日曜投稿:今日、主イエス・キリストの再臨があるとしても | イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

イェホシュアのイスラエルの信仰と証し

1世紀のイエスの弟子たちの初代教会が回復したイスラエル教の教会(エクレシア)であるイェホシュアのイスラエル

 

今週は土曜日全部と日曜日の大半を月曜日出しの調査報告書の仕事で使ってしまったため、色々と調べてじっくり書くことができません。
今、頭にあることを何点かかいつまんで記します。



先週の投稿を上げた際に、最初の数パラグラフは、既存の教会の信徒の指導方針を非難する中身になっていました。
翌日の月曜日朝、神が喜んでおられないという感覚が強く自分に臨み、それがどうしても否定できなかったので、既存の教会の信徒の指導方針について非難めいたことを書いていると読み取れる部分は削除しました。

その数日後に祈っていて、神は、すなわち天の父は、どのような教会であっても、どのような会派であっても、プロテスタントにとっては批判の対象であるカトリック教会であっても、また、どのようなクリスチャンであっても、どのような教職者であっても、全的に愛しておられるということを、はっきりと教えられました。

例えば、自分の視点から見て、教義的に問題があると思われる会派や教会であっても、神は愛しておられるのです。カトリックは問題だと思っている人がいても、そのカトリックを神は愛しておられるのです。

個人的には、携挙論を強調する人たちには違和感を感じていました。以前の投稿にも書いています。しかし、携挙論を強調する人をも、そうでない人をも、神は愛しておられます。

神は人をえこひいきなさいません、というみことばがあります。

神にはえこひいきなどはないからです。
(ローマ2:11)

その通りなのだと思います。



朝、よく、神と交わる祈りをします。祈ると言うより、交わると言った方がよく、神と交わっていて、神を礼拝すると言う感じもあります。こちらから何かを申し上げるのではなく、ひたすら、交わりの時間を持つ、という感じです。黙っているというのではなく、神から受けられるものを、心を全開にして受け取るという姿勢です。

この交わりは、御子イエスを通じて、天の父を見上げるというタイプのもので、まさに、ヨハネの手紙第一1:3に書かれている、「御父および御子イエス・キリストとの交わり」です。

私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
(第一ヨハネ1:3)

この交わりの中で、天の父が、比較的はっきりと、御心をお知らせになることがあります。

この3ヶ月間、何度かおっしゃられたことは、「上げられる人は、多くない」ということです。
主イエス・キリストが再臨なさる際に、天に上げられる人、マタイ13章で言われている「麦」として集められる人のことです。

どういう人が上げられるのか、すべて、福音書の中のイエス様のお言葉にわかりやすく書かれてあることです。それを読んで、そのまま素直に受け止めればよい。そういう風に解釈しています。

ここでまたどの教会がどう、どのクリスチャンがどうということを論じ始めると、それは、パウロが以下のローマ10章で言っていることを犯すことになります。

しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。

(ローマ10:6-7)

私たちは淡々と主イエスのみことばを読み、心に留め、それを守り、毎日を主イエスにあって歩んでいくだけです。自分が上げられるかどうか、人が上げられるかどうかを気にすることなく、淡々と、誠を尽くしていけば、それで十分だと思います。



神の御心は、神を愛するご自分の民を集めることです。

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。
恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。
わたしは、北に向かって『引き渡せ』と言い、南に向かって『引き止めるな』と言う。わたしの子らを遠くから来させ、わたしの娘らを地の果てから来させよ。

(イザヤ43:4-6)

主イエス・キリストを愛することによって、アブラハムに連なる神の子どもとなった神の民は、世界中に散らばっていますが、最後には一つに集められます。主イエス・キリストにあって一つとなります。
それを指し示すみことばはたくさんあります。

ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

(第一コリント12:12-13)

この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、
みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、
時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

(エペソ1:8-10)

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。
(エペソ4:16)

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。
(エペソ3:6)

この集められる時、どの教会に所属しているからとか、何々派だからということは一切関係なく、一人一人のクリスチャンが、教職者と信徒の区別もなく、一人ひとりが主イエスの前に立って、「あなたですね?」と確かめられ、聖書に書かれてあるように集められます。そうして一つになって、天にあるものも、地にあるものも、すべてが膝をかがめて、イエス・キリストは主であると告白し、天の父の栄光をほめたたえます。

それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

(ピリピ2:10-11)

神を愛する人々が、神の民として東からも西からも集められて、イエス・キリストは私の主ですと告白して、天の父を仰ぎ、一つになるのです。



終わりの日(正確には終わりの日々、複数形)には、色々な教会のことや色々なクリスチャンのことが気になります。
けれども、示されているのは、そうした他の教会や他のクリスチャンのことを気にすることなく、聖書に記されているままに主イエス・キリストの道を歩み、天の父を、霊とまことによって礼拝し、毎日を歩んでいけば良いということです。もちろん、隣人も愛さなければいけません。何も特別なことをする必要はなく、主イエスの基本的な戒めを守れば良いというだけです。

 



神を愛すること。これは重要です。あらゆる機会を捉えて、神を愛することを、実践していくべきでしょう。なぜなら造り主であり、いつも、主イエス・キリストを介し、聖霊を用いて、おそばにいらっしゃるからです。(ヨハネ14:23)