恐ろしい出来事から、神を愛する人々を救い上げようとして、御子イエス・キリストをこの地の上に送られたのです。そうして愛する御子イエスを十字架に架けられました。愛する子どもを、十字架に架けて死に至らしめる時、天の父はどんな思いを持たれたでしょうか?それは、主イエス・キリストを見上げる人々を、世の終わりの災いから救い上げる、私たちを愛して下さる愛のゆえに、御子を死に渡されたのです。



主イエス・キリストがこの地の上に再びいらっしゃる時、一人は取られ、一人は残されるということが起こります。これも預言されている通りです。

そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。
ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

(マタイ24:40-41)

悲しいことですが、すべての人が、麦として選ばれる訳ではありません(マタイ13章)。

油を用意している娘たちと、用意していない娘たちのたとえもあります。

そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』

(マタイ25:1-8)

油とは、聖霊を指す、と解釈すべきでしょう。



主イエス・キリストは、もっとも重要な戒めとして、「互いに愛し合いなさい」ということを与えられました。

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

(ヨハネ13:34-35)

これは、大変に当たり前のことのように思えますが、私は特に、終わりの日(終わりの日々)には、互いに愛し合うことがことさらに難しくなるからだ、と解釈しています。愛し合うことがきわめて難しくなるような状況が、マタイ24、マルコ13、ルカ21で預言されている事柄が展開する中で、生まれてくると思います。
また、以下のようにも書かれています。

また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
(マタイ24:10)

この時、人間の考えや努力によって、互いに愛し合うということはできにくいですが、聖霊の助けを借りるなら、おそらくできるでしょう。聖霊によって歩むなら、御霊の実が、終わりの日においても豊かに実って行くでしょう。