信じるとは、どういうことなのか。信仰があるとは、どういうことなのか。聖書のみことばを元に再考する必要があると思います。
というのも、以下のみことばによれば、「信仰をもって聞く」ということが、いかに絶大なる出来事をもたらすものなのか、素朴に考え直させるからです。私も含めて、まだ、信じていないのではないか?主イエスが福音書で信仰が大切だと何度もおっしゃったその信仰を、実は持っていないのではないか?という問いが出てくるからです。
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。
あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。
あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。
とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。
アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。
(ガラテヤ3:1-6)
このガラテヤ3章の冒頭で、パウロは、「あなたがたがあれほどのことを経験した」と書いています。「あれほどのこと」。おそらく、ものすごいことをガラテヤ教会は経験したのです。その内容は、「あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方」とありますから、教会(エクレーシア=信徒の群れ)に御霊が与えられ、主イエスが奇跡を行われた、ということです。奇跡は、主イエス・キリストの御名によって、主イエス・キリストが働かれて起こることです。人が起こすものではありません。それは、以下のマルコの福音書最終節の主語が「主は…」とある通りです。
そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。
(マルコ16:20)
主が、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされるのです。奇跡も、みことばに伴うしるしの一つです。奇跡によって、みことばの信仰による祈りに応じて主イエスが働かれたことが、誰の目にも明らかになるのです(ペテロが美わしの門で生まれつきの足なえを癒された例)。
パウロがガラテヤ教会に宛てた手紙の中で「あれほどのこと」が起こったのは、「信仰をもって聞いた」からだと書いています。おそらく、ペンテコステの日に初代教会に起こった聖霊の下りと同じような出来事が起こったのでしょう(使徒の働き2章)。
「信仰をもって聞く」ことが、いかに絶大なる出来事をもたらすものなのか。
だとすれば、私たち現代の信徒は、本当に「信仰をもって聞いている」のか?という問いが出てきます。
聞くとは、神の言葉です。それはつまるところ、ヨハネの福音書冒頭にあるように、言葉である神、主イエス・キリストです。
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みことばを聞いていると、聖霊が下るということは、使徒の働きに1つのエピソードとして記されています。みことばを聞くと、聖霊が下るわけですから、その「みことば」は、特別な言葉であることは確かです。
ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。
割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。
彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。
(使徒10:44-46)
「みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった」とあります。
このみことばは、この世の言葉とは異なり、特別な「神から来た言葉」です。そのみことばの内容が前の方で記されています。以下です。
そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神はかたよったことをなさらず、
どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられるのです。
神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストはすべての人の主です。
あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。
しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。
しかし、それはすべての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられて後、ごいっしょに食事をしました。
イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」
(使徒10:34-43)
このペテロが語ったみことばの内容は、多岐に渡りますが(旧約聖書のメシア預言〜主イエスの受難〜復活)、一言で言うなら、ペテロが、信仰をもって、一生懸命に、主イエス・キリストがどんな方であったかを証ししている、ということに尽きます。ペテロはここで、主イエスがお命じになった証をしているのです。(マタイ10:18、24:14、マルコ13:9、ルカ21:13、ヨハネ3:33、ヨハネ15:26-27、ヨハネ19:35)
この、信仰をもって、主イエスを証しする、ということは、ヨハネの黙示録に「主イエスのあかしは預言の霊」と書かれているように、特別な意味を持っています。
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」
(黙示録19:10)
これは御使いが筆者ヨハネに言った言葉です。「イエスを証しすることには、預言の霊が働いている」ということを言っています。つまり、主イエスがどのような存在であったかを明かしすることには、神が働いているということです。非常に特別なことであり、人間の業(わざ)ではないということです。
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当時、ナザレのイエスが神の子(メシア)であり、十字架にかけられて三日目によみがえったと証しすることには、命の危険が伴ったことを、知っておく必要はあるでしょう。
以下はTwitterに最近記したメモ。
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イエスが主だと証することは、当時ステパノのように殉教するリスクがあった。ギリシャ語の証には殉教の意味。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
ローマ人への手紙 10章9節
使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
使徒の働き 4章33節
「証する」mártysが初期キリスト教史で「殉教」の意味を持つようになる過程を以下が説明している。当時、証することは殉教することと同意になった。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Martyr
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以下は過去の投稿に記したメモ。
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この「殉教者」という意味の英語”martyrdom”の語源であるギリシャ語”mártys”には「証しをする人」(witness)という意味があり、「殉教者」の平たい意味は「証しをして死んだ人」という意味になります。
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言葉の意味が拡大していく過程は次のようになります。
1. 初代教会の時代に、メンバーたちは主イエスを証し(mártys)していた。
2. 主イエスを証しする人たちの中から、その信仰ゆえに、殉教する人たち(英語”martyrdom”)が出た。
3. 「証しする人(証人)」という言葉が「殉教者」という意味を持つようになった。
ナザレのイエスが、当時のユダヤ教徒が崇めていた「主なる神の子」であり、十字架に付けられて三日目によみがえったメシアであると証しすることには、殺される危険性が伴ったのです。文字通り命がけで、ペテロやヨハネやその他の初代教会メンバーたちは伝道をしていました。
そうした、命がけのメッセージ、ナザレのイエスは救い主であるというメッセージ、ナザレのイエスが死んで三日目によみがえったという人であり、神であるというメッセージ。そこに働く強い信仰。そうした信仰をもったメッセージに、聖霊が働き、聞いている人たちを強く動かして、ペンテコステの日のように聖霊が下ったのです。
ここに記されているみことばとは(使徒10:44-46)、そのように、命がけの信仰を伴ったメッセージであった、ということを理解すべきでしょう。
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こうした主イエスを証しすることには、聖霊が深く関わっています。上述のように黙示録に「イエスのあかしは預言の霊」とある通りです。それは、以下のみことばによってもわかります。
わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。
あなたがたもあかしするのです。初めからわたしといっしょにいたからです。
(ヨハネ15:26-27)
従って、誰かが主イエスを証しするとき、そうしてまた、その相手がそれを聞くとき、そこに聖霊が働いているということです。そうしてそれは、天の父の御心が働いているということでもあります。聖霊は、天の父が送って下さった霊です(マタイ10:20、ヨハネ14:16)。
まとめれば、主イエスのことを証しするみことばを話す人にも、それを聞く人にも、神の御心が働いている、ということです。
これが新約聖書で言う「信仰」に大きく関わります。
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新約聖書ギリシャ語原典で「信仰」と記されている言葉は"pistis"。
新約聖書で使われているギリシャ語を聖書的な観点から説明しているギリシャ語辞典HELPS Word-studiesによれば、この意味は以下だそうです。
Faith (4102/pistis) is always a gift from God, and never something that can be produced by people. In short, 4102/pistis ("faith") for the believer is "God's divine persuasion" – and therefore distinct from human belief (confidence), yet involving it. The Lord continuously births faith in the yielded believer so they can know what He prefers, i.e. the persuasion of His will (1 Jn 5:4).
日本語訳:
「信仰」は常に神から来る贈り物である。決して人から生まれてくるものではない。短く言えば、ギリシャ語pistisは「神から来る神的な説得(神が働いてその人に納得させること)」である。従って、人間的な信じ込むこと(信頼)とは明確に異なる。時にそれを含むとしても。主は、主に身を委ねて信じる人に、継続的に信仰を生れさせる。信じる人はその信仰によって、主が何を好まれるかを知ることができる。(例、神の御心による説得がわかる箇所、第一ヨハネ5:4)
これによれば、信仰とは、「神から来る神的な説得(神が働いてその人に納得させること)」です。そこに神が働くので、そのように理解できるということです。無理くり信じ込むこととは、まったく違います。
このことで思い浮かぶのは、ペテロが、主イエスに対して、「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白した時、主イエスが、そのことを教えて下さったのは天の父であると教えられたエピソードです。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。
(マタイ16:15-17)
ここの2節には、以下の5つの非常に重要な要素が詰め込まれています。
1. 神は生ける神である(「生ける神」は旧約聖書の「主」にしばしば用いられていた表現)(当時のペテロはユダヤ教社会で生まれたユダヤ人。旧約聖書に基づいて神を「生ける神」として理解していた)。
2. その旧約聖書の「生ける神」の子どもがナザレのイエスであるということ。
3. ここでペテロが言っている「生ける神」は「天の父」であるということ(旧約聖書の「神である主」がイエス様がおっしゃる「天の父」であるという啓示的理解)
4. このことをペテロに教えたのは天の父であるということ。
5. 人間がこのことを教えることはできないということ。天の父のみがこのことを教えられるということ。
つまり、天の父が直接的に教えることによって、その人は、福音書のイエスが「生ける神の御子キリスト」であることを理解できるようになるということです。ここに、「神から来る神的な説得(神が働いてその人に納得させること)」が働いています。その結果として「信仰」が生じるのです。
短く言えば、創世記で天地創造をなさった主なる神、アブラハムに現れ、モーセに現れた主なる神が、福音書の天の父であり、御子である主イエス・キリストを通じて、誰もが礼拝できるようになったということです。それが信仰だと言うのです。そうして、主イエスによれば、その信仰は、天の父が教えるもので、人が教えるものではないということです。
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日本語の「信仰」は仏教から来た言葉であり、仏教的な背景を引きずっています。「なんとかの頭も信心から」と昔から言いますが、どうしても、無理くり信じることが信仰である、という文脈になりがちです。信仰とは、人間が努力して信じることだ、という意味がどうしても付きまといます。
新約聖書ギリシャ語原典の「信仰」(pistis)は、「神から来る神的な説得(神が働いてその人に納得させること)」であり、人が教えることはできないものです。
主イエスが、信仰とはどのようなものか。信じる人は、どのようなことを行うか、何箇所かで述べておられます。この信仰は、やはり、人間の努力で得られるものではないし、人が教えられるものでもないことが、よくわかります。信仰は神に関わる事柄です。
イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。
(マルコ4:39-40)
イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
(マタイ17:20)
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
(マルコ9:22-23)
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、
蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
(マルコ16:17-18)
ペテロが使徒10:44-46でみことばを語った時、ガラテヤ教会の人たちが「信仰をもって聞いた」とは、そのような天の父が教えて下さる神の業(わざ)として信仰をもって聞いたのです。それによって聖霊が下り、「あれほどのこと」(奇跡)が起こったのだと解釈できます。
このような「信仰」が天の父から与えられるために、私たちは祈らなければなりません。主イエスの名によって祈ることで、天の父は何でも私たちに与えて下さいます。このような本当の「信仰」をも必ず与えて下さいます。なぜなら次のように書いてあるからです。
その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。
(ヨハネ16:23)
天の父が直接教えて下さる「信仰」を求めて祈りたいと思います。